03話 「日常の始まり」
駆は静かに目を覚ました。
目に入るものは、慣れ親しんだ自室の天井。それに付いた、一つひとつの染みまで把握している程である。
体を起こして、周囲を眺める。相も変わらず、これといった特徴のない無個性な室内の装飾。だがそれは、今の駆を何よりも安堵させ、平穏無事な日常を、改めて大切にしたいという想いを噛みしめさせた。
このまま、日々の幸福に浸っていたい欲求を抑える。もう既に、これまでの日常は終わってしまって、これからのことを考えなければならない。
日常の終焉と共に、新たな日常の始まりは訪れる。
今日は平日だ。駆は、学校の支度をする準備を始めた。
駆の通う高校は隣町にあり、最寄りの駅から2駅程離れている。
駆は、最寄り駅で乗車し、電車に揺られる。それは日々の焼き直しのように変わらず、いつも通りに目的の駅を下りる――筈が。どうしたのか今日は、閉まるドアを見送って、その先の駅へと足を運ぶ。
向かう先は、比較的大規模なターミナル駅。複数の路線の集積点となる主要な駅は、学生、社会人、観光客を問わず、様々な肩書きをもつ人々が入り乱れた場所でもある。
そのような場所に駆は、ある者との待ち合わせの為に途中下車をした。周囲を見渡す限り、お目当ての人物はまだ到着していないようだ。
駆は、携帯電話を取りだし、時刻を確認する。まだ、約束した時間迄には余裕があった。
駆の待ち合わせている人物は、駆の街の土地勘はなく、また、この世界の基本的な都市機能や、交通システムについての理解度が著しく低い。
一応、事前に一通り、駆の世界での生活に最低限必要な知識と一般常識は伝えてはいるが、それが実際に現場で生かせるかどうか、という不安に駆られる。もしかしたら、未だどうしたらいいか分からず、右往左往しているかもしれない。
そんな不安をよそに、不意に駆に声が掛かった。
「ゴメンゴメン。もしかして待たせた?」
親しみを込めて呼ぶその声の主は、本来この世界に居る筈のない者――人類社会終焉後の数少ない生き残りである、遥であった。それを確認でき、駆は自分の考えが杞憂であったと分かり、内心でホッと一息つく。
「いや全然。時間通り。それより、同期は問題なくできたみたいだな」
「そうだね、特に異常はないかな。
さてさて、取り敢えずは今後の事について話し合いましょうか。どこか落ち着ける場所はある?」
遥は、初めての人混みにそわそわして落ち着きのない様子を見せる。遥にとって、何もかもが未知の世界だ。無理もないと思う。
「OK。取り敢えず、ここを出ようか。着いてきて」
駆は、ここの周辺の地理を頭の中で思い浮かべながら、先日のやり取りを思い返していた。
時はつい先日の夕方――
駆と時宗は、今後の予定の細部を出来る限り詰めるための、話し合いの最中であった。
「これからのことに当たって、幾つか注意しておきたい事がある。
まず、今までの内容の確認になるが、駆君は基本的に終焉前の世界で本来の生活を送りながら、5年後の人類社会終焉の原因を究明するために情報収集をする。ここまではいいね。
で、その過程で、何か有益な情報を得た場合に、終焉後のこちらの世界に戻って貰いたいのだが、問題なのは、君がこちらに戻って来る適切なタイミングをこちらで把握する事が困難であるということにある」
駆は、言われてはたと気づく。
確かに、終焉後から終焉前への移行であるならば、肉体と魂の接続を操作するタイミングは、状況を把握した上で適切に行うことができる。
しかし、この状況が逆の場合は話が変わってくる。自分が終焉前の世界で情報収集をし、それを終焉後の世界に伝えようにも、そもそも向こうの世界の住人が、こちらの行動を捕捉する事ができない。
ではどうすれば、というこちらの問いに対して、時宗は口を開く。
「相互間で、綿密な意志疎通が図れない以上は、取り敢えず、一度こちらの世界に集合し、互いに近状を報告、情報交換をする日を定期的に設けることにしよう。
日時は――そうだな、週に一回の周期で集まるようにしようか。そうすれば、非効率ではあれ、ある程度は互いの情報を共有できるだろう」
