09話 「急転」
本格的な夏の訪れが迫った、全国で梅雨明けが正式に発表された、初夏。
学生の長期休暇を間近に控える中で、駆の学校では、今学期最後の山場となる期末試験を前にして、教師も学生も、何処かそわそわしていた。
当然、学生としては、今後の内申点を左右する重要なことであるため、試験範囲となる、これまでの授業後の総復習に忙殺されている。教師の方も、通常の業務に加え、定期試験の作成などで、慌ただしい時期となっていた。
教師である緒環も、只今、担当する授業時間外となる、空き時間を利用して、職員室にて定期テストの問題を作成していた。
学校のカリキュラム上では、現在は4限目の授業中であり、授業の予定が入っていない他の教師たちも、緒環と同様に、空き時間を試験問題の作成に充てている様子で、職員室では忙しなくパソコンのキーボードを叩く音が聞こえてくる。
駆の学校では、定期試験の問題は、出題形式や出題傾向が、実際の入試問題に即した形での作成が考案されているため、普段から受験を意識した勉強方法が確立出来るような試験制度となっている。
そのため、各教師たちは、私立か国公立か、或いは文系か理系か、といったそれぞれの志望コースに合わせた、適切な試験問題の作成が求められていた。
緒環は、各志望クラス毎の、いくつかの有名大学の過去問を参照し、それを学校の定期試験に相当な難易度に落とし込むといった、緒環が普段行っている作業手順で試験問題を作成していた。
その上で、生徒には、授業中に確認した事項や、授業で扱った内容を重点に置いた出題を心がけていた。そのため、授業をしっかりと聞いて、その内容を理解するように努めていれば、自ずと良い点が取れるよう工夫が成されていた。
緒環は、試験直前になって、付け焼き刃で知識を詰め込む生徒よりも、普段から授業をしっかりと聞いて真面目にコツコツと勉学に励む生徒を好んでいたからだ。
やがて、一通りの完成の目処が付いたところで、緒環は背もたれに体を預け、小さく伸びをした。そして、一息を付くため、小休止も兼ねて備え付けてある給湯器でインスタントコーヒーを淹れようと席を立つ。
「緒環先生は、今から休憩ですか?」
すると、緒環が休憩に入ろうとするのを確認したのか、同じように試験問題の作成に取り組んでいた、真駈から声が掛かった。
「そうですね。私は、テストの方はもう粗方作り終えたので、一息入れようかと。
真駈先生も、どうですか?」
「あっ、すみません。ではお願いします」
真駈は、緒環のご厚意をありがたく頂いた。
緒環は、給湯器の側にある食器棚から、マグカップを二つ取り出して、その中に粉を入れてお湯を注いだ。
淹れ終えたインスタントコーヒーを両手に、片方を高萩の元へ運ぶと、緒環も自分の分のマグカップを持って自分の席に腰掛ける。
「ふう。これで、次回の授業で試験範囲を全て押さえて、今学期はこれでほぼ終了です」
「お疲れさまです。流石に長年勤めているだけあって、緒環先生は仕事が早いですね」
「まあ、こればかりは慣れの問題ですよ。真駈先生は、あとどれくらいです?」
「私は、地理と公民を兼任しておりますので、進捗状況は全体の6割くらいですね。予定では、今週中には完成するかと思います」
「あー、そう言えば、真駈先生は現在、国公立クラスの担当でしたね」
「そうなんですよ。まあ、授業も順調に進んではいるので、カリキュラム通りには問題なく終わりそうですけどね」
真駈は、そう微笑みながら、緒環の淹れたインスタントコーヒーに口をつける。
真駈は、社会科の教師であり、駆の学校では国公立の大学を受験する生徒のため、センター試験で選択する科目の授業も同様に取り扱っていた。
よって、真駈は、各生徒がセンター試験対策のために、必要に応じて受講出来る選択制の授業も兼任しているため、通常の教師よりも負担が大きい。
因みに、緒環は主に国公立、私立を含めた、文系の大学を志望するクラスの英語を受け持っている。
「ところで、話は変わるのですが、最近の彼方の様子はどうですか?」
コーヒーを飲んで一息付いたところで、真駈は、おもむろにそう切り出した。
