その8
翁に渡されたナッツの袋を開き、マダムは一粒だけ唇に押し込んだ。
「それじゃ、なっちゃんの件ね」
ナッツを噛み砕く音も心地よく、マダムは報告をしてくれた。
「まず誤解のないように。……なっちゃんは、ストーカーの被害に逢っている訳じゃないの」
「どういうことじゃ?」
いつの間にか真面目にカメラをのぞき、監視活動を再開した翁が、面白くなさそうな声を出した。
「井上さん、ストーカーの被害でどんなものを思い出しますか?」
「あ〜〜……しつこくつきまとわれたり、四六時中監視されたり、かな?」
「では探偵さんを意見は?」
いきなり振るかい?
だが、私はプロ。マダムから不正解をいただく訳にはいかない。とりあえず無難な解答を……。
「実際のストーカー被害には翁の言ったことも含まれますが、それ以外にも留守宅に侵入されたり物色されたり、個人の秘密……プライバシーを侵害されたり、というのもありますね」
「薄っ気味悪い野郎じゃな」
「ストーカーですからね。挙げ句の果てには、もらって嬉しくないプレゼントまで置いてゆく場合もあったりで、被害者としては気色悪いことこの上ないものですよ」
「ンな奴に夏海はつけ回されてるのか?」
翁はバーボンを一口。老いて重く垂れ下がったまぶたの下で、刃のような眼光を放つ。
「そう、そこなの」
マダムはテントに腰をおろした。
「なっちゃんが言うには視線や気配は感じるけど、振り替えると誰もいなくて。被害らしい被害もなければ姿すら見てないから、探偵さんにも相談できなかったらしいわよ?」
「なるほど、つまり我々のおせっかいは正解だった、ということだね?」
「女の子の気持ちをもっと敏感に察してあげたなら、より高得点を与えられたけどね」
マダムは笑った。
私はソフトをかぶり直す。キャメルは携帯灰皿で揉み消して、酔った足を境内に向けた。
「どこ行くんだい、探偵さん」
「ちょっとなっちゃんのそばまでね。ひょっとしたらストーカー犯も、彼女に接触を試みているかもしれないので」
まさか鉢合わせは無いだろうが、現場をこの足で歩くのは有効である。調査や捜査に空振りなと無いものだ。私は車の中に、電波探知機が入っていたのを思い出した。ポケット・ラジオほどのサイズで、違法電波を関知できるものだ
二人に背を向けて車まで戻る。助手席側の小物入れを探ると、電波探知機が出てきた。それをポケットに忍ばせて、車のドアにロックをかける。
私は徒歩で学校を目指した。距離があるとはいえ、こちらは痛飲している。多額の罰金を警察に納めるのは、私の趣味ではない。幸い寒気がつよい。いくら歩いても、そう簡単に体は温まらないだろう。つまりアルコールが急速に回る、ということは無いはずだ。ゆっくりとした足取りで、冬の散歩道を楽しんでいるかのように装い、長い坂道を下ってゆく。
冬とはいえ、太陽は高い場所にあった。かなりの距離を歩いても、私はまったく汗を かかなかった。極力日陰を歩いたのもあるが、気温が記録的に低いのだろう。日陰という条件つきならば、アスファルトの氷はいまだ健在。歩道の薄氷も道行く人たちの足元を、執拗なまでにねらい続けている。
襟元にニットのマフラーでも欲しくなるが、こちらも歩いている身だ。かえって暑苦しくなる。そうなると血液に混ざった大量のアルコールが目を覚まし、せっかく胃袋の中に納めたものを「もったいない」ことにしてしまうかもしれない。
それは探偵の美学に反する。例え寒気が牙を剥いても、それに立ち向かうのが探偵というものだ。
ハードボイルドを禁欲主義と、かつて誰かが訳していた。まったくその通りである。己の信ずる美しさのために、自分がどれだけ貢献できるか? 男という生き物は常にそこを試されているのだ。
それをやせ我慢などと言ってはいけない。ぶっちゃけた話、まったくその通りなのだから。
とにかく、車でもそれなりの距離を、私はひたすら歩き続ける。途中でなっちゃんの様子が気になり、マダムに電話を入れてみた。これといった異常は見当たらない、という返事だ。
異常なしという報告と、マダムが意外と真面目に張り込みしてくれたことに、私は胸をなでおろした。何か異常があったときには、一報入れてくれるよう頼み込んで電話を切る。
目的地に到着した時には、正午を回っていた。
学校はこれから昼休みだ。もしかしたらストーカー犯にも動きがあるかもしれない。例えば犯人の目的がなっちゃんの写真を撮ることならば、授業中の澄ました顔から昼休みのリラックスした表情に標的を切り替えるだろう。
念のため私は電波探知機にイヤホンをつなぎ、コートの中を通して耳に押し込んだ。それから電源を入れる。
私は校舎の周辺を、住宅街にそって歩いた。注意力は耳に六割、目に四割である。
閑散とした生活道路を歩いていたが、私はにわかに足を止めた。
電柱に身を隠した男がいたからだ。トレンチコートの背中は、ハアハアという息づかいが聞こえてきそうなほど、上下に波打っている。
私が平和を愛する一般市民であるならば、すぐにでも声をかけるべきであったがそれを躊躇した。
男の背中には、人の不安をかきたてる気配が漂っていたからだ。
その気配には見覚えがある。先日アニメ・ショップを紹介してやった、あの男の気配に近いものである。