時宗の意見に対して、当面の間はそれで対処ができることを思い巡らし、最終的に異存はないと頷きを返す。
ただ、懸念材料がない訳ではなくて、この方針の場合、何か想定外の事態や緊急性の高い事案に遭遇した時に、迅速な情報伝達が難しいことが考えられる。まあ、元々それができないが故の消極策ではあり、それを言ったところで詮無きことではあるが。
時宗の注意事項は続く。
「それと、今の話に関連したことについてもう一点注意することがある。君の移行の都度、魂との接続を切り替える訳だが、問題は魂と接続されていない肉体は、その間無防備になることだ。
終焉後であるこちらの肉体は、基本こちらで管理するから問題はないが、君の世界ではそうもいかない。君の精神がこちらにある間に、向こうの世界の君の肉体が、悪意のある者によって危険に晒されるということも十分に考えられる」
――前言撤回。栓無きことで片付けて良い問題ではない。
最悪の場合、無防備な俺の肉体は、無抵抗のまま破壊され、元いた世界に帰還できない、という状況もあり得る訳で。
切実な死活問題ではないか。実に頭が痛い。
「要は、こちらに集合する日の前日には、必ず自らの安全が確保できた環境で就寝しなければならないという訳ですね。仮に、学校行事などで普段の行動パターンが変化し、魂の移行時に安全性が確保できない状況が想定できるなら、事前に報告するしかない、ということですか………」
「そういうことになる。因みに、事前に都合の良い日時が把握できた場合は、その具体的な日時を、こちらで予め設定しておくことも可能だ。
要は、任意で肉体と魂の接続のタイミングを時間指定しておくことができる、という訳だな」
取り敢えず、不測の事態の対処法については、個人的に考える必要にあることが認識できただけでも僥倖だ。
その事について検討するために思索に耽っていると、暫くして時宗から声が掛かる。
時宗は、どう切り出すべきか悩む素振りを見せながら、やがて口を開いた。
「実は、皆の者と相談した上での提案になるのだが、君が終焉前の世界に戻る際に、我々の方からも共に行動できる者を一人同行させようと思っている」
思わぬ提案に、目を白黒させる。果たしてそんなことができるのか、という疑問は尽きない。
そんな駆の疑問を見て取ったのか、できないことはないと続ける。
「元々、肉体と魂は表裏一体の関係で、それぞれが対となる存在が、予め世界に既定されていてね。私という存在も、君という存在も勿論偶然ではなく、全ては必然という既定路線の上に成り立っているに過ぎない。
以前に話したように、魂は循環している。
つまり、それは前世で対となる肉体と魂が、その一生を全うした後、一定の周期を経て、再度同じ因果関係をもつ肉体と魂が結び付き、繰り返しこの世に生を受けるという仕組みだな。
そして、何の因果か、君の時代と我々の時代は、ちょうどこの周期の上で重なっている。よって、君と同じやり方で終焉前の世界に送り出せるという訳だな」
科学者ならではの着眼点に、駆は思わず感嘆の声を洩らす。
確かに、それが可能であれば、それぞれの時代を渡ることに対するリスクも、ある程度は軽減でき、不測の事態への対応力も幾分マシになる。反対する理由はないように思えた。
こちらとしても助かります、と続けようとして、その台詞を不意に中断させた。
それを実行するに当たっての、たった一つの違和感――
言い様もない不安に駆られるが、その正体が明確に把握できない。もどかしい。
霞がかった思考は、しかし次第に焦点を結び、やがて像を形作った。
ああそうか。そういうことが――
駆の至った結論に、時宗もまた気づいている様子であった。駆の表情を見て時宗は頷き、重々しく口を開く。
「結論を繰り返すが、我々の中の一人を君の時代に送り出すことは可能だ。我々の者と、それに対応している魂の接続を、君の時代の、同じ因果関係をもつ肉体との接続に切り替えるだけで良い。
但し、その際に当然、我々の時代の魂の情報がそのまま、君の時代の人間の肉体に同期――上書き保存される」
すなわち、駆の時代を生きた元々の人物の人格は消滅する。実質的な人間の死だ。
「それを分かっていても、君の身の危険を鑑みれば、これを実行することに意義はあるし、元よりそのつもりだ。