「彼方ですか? うーん、最近は特に何もないですね。不審な点や、目立った動きもありませんでしたし」
緒環は、顎に手を当てて、記憶を思い起こしてみるも、特に思い当たる節はなかった。
「では、緒環先生が見る限りでは、学校内での怪しい素振りはないと」
「そうですね。まあ、この間の一件が相当に印象が強かっただけで、実際は、普段から特別に素行の悪い生徒ではないですからね」
とは言うものの、彼方の仕出かした事が事だけに、教師からの叱責と反省文だけで、彼方が心の底から更正して万事解決、であるとは考えづらいのも頷ける。
あの時の彼方の反応や受け答えからして、喫煙していたことについても、つい魔が差して手を出した、という感じではなく、如何にも常習犯であったことが見てとれたからだ。
よって、緒環としても、今後も目を光らせておくことには賛成出来る。
「まあ、真駈先生の懸念も十分に理解出来ますので、もし、彼方に何かあれば報告しますから、安心して下さい」
「そうですか、それは助かります」
緒環は、引き続き彼方の動向を注視する旨を伝えると、真駈は、緒環に感謝の意を示した。
緒環は、真駈のその反応に、何故かは分からないが、おやっと思う。
元々、感情をストレートに表に出すタイプではないとか、或いは感情を表現するのが苦手であるとか、そういった理由からではなく、まるで互いの認識に微妙な齟齬があるような、そんな違和感を抱かせた。
だが、その違和感の正体が掴めないまま、緒環の意識は不意に発せられた声の主へと向けられた。
「何々、また彼方が何かやらかしたんですか?」
そう言って、二人の雑談に交じるのは、数学教師の掛飛 柾樹であり、彼もまた、2学年の数学の授業を通じて、彼方との面識があった。
「いえ、今のところは、特に何もないですね。掛飛先生は、彼方に関して、何か気になることでも?」
「いやー、私も特に気になることはないですね。と言うか、彼方も馬鹿ではないだろうから、そう何度も目立つようなことはしないだろうし、大丈夫なんじゃないの?」
掛飛の楽観的な発言に、緒環は眉をひそめる。
思わず、真駈と掛飛の会話に首を突っ込んでしまう。
「掛飛先生、それはそうかも知れませんが、影に隠れて何か悪さをしているか分からない、ということが問題なのではありませんか。その懸念が生じる以上は、ある程度意識して見てやらないと」
「そうは言ってもね、別に表立って騒ぎになるようなことでなければ、それは自己責任の範疇ではないかと思いますがね」
掛飛のその言葉に、緒環の眉が吊り上がった。
「掛飛先生、それは、教師としての立場を考えれば、如何なものかと。目の前に、規律を守れない生徒が居るならば、それを未然に防ぐべく動くのが、我々教師の役目ではないですか?」
緒環の表情が、次第に険しさを帯びていることに気付きつつも、掛飛は鼻を鳴らす。
「そうやって、生徒の一挙手一投足を注視されたら、それこそ生徒にとっては余計なストレスの火種になり兼ねませんよ。
教師なら、ある程度は生徒の自主性に任せて、その上で、そこからの軌道修正に徹しないと。でなければ、いつまでも生徒自身に、自主性や責任能力は身に付かないと思いますがね」
「そのことと、教師が問題を見過ごして良いこととは別問題だ。いずれ社会に巣立つ生徒たちに、正しく社会のルールを学ばせることも、教師の勤めでしょうが」
「だから、まだ彼方が悪いことをすると決まった訳じゃないんだから、見過ごすも何もないでしょうよ」
「お二人共、仰りたいことは十分に理解出来ますから、ここはどうか、お互い抑えて下さい」
議論がヒートアップしている状況を察した真駈が、慌てて二人の間に割って入る。
先程までの穏やかな空気は何処へやら、今や険悪なムードが場を支配している。周囲の教師たちも、下手な横槍はやぶ蛇になり兼ねない状況であり、事態の成り行きを、固唾を飲んで見守るしかなかった。
「生徒の自主性を重んじることも、生徒が道を踏み外さないよう導いて行くことも、教師に必要な役割でしょう。お二人のどちらが正しいとか、そういう次元の話ではなく、そのための方法論や、線引きの仕方に違いがあるだけです。
