その9
ストーカーという犯罪が放つ危険な匂い。不審者の背中からは、そんな危険な匂いは感じられない。だがしかし、それとはまったく別報告の危険な香りを振りまいてくれている。
私は不審者に背を向けた。関わらない方が身のためだ、と感じたからだ。だが、不幸な遭遇は不幸な邂逅を生むものだ。
やつは私の背中に声をかけて来やがったのだ。
「あの、失礼ですが」
不覚にも足を止めてしまった。だがソフトのひさしを深くさげて、極力顔をさらさないようにする。できうる限り、必死の防御態勢だ。
しかしやつは、不審者のクセに押しが強かった。
「あの、あなたも同好の士というやつでは?」
ここで足早に立ち去ることは簡単だ。しかしそれでは、学校周辺を縄張りにして張り込みができなくなる。なんとしてもこの場で、この不審者に勝たなければならない。できれば二度とこの辺りをウロつかなくなるように。完膚なきまでにだ。
私はキャメルを一本。踊るようにしなやかな動作で火を着け、頭のソフトを押さえながらターンを決めた。
「おや? 私などに声をかけるミスター、あなたは?」
ひさしの下から片目で、不審者の姿を盗み見た。私より年かさでスーツ姿。カッチリとした七・三分けと中年メガネが印象的な、古くさいサラリーマン、といった風体であった。
「これは失礼。私はこういう者です……ハアハア……」
名刺を差し出してきた。そして冬空の下というのに、ハンカチでしきりと汗を拭っている。
私は名刺を受け取るのを、少しだけためらった。名刺が汗で湿っていそうだったし、その湿気から何かに感染してしまいそうな気がしたからだ。
感染といっても、病気の話ではない。この男が持つ危険な匂い。あるいは魔性の香りがうつりそうな気がしたのだ。
だが意を決して、名刺を受け取った。そこには大手ゼネコンの名称と、営業課で係長の役職が記されている。もちろん彼の名前も入っていたが、可能な限り記憶に留めないようにした。私は彼に勝利するために接触したのであって、関係を持ちたいとか交流をはかろうとか、これっぽっちも考えていなかったからだ。
「では、私の方も……」
まだ長いキャメルを捨てた。礼儀として、私も名刺を返す。
もちろん私の名刺ではなく、同業者の名刺だ。こんな怪しい男に、私の事務所を知られるなどまっぴらである。
「おや、興信所の探偵さんでしたか」
「御用のおりにはお電話ください、お待ちしております。……時に〇〇さん」
男性の姓を口にしたはずなのだが、その姓をすでに忘れている。私の防衛能力は完璧であった。
「〇〇さん、いま同好の士とおっしゃいましたが、どのような御趣味でしょうか?」
「おっと、これは重ね重ね失礼を」
二度三度とおじぎを繰り返すことができるあたり、プロフェッショナルのサラリーマンと言える。そんな過酷なサラリーマンの、わずかな息抜き。怪しいながらもささやかな、憩いのひととき。それを邪魔するなど、無粋の極みとしか言えないだろう。
だが私とて、井上夏海の安全がかかっているのだ。氷よりも冷たく、鋼よりも硬い意志を備えて、立ちはだからなければいけない。
一連のおじぎを終えると、中年は顔を上げた。
「実はですね、探偵さん。私はその……セーラー服というものに大変興味がございまして」
「……ほう」
「とりわけこちらの天宮南高校のセーラー服は、無駄な飾りを排除した伝統的なセーラー服でして、私どもの業界では一見の価値あり、と有名なんですよ」
「なるほど、そうですか」
私どもの業界とは、どこの業界なのか? あえて訊いたりはしない。訊けば最後、面倒くさいことになるのは、火を見るより明らかだ。