――だが、やるせないね。本当にいくつになっても、理性と感情は切り離せない。正しければ何をしても良いのかと、心が悲鳴をあげているようだよ」
「……それが正常な人間だと思いますよ。
本能だけでは駄目で、けど理性だけでも駄目で、結局は理性と感情との間で上手く折り合いをつけて生きていくしかないと思います」
月並みな事しか言えない自分がもどかしく思う。当事者の語る言葉は、何を言っても詭弁にしか聞こえないものだから。
「……私は地獄に堕ちるだろうね」
「……黙認する俺も同罪ですからね。ご一緒しますよ」
人類社会の終焉を回避し、多くの者の命を救うためならば。それぐらいの覚悟は当然に持って事に当たろうと、決意を胸にした。
駆たちは、ターミナル駅の改札を抜け、最寄りの喫茶店にて、腰を落ち着かせている。
駆は、コーヒーを、遥はミルクティーを注文した。初めて目にする飲み物に、遥は恐る恐るといった様子で口にしたが、それが現代人の嗜好品であることを認識すると、とてもご満悦の表情であった。
うん、ミルクティーの一杯でそんなに幸せな顔を見せられると、こちらも連れてきた甲斐があり、喜びも一塩というものだ。
「とりあえず、編入手続きだっけ?
そういう制度を利用して、駆君の学校に通えるように交渉すればいいんだよね?」
「まあ、そういう方法も一つとしてありだな。ただ慣れない手続きが無理そうなら、元のその娘が通っていた学校にそのまま通うのも良いんじゃないか?
互いに手分けして情報収集ができる利点もあるし」
「うーん、そうしても良いんだけどね。でも、今の私の置かれている生活はこっちの世界の元の人格がベースになっている訳じゃない?
そうなると、私は元の人格の性格や生活態度なんてさっぱり分からないから、色々と不都合は生じるわけで。それなら心機一転、駆君の学校で青春を謳歌しようかなー、ってね」
まあ、言われてみればその通りだと思った。元々、遥自身こちらの常識や価値観に疎い部分は多い。そのような状態では、これまで通りの生活を演出するのも難しいだろう。
それならばいっそのこと同じ学校に通ってもらい、必要に応じてフォローできる環境に居る方が良い。その中で少しずつ、こちらの世界の常識を把握して貰える方が、問題は少ない。
因みに、駆の同行人については、同行人の対となる、この世界の肉体の位置を基準にして決められた。
即ち、肉体と魂を接続し同期した時の、この世界の肉体の生活拠点が、駆の居住地域に最も近い者を同行相手に選ぶことになっていた、という訳である。
当然、双方の連携を取る上では、互いの物理的距離は小さい程良いため、選別基準としては妥当であった。
「そんな訳で、近々そちらの学校でも顔を合わせるようになるだろうから、その時はよろしく。
――しかし、やっぱり人間社会って良いよね。新鮮な感じがする」
遥は、ミルクティーを啜りながら、そんなことをしみじみと呟く。
「そりゃ、今までの環境が極端に酷いからな。人間の住む場所には適していないよ、あそこは」
「それもそうなんだけどね。それを踏まえても、やっぱり人間の為だけにあるような環境ってすごいと思う。まあ、獣だとか、モンスターだとか、それぞれが対等に縄張りを主張して日夜しのぎを削るような環境が日常であっただけに、余計にそう感じるっていうのは、あるかもしれないけど」
遥は、喫茶店の窓から見える風景をじっと眺めやる。今この瞬間の日常を噛み締めるかのように。
やがて、でも、とその後に続く言葉を口にした。
「だからこそ、あと数年で人類が滅ぶっていうのが、全然想像できないのよね」
確かにそうだ、と駆も胸の内で同意する。
日常はあまりにも平穏で、退屈に、当たり前のようにして過ぎていく。何ら変化の兆しが見られない。そこが、駆には不可解であった。
どのような物事にも変化が起こるには、そこに何かしらの原因が存在する筈だ。
単純に、結果だけを聞いて原因を探るならば、大規模な自然災害が思い浮かぶ。しかし、終焉前の世界では、人類の管理を離れた多くのビルや建物に、無造作に草木やツタが生い茂っていたものの、無尽蔵に破壊されたような痕跡は何もなかった。それは同様に、人類同士の戦争による終焉という可能性をも、否定されているという事でもある。