このまま言い合っても、水掛け論にしかなりませんし、互いにそのことを理解して、尊重し合うことが重要だと思いますよ」
なおも懸命に説得を試みる真駈に対して、緒環と掛飛も内心はどうあれ、事態の収捨を図るために、一応の矛を納めた。
場の空気が弛緩するのが感じられて、周囲の教師たちも、ほっと胸を撫で下ろす。
「まあ、元々彼方の動向に注意するよう呼び掛けたのは私ですが、本当に、ただ彼方の様子が気掛かりであっただけですから、論争になる程のことではありませんよ」
「確かに、真駈先生自身も、念のためという意味合いが強いと仰っていましたし、少し大袈裟に騒ぎ過ぎたかも知れませんね」
真駈の発言に、掛飛も同調した。
それで、この話は終わりとばかりに、このまま別の話題へと移り変わる。
「そう言えば、掛飛先生の娘さんって、今年で15歳でしたっけ?」
「そうなんですよ。だから、今年は受験で忙しくてね」
「ウチを受験なさったりはするのですか?」
「いやぁ~、娘がね、父親の居る学校は絶対に嫌だ、なんて言っていましてね。何だろう、反抗期かな?」
「まあ、年頃の女の子ですからね。もしかしたら、単に気恥ずかしいだけかも知れませんよ」
「だと良いんだけどねぇ〜」
緒環は、真駈と掛飛のやり取りに相槌を打ちながら、先程の掛飛との議論を思い返す。
緒環自身、物事の考えや捉え方が、前時代的で融通の利かない、頭の固い人間であることは自覚していた。それ故に、他の教師や生徒たちと、考え方や価値観の違いから衝突することも多かった。
確かに、掛飛の言うように、全ての行動の結果は本人が背負うということをしっかりと自覚せねばならないし、それが己の責任であることも理解しなければならない。
遺憾なことに、それらをしっかりと自覚しないままに社会に出る人間が多いのもまた事実で、責任転嫁やスケーブ・ゴートは世の常であると言える。
だが、責任とはいつだって、社会的規律の中で生じるものだ。
自らの規範となる、倫理、道徳、常識を自分の中でしっかりと根差すことが出来て初めて、己を律し、己の行動や考えに責任を科すことが出来る。
そうして培われた、規律に基づいた行動や理念こそが、責任と呼べるものであるべきと思うし、ひいてはそれが、己の正しさや正義になると、緒環は信じていた。
だから、倫理観や常識、或いは人生観を確立していく思春期の段階で、己の歪な尺度で物事を判断し、社会的規律を蔑ろにする彼方を、緒環個人としては許すことが出来ないし、彼方自身の考える責任や正義を認めることも出来ない。
勿論、そうした物事の捉え方が、杓子定規で時代錯誤な考え方、と言われればそれまでかも知れないが。
そこまで考えて、緒環は、先程の真駈との会話で生じた違和感の正体に、はたと気付く。
それは、真駈が何故に、彼方の動向に注視するようになったかの動機に、思い至る点がないことだ。
本来、真駈は、社会的規則や規律に目くじらを立てる緒環のようなタイプの人間ではなく、どちらかと言えば掛飛のように、生徒の自主性を尊重する考え方が強い。
そのため、彼方がした行為が社会のルールに背いたものであったとしても、それをもって直ちに生徒を叱責する性格ではないし、規則の遵守といった表層的な評価基準ではなく、真駈なりの評価軸で、生徒の本質を見極めようとする教師だ。
だからこそ、実際に、真駈と彼方の間で何があったのかは分からないが、単に素行が悪い生徒であったという理由だけで、生徒に対して監視紛いなことをするのは、真駈の性格からして何処か考えづらいことであった。
「――さて、私はまだやることが山積しておりますので、そろそろ仕事に戻りますね」
気付けば、真駈は、マグカップに残っていたインスタントコーヒーを飲み干すと、休憩を切り上げ、自らの仕事に取り掛かり始めた。
緒環は一瞬、彼方を注視する真駈の意図について問いただしたい欲求に駆られたが、真駈が仕事のために気持ちのスイッチを切り替えた今、それを聞くのは憚られた。
仕方なく、午後からの授業のための準備をしておくことにし、緒環は、机から授業で使う教科書を手に取り、授業の単元の確認をすることに決めた。