おおよそ、自分の貧困な想像力では、思いつく限りの可能性は潰されているという訳だ。手詰まりである。
「そう言えば、確か、この世界って魔法やモンスターは存在しないんだよね?」
遥は、ふと窓際から見える街並みをしげしげと眺めながら、そんなことを呟いた。
「残念ながら、この時代に、そんな荒唐無稽な代物は登場しないな。大体、モンスターだって、現代にそんなものが生きてりゃ、こんな呑気な生活を送るのはまず無理だろうし」
「あー、やっぱり? なんか、この時代の街並みとか、雰囲気から、何となくそんな気はしてたんだよね」
遥は、残り少なくなったミルクティーのコップに入っている氷を、カラカラと弄びながら、小さくため息を付いた。
魔法。それは、この世のあらゆる物理法則を捻じ曲げる代物であり、人類が社会的生活や文明を失い、それでもただ一握りの人類が、その希望を繋ぎ止めるための術を、途方もない時の流れをかけて会得したものなのだろう。
だが、21世紀の現代社会に魔法という概念はないため、それを用いた人類社会の終焉は考えづらい。モンスターについても同様に、長きに渡る年月の中で新たな生物が進化し生み出されたという、終焉後の世界に見られるような事実も勿論ない。
「今までの日常茶飯事が、ここでは荒唐無稽か。何だか、あまりにも常識が乖離し過ぎてて、あっという間にボロが出ちゃいそう」
「ついでに言えば、魔法なんて便利なものも、この時代じゃあ御伽噺に過ぎないからな。迂闊に喋れば、虚構と現実の区別が付かない、痛い娘になる」
「ここって、人類最盛期の時代じゃないの? 何故か、もの凄く不便な世の中にしか見えないんだけど………」
「人類最盛期かどうかはともかく、現代社会ってのは、そんなものさ。規則や法律といった、ありとあらゆる制約で雁字搦めにされる時代だから、ある意味遥の時代よりも不自由な面は多いだろうな」
「何か、もう既に社会不適合者の烙印を押される予感しかしないんだけど……」
淡々とした駆の言葉に、遥は早くも及び腰な姿勢を見せる。
確かに、遥自身この時代の人間ではなく、半分は駆の都合で、これまでの環境とは全く異なる世界に放り込まれたのだ。口ではなんやかんや言っても、内心では大きな不安が渦巻いているのだろうし、生活する上で、様々な問題にも直面するかも知れない。
「まあ、そうならないために、俺も出来る限りの手は尽くすよ」
「うん、お願い。頼りにしてるから」
遥は、拝むように手を合わせた。
「――そういえば、そっちの世界はモンスターが居ると聞いたが、襲われたりとかはしないのか? 幾ら魔法の力があるとはいえ、危険は変わりないだろう?」
言いながら、駆は、制服のポケットから煙草を取り出し口にくわえる。続いて、ライターを取り出そうとするも、どうやらうっかり持ち出すのを忘れたようで手元にない。
駆の仕草から事情を察した遥が、駆の口元へ指先を伸ばし、呪文を唱えて火を点けてくれた。
「まあ、今いる環境からしたら流石に危険だろうけどさ。でも基本的には互いの領分を守って生活しているから、こちらからその領域を侵さない限りは、そこまでの危険はないんだよね。それに、万一に備えて、結界は紗絆が張ってくれているから、そこまで神経質になる程ではないかな」
あ、煙はなるべく向けないようにしてね、と注意してくる。
「紗絆って言うのは、遥たちと同じく、終焉後の生き残りの内の一人か?」
「そう。ただ、基本的に結界の維持・管理担当だから、あんまり人前には出てこないけどね」
そう言うと、遥は空になったグラスをテーブルの通路側に寄せ、手元にある呼び鈴を鳴らした。呼び出しを受けた店員が、遥の前に立つ。遥は、何を頼もうかと忙しなくメニュー表に目を動かしながらも、やがて決心したのか、カフェラテを注文した。
店員は畏まりましたと頷き、空になったガラスを受け取ると、こちらをちらりと見やり、退出した。
駆は、店員が退出するのを見送って口を開く。
「そういえば、終焉後の人類の生き残りって全部で何人なの?」
「えーと、全部で6人、駆君を含めるとしたら7人になるかな。
時宗さんに、翔悟に、紗絆、時雨と郁渡、そして私で6人だね」
遥の話を聞き、最初に向こうの世界へ訪れた時に俺が顔合わせしていない人物は、あと3人いることを認識する。
「まあ、その内会う機会もあると思うよ。私ら常駐組と違って、あの3人は何かしらの用事で外に出ることが多いから断言はできないけど」
「その3人は、普段何してんの?」
「紗絆は、さっきも話した通り結界の維持管理で、時雨は食料確保のために外でモンスターの狩猟。郁渡は、私たちとは逆で、終焉後の世界での情報収集担当。基本はそんな感じかな」
店員が、遥の注文したカフェラテを運んでくる。
駆は、手元に置かれたカフェラテに、興味津々といった様子で目を輝かせる遥の仕草を微笑ましく思いながら、コーヒーを啜る。
そうした中で、駆はふと、自らが手に持つ煙草をじっと眺めた。
目の前で見た、摩訶不思議な現象は、紛れもなく遥の魔法が行使された証だ。発火させるようなものは、一切手元にはなかったにも拘らず、実際に煙草が点火された事実は、駆の好奇心を大いに刺激させた。
「ところでさ、さっき煙草を吸う時につけてもらった火って、遥の魔法だよな?
あれって、どういう原理で使うことが出来るんだ?
フィクションなんかだと、魔法ってのは、事象を改変する力だとか、聖霊や神による奇跡の力とか定義されるけど、実際にはどのような原理原則で成り立っているのかっていう、純粋な疑問なんだが」
駆は、心なしか、身を乗り出すようにしてそう主張する。
やはり、駆も年頃の男の子であり、現代社会で様々なアニメやゲームに触れてきた世代としては、実際の魔法がどのように作用し、どのような法則で存在するのか、俄然興味は尽きない。
そのような駆の様子を見てとった遥は、自身の知識を整理するためか、暫し考える素振りを見せた後、説明をし始めた。
「うーん、原理としては、私たちが使う魔法は、基本的には、認識を対象に従わせる力、なんだよね」
「認識が対象に従う?
対象が認識に従うんじゃなくて?」
駆は、怪訝な表情を見せた。
そのフレーズは、ある哲学者が提唱した有名な言葉であるが、その者が主張した言葉と、それが主張したい意味合いとは異なった表現の筈だ。
「うん。そもそも、本来私たちが認識している世界は、今駆君が指摘した通りだね。
だけど、私たちが使う魔法は、それとは真逆の作用をもたらすの」
遥の説明を受けても、駆には、それだけではさっぱり意味が分からなかった。我知らず、首を傾げてしまう。
駆の仕草を見て、遥はどのように説明すべきかを思案した後、ややあって口を聞く。
「そうだね……。駆君は、対象が認識に従う、っていう言葉の意味は理解してる?」
「一般的な教養レベルの理解度で言えば、大まかにはな。
要するに、例えば、俺が今コーヒーカップと認識しているものは、あくまでも俺個人の主観であって、厳密には、遥が認識するコーヒーカップとは別のものってことだろ?」
駆は、自身が注文した、目の前にあるコーヒーカップを指して、そう答える。
確か、有名な近代哲学者の考案した思想だったか。
対象物は自明のままそこに存在しているのではなく、人間がそれを認識することによって初めて存在する。そこには、その人間の思考や経験といった様々なバイアスが掛かり、人間が知覚する世界は、思考する人間が認識出来る形でしか、存在することが出来ない。
「そう。普段、私たちが知覚する世界は個々人によって異なっていて、この世界は、言語、或いは法や道徳、倫理といったあらゆる手段を用いて、共通認識を形成している訳。そうすれば、例え目の前に映る対象物が、相互間で異なっていたとしても、一応の整合性は保てるからね」
遥は、ここで一度言葉を区切り、駆の反応を窺った。
駆は、これまでの話を理解していることを示すために、小さく頷く。
「とまあ、ここまでは、駆の時代以前から確立されてきた哲学思想なんだけど、実は、魔法って言うのは、ある対象に干渉して、客体である認識を意図的に書き換えるものなの。
つまりは、ただ事象を改変するんじゃなくて、万人に共通認識となる現象を植え付けると言った方が、イメージとしては近いかなぁ」