すると、校内アナウンスを知らせるチャイムが鳴り響き、放送室から、「真駈先生、お客様がお見えになっております。至急、応接室までお越し下さい」という呼び出しが掛かった。
「私ですか? 一体誰だろう?」
「あれ、真駈先生、今の来客って、もしかしてアポなしですか?」
真駈の反応を見た掛飛が、もしかして、といった調子で問い掛ける。
「そのようですね、事務員からも、何の連絡もなかったですし。参ったな、何もこんな時期に来なくてもいいのに………」
真駈は、突然の来訪者に、これからの予定の見直しを迫られて、あからさまな落胆を隠せない様子であったが、呼び出しには素直に従い職員室を後にした。
後に残る教師たちは、それぞれが思わず顔を見合わせる。
「この忙しい時期に誰だ?」
「もしかして、保護者からのクレームでしょうか?」
「それはないと、信じたいですけどね」
「今の放送って、馳部先生かな?」
「そうみたいですね。おおよそ、校内の巡回中にでも頼まれたんでしょう」
周囲の教師たちは、今の放送についての意見を口々に言い合う。
そのような中で、緒環は何故か、この放送を聞いて名状し難い不安に襲われた。
突如押し寄せてきた不安に困惑しながらも、その原因は何なのかと自問自答する。
単純に普段と違う出来事が起きたために、何か厄介なことが舞い込んだのではないかと、根拠のない不安に神経が過敏になっているだけなのではないだろうか。
或いは、つい先程、誰かが触れた保護者のクレームという言葉から、教育現場にはありがちなモンスターペアレントを連想し、それを今の放送での呼び出しと結び付けてしまったのかも知れない。
そうやって、自身の言い知れぬ不安に対して何とか理屈を付けて納得しようとするのだが、この奇妙な不安は終ぞ消し去ることは出来なかった。
「――さて、これでもう後戻りは出来ませんね」
馳部は、放送室でマイクのスイッチをオフにすると、そんなことを呟いた。
既に、真駈は訝しげながらも、来客との面会のために、応接室へと向かっている筈だ。
そこには、先日馳部の魔法によって操られた、ビラ配りの男を待機させている。
この男は、現状における不満や嫉妬、劣等感といった、ありとあらゆる負の感情を強く持ち合わせた、正に今回の計画にうってつけの存在だ。
日々の甘えや努力不足、或いは何事に対しても受け身な姿勢や、この男の根底にある依存体質など、自らの瑕疵を棚に上げて、挙げ句何もかも上手く行かない現状や、社会に適合出来ない現実の全てを社会や環境、或いは他人のせいにして、あらゆる理不尽や不条理にすり替える人間であった。
だからこそ、そんな男の理不尽や不条理に対する憎しみの矛先を、学校内の教師や生徒に向けるよう誘導することは容易かった。
こういう人間にとって、己の怒りの捌け口は実際には何でも良くて、拳を降り下ろすことの出来る大義名分さえ与えてやれば、それがどんなに筋違いなことであろうとも、無思考にそれをやってのけるだけの精神構造をしているのであろう。
つまるところ、この男は、人生における挫折の中で世界に己を否定されたかのような錯覚に陥っており、それ故に、根底の欲求は、自らを肯定する存在に他ならない。
なので、ちょっと甘い言葉を囁けば、後は如何様にもコントロールすることが出来た。
今、応接室に居るこの男の手には、この学校の野球部の部室から拝借してきた、金属バットが握られていた。
これから行われることは、この男の憎しみのままに、金属バットを振り回して学校内を徘徊するという、計画と呼ぶにはあまりにお粗末な蹂躙劇であり、馳部はこの身の毛もよだつ光景を想像して、ぞくりと背筋を震わせた。
当初は、被害を最小限に抑えるため真駈だけを襲わせることも考えたが、それでは、あからさまな真実の隠蔽であるという疑惑を益々強める結果だけに終わってしまい、こちら側にメリットが何一つない。
結果として、疑惑を深めることは避けられなかったとしても、最低でも、疑惑の矛先を少しでも増やして様々な可能性を検討せざるを得ない状況に持っていく必要がある。
そのためには、やはり、不特定多数の被害が必要不可欠であるという結論に達した。