………ああ、成る程。ようやく、遥の言わんとすることが理解出来た。
近代の哲学においては、基本思考する人間となる主体と、思考によって認識される客体をそれぞれ区別して論じられる。
本来、主観から独立した対象自体を人間は認識することが出来ず、認識し得るのは、あくまでも現象のみと考えられており、終焉後の未来においても、そうした考えは継承されているようだ。
遥の時代の魔法は、正にそのような哲学思想を下地として生み出され、それは、思考している人間の認識出来る形そのものを狂わせて、意図的に、客体となる対象に従って主体となる認識を生じさせることが出来る、という訳か。
「成る程ね、実に興味深い話だった。今度、機会があれば、是非学んでみたいな」
駆は、煙草の灰を灰皿に落としながら、そう呟く。
遥の時代の魔法が、こちらの理解を超えた原理原則で成り立っていた可能性も十分に考えられたが、どうやら、未来に存在する魔法も、おおよそフィクションで創造され得る範疇に収まっているようだ。正直、こちらの想定外の理論を以って存在していた場合はどうしようかと思ったが、これならば、自分でも学んで使いこなせるかも知れない。
「そうすれば、ライター無しで、煙草が吸えるしね」
「違いない」
遥の言葉に、二人して笑い合った。
その後は特に話をすることもなく、暫しの間流れゆく時に身を任せた。
けれども、いつまでもそうしてはいられない。元々、遥との情報交換が終わり次第、遅れて学校に登校する予定であり、そのために制服で集合したのである。そろそろ潮時だろう。
遥に、切り上げて学校へ行く旨を伝えると、しかし遥はある提案をしてきた。
「ねえ、せっかくだからさ、今日は羽目を外して思い切って遊ばない?」
唐突の提案に俺は面食らう。
「いや、遊ぶといっても俺たち制服なんだが…………」
「こういう機会でもないと見て回れないじゃない。次の機会はいつになるか分からないし」
そんなことはお構いなし、とばかりに言い募る遥。
駆は困ったように頭をかく。実際を言えば、機会は作ろうと思えば今後も作れる。四六時中息を詰めて情報を収集する訳でもない以上、学生である身分ならば、合間にいくらでもその機会を捻じ込むことは可能である。
ただまあ、そんな理屈も、目の前に広がる未知に対する好奇心を抑えるまでには至らない訳で。
駄目かな、と上目遣いで遠慮がちに問われると、こちらとしては断ることができない。駆は、今日は無断欠席になりそうだと他人事のように考え、しょうがないなと呟いた。
駆は、立ち上がって、テーブルの上にあった伝票を手に取る。
「じゃあ、現代社会の娯楽施設をご紹介いたしましょうか、お嬢様」
お嬢様は止めて、という遥の抗議を聞き流し、駆は、今日一日は羽を伸ばして遊ぶことを決心したのであった。
学校を休んで丸一日街中を遊び尽くした翌日、当然のように駆は、登校して早々に職員室へ呼び出しを受けた。
それもそのはずで、昨日は学校の制服を着たまま、平日の日中に堂々と喫茶店に入り浸り、未成年であるにもかかわらず煙草を吹かせる始末。その上、性懲りもなくその姿のまま、引き続き大型のアミューズメント施設で、他校の生徒と授業そっちのけで遊び三昧。
うむ、この状況を見たら、見るに見かねた善良な市民が学校へ通報することは、火を見るよりも明らかだ。因果応報、当然の帰結である。
ただいま駆は、目の前に居る、学校教員である緒環 正志によって、今回の件について厳しく問いただされていた。
「おい彼方、貴様一体どういうつもりだ。丸一日学校をさぼったばかりか、未成年が街中で堂々と煙草を吸って、挙句の果てに他校の生徒を連れまわすということが、どういう意味か分かっているのか!」
「はい、十分に理解しています。学校の顔に泥を塗るばかりか、学生にあるまじき態度の数々、先生方に申し開きのできないことを仕出かしてしまいました。釈明の余地はありません」
駆は神妙な顔つきで先生方に謝罪を申し入れた。
まあ実際に後先を考えない行動が多かったと反省している。次は同じ轍は踏まないよう、細心の注意を払って行動する必要があるだろう。
「貴様、本当に反省しているのだろうな!?