それでも、不思議と心は落ち着いており、これからの現実にもきちんと冷静に受け止めることが出来るだろう。
もうじき、校内は酷い騒ぎになる。
巻き込まれない内に、安全な場所に避難しておかなければならないだろう。
馳部は、今回起こる騒動が、我々にとって有益なものとなることを期待しながら、放送室を後にした。
それは、ともすれば聞き逃したかも知れない微かな物音に、明は思わず耳をそばだてた。
聴覚を研ぎ澄まして辛うじて聞こえてくるのは、誰かの怒声と、何者かと争うような激しい物音、それとガラスの割れたような音であった。
一連の騒音は、明の居る教室からはそこそこの距離があるだろうということと、時間にして十数秒に満たない程の、短い間で途切れてしまったがために、明のように特に意識した者は居なかったようだ。
しかし、今の物音から推測するに、ただならぬ雰囲気が感じられる。
明は、つい先程、放送室でアナウンスされた真駈の応接室への呼び出しを思い出していた。
そして、今の物音の発生源と考えられる場所も、応接室のある方角でほぼ間違いはない。
そこまで思考を巡らせた時点で、自然と明の表情は固くなっていった。
これは全くのカンでしかないが、恐らくは真駈の応接室への呼び出しと、今の一連の騒音は無関係ではないだろう。状況的に見て、こんな偶然の一致はあり得ないと思うし、もし仮に明の想像通りでないとしても、先程の騒音の程度からして、いずれにせよ状況は確認せねばなるまい。
明は、今一度騒音のした方向を思い浮かべる。
騒音があった方向には、今現在生徒が出入りするような教室はなく、物音が発生するような場所は応接室だけになる。
これは、来客が訪れた際に、生徒たちの話し声や物音で、迷惑が掛からないように配慮がされているためであるが、それは同時に、先程の騒動に気付くものが出来るものが非常に限定される、ということが問題となるだろう。
仮に、騒音の発生源を応接室とするならば、そこから最も近い教室となるのが、明の居るこのクラスであった。
状況的にみれば、今の騒音に気付ける可能性が一番高いことになるが、明が確認出来る限りでは、明以外に先程の物音を聞き取れた者は居ないようだ。今の時間が授業中であったことも、そうした現状の一端を担っているに違いない。
「それじゃあ、この問題を、翔田君に解いて貰おうかな?」
思索に耽っていた明が顔を上げると、英語教師である蓮江 巡が、明を指名していた。見れば、蓮江は明に顔を向けたまま、頬を引きつらせている。
蓮江の授業では、普段はあまり質問を投げ掛ける形で授業を進めることはせず、基本的には、一方的な授業運びとなることが多い。
ただ、教師の目の前でろくすっぽ授業も聞かず、その間ずっと余所を向いてあからさまな授業放棄をされれば、蓮江としても、流石にそれを見過ごす訳にはいかなかったのだろう。
明は、自業自得だし仕方がない、と素直に答える。
「すいません、英語だったので、何を言っているかさっぱり判りませんでした」
夏場であるにも拘わらず、教室内の気温が数度下がった。
教室の至るところから突き刺さる視線が痛い。
「うん、と言うより、そもそも話を全く聞いてなかったよね? それと、授業中の解説とさっきの私の質問は、思いっきり日本語なんだけどな?」
心なしか、先生の声のトーンが先程よりも低くなる。
明は、平静を装うように努めながら、なおも詭弁を弄することに神経を注いだ。
「先生、それは違いますよ。きちんと、聞こうと努力はしました。ただ、俺の頭では理解出来なかっただけです。あと、一部が日本語であっても、全体が把握出来なければ意味がないじゃないですか。
そうやって、ただ出来ていない結果だけを見て、色眼鏡で否定するのではなく、きちんと過程を踏まえて評価することも、教師としての勤めだと思いますが」
途端、蓮江の口元が歪んだ。
恐らくは、ここで激昂する訳にはいかないと考えたのか、懸命に笑みを保とうとしていることが窺えたが、顔が全然笑っていなかった。
「ほう。じゃあ、翔田君は、授業内容はしっかり理解しようとしたんだね?
なら、その努力は評価してやるから、何処までが理解出来て、何処が分からないのか言ってみなさい」
「今、申し上げたいのは山々ですが、生憎授業時間が勿体ないですし、他の生徒にもご迷惑が掛かりますので、割愛させて頂きます」
チョークがポキリと折れる音がして、ポトリと床に落ちた。
ふーっ、と長い息を吐く蓮江が目に映る。
「………良く分かった。まあ、これで翔田君の内申点は、最低評価となるだろうから、その覚悟だけはしておいて」
明は、蓮江の爆弾の投下に、目を見開いた。
「先生っ!? それは卑怯ですよ! 横暴だ!」
明は、机を拳で打ち鳴らしながら、さも憤然といった様子で抗議する。
マズいっ、悪ノリが過ぎた。
「ん、何故だ? 先程君が言った通り、きちんと過程を踏まえた上での評価だけどね。
当然、君の授業態度も、しっかりと考慮させて頂きますから」
「すみませんでした! これからは、授業態度も真面目に、しっかりと授業を聞きたいと思います! 何卒、ご再考の程よろしくお願い致します!」
明は、すぐさま謝罪に転じて、自らの名誉の回復に乗り出す。
蓮江は、そのような自らの立場が悪くなった途端、都合良く謝る明の態度に釈然としないものを感じながらも、明の狼狽する姿を見て多少の溜飲は下げられたのか、小さく咳払いをした。
「過程を評価して欲しいと思うなら、まずは自分の授業態度から改めるようにしなさい」
蓮江は、明の元へと歩み寄り教科書で頭を叩いて見せると、教室は笑いに包まれた。
明は頭を押さえ、痛みに顔をしかめつつも、どうやら最悪の事態は避けられそうかな、とホッと一息を付いた。
そしてふと、明は、蓮江に先程の騒音について、この場で伝えるかどうかを迷う。
先程の騒音が、明の考えるように本当に誰かが争った物音であるならば、到底見過ごせる問題ではなく、少なくとも誰かに報告は必要だろう。
しかし、厄介な点は、明のこうした考えは全て臆測に過ぎず、確証も何もないことだ。
このクラスの殆どの生徒が、あの騒音に気付けたかどうかも怪しいのでは、明の発言の真偽を見定めることもままならないため、そもそもが荒唐無稽な内容であることから、気のせいの一言で片付けられてしまうことも十分に考えられる。
また、その事実が一定の理解を得られたところで、緊急性がないと判断されれば、結局、確認を取るべく動くのは授業が終わってからになるだろう。ならば、別に今すぐこの場で報告することと、授業が終わってから自らが状況を確かめに行くことに、大きな違いはない。
未だ、内心の不安は拭い切れないが、一人浮き足立っていてもどうしようもないため、一度冷静になるように努めた。
実を言うと、物騒な音を実際に耳にした以上、事実をこの目で確かめたいというのが本音ではあった。
なので、物事を前向きに捉えるなら、自分が真っ先に真相に立ち会えることは、むしろ光栄であると考える方が精神衛生上好ましいだろう。
そうと決まれば、善は急げだ。
明は、教室の壁に掛けられた時計を、チラリと見やった。授業の終了時刻まで、およそ10分程度と言ったところだろうか。
明は、授業が終わり次第、いつでも教室を飛び出して行けるよう、授業の終わりを告げる鐘の音を、今か今かと待ち望んだ。
――この時点で、明には知る由もないことであったが、事態はもう既に、悠長に事を構えていられない程に切迫していた。
明の想像通り、実際に物音は応接間から発生しており、応接間に向かった真駈が来客である何者かに襲われたことも間違いがなかった。
だが、事態はこの場に居る誰もが予測出来ない形で進行していて、まさか、明自身に直接的な危機が迫っていることなどとは、想像の埒外であったに違いない。
果たして、今回の事態を引き起こした犯人は、真駈を滞りなく処理した後、次なる行動はどういったことが想定されるだろうか。
物事を俯瞰して捉えられる我々にとっては、既にご存知の通り、犯人はこれから、この犯行が特定の意図を以って引き起こされたことを看破されないために、学校内の人間を無差別に襲うことになる。
そのために、犯人がまず向かうであろう場所は、必然、現在人の集まる最も応接室から近い距離にある教室になることも、我々にしか認知出来ないことであった。
皮肉なことに、明にとって最大の不幸だったことは、この事態の始まりにいち早く気付けたにも拘わらず、自身の身を守る術を何一つ持たなかったことだろう。
不意に、教室の扉が開かれた。
教室に居る教師と生徒たちが、一斉に視線を移すと、目の前には見知らぬ闖入者が映る。
若い男だった。
明は、突然の出来事にポカンとした表情を浮かべたが、その者の手に握られている金属バットを確認すると、驚愕に目を見開いた。
思わず、その男の顔を見ると、お互いに目が合ってしまう。あまりの恐怖に身が竦んだ。
男は、真っ先に明を標的と定め、バットを振りかざした。
明は、何か言葉を発しようと、唇が微かに動いたが、か細い吐息が漏れただけに終わった。
何が何だかわからないまま、明の意識は暗転する。
教室内で、弾かれたように悲鳴が迸った。