大体、未成年が煙草を吸ってはいけないということは分かっているだろうが!
何で吸った!?」
「えー、煙草を吸うと個人的に物事に対する集中力が上がりますね。集中力が上がるということは、学業に対する身の入り方も大きく違いますし。
何より煙草を通じて、気持ちのオン・オフの切り替えがスムーズにできるのが魅力ですね」
緒環は、自身の机に拳を振り下ろす。
「そういうことを聞いているんじゃない! お前、全然反省していないだろう!!」
はい、怒られるであろうことは薄々感づいていました。でも先生。この場合って、どのような受け答えをしても、正しい回答なんてものは存在しない気がするのですが。
まあ、恐らくは自分自身がした反省と、相手の求める反省に、致命的な齟齬があるためだろう。
なおも頭に血をのぼらせて詰問する緒環に対し、見るに見かねたのか、近くにいた真駈 繫介という教員が、まあまあ、となだめに入る。
「緒環先生が仰ることは、ここにいる先生一同はしっかりと理解できていますから。
彼方本人も、そのことはしっかりと自覚できていると思いますよ」
「自覚している人間の態度じゃないだろうが!」
なおも怒りの収まらない緒環を制し、真駈は駆に向き合う。
「彼方な、お前が未成年である以上は、煙草を吸ってはいけないということを十分認識しているはずだし、他校の生徒を振り回して平日に白昼堂々遊びにふけることがどういうことかも分かっている筈だ。その上でお前がそういう行動に出るということは、お前なりの事情があるということなのだとも思うし、それはお前にしか分からないことだ。
だがな、どのような事情があろうと教師という立場である以上俺たちは、そのような行動が表立った時点で、お前の行動は無視することができないし、当然何らかの処罰は与えなければならない。それが、学校の秩序を維持する俺たち教師の義務な訳さ。
お前はお前で、現状に対する不満が少なからずあると思う。けどな、お前自身が己の事情を理解してほしいと願うなら、まずは俺たち教師の事情を理解するという意識をもって行動すべきじゃないか? それが筋を通すということじゃないかと俺は思うよ」
決して頭ごなしに怒鳴りつけるのではなく、諭すような真駈の言葉に、駆はぐうの音も出ない。それと同時に、ある程度こちらの事情や心情を汲んだ上で、なお至らない点だけを注意することができるという、正に教師の鑑であり、理想の大人であると感じた。
「良し。それが分かったなら、お前は今日の放課後までに反省文をまとめて提出。いい加減に書いてくるなよ。――緒環先生も、それでよろしいですか?」
駆と真駈のやり取りに、暫し呆気にとられた様子の緒環であったが、やがて自分をそっちのけで事態の収集を図った真駈に対する不満が、ありありと顔に出る。しかし緒環も、この現状を蒸し返す訳にはいかないということは分かるのか、渋々といった表情で頷き、了承の意を示した。
それらの様子を伺っていた周囲の他の教師たちも、安堵の表情を見せた。
「話は以上だ。早く教室に戻れ」
「はい、分かりました。失礼します」
緒環の言葉を最後に、駆は一礼をして職員室を後にした。
振り返って考えると、あまりに軽率な行動であったと反省する。実際に、真駈先生の言う通り、色々な人たちに迷惑をかけてしまった。
他人の意見や周りの環境に流されず、自身の考えに基づいて行動することはとても大切なことだが、しかし同時に、そうした自身の行動には常に責任が付きまとう。
改めて、自分はその責任を果たせていないと実感し――もう制服を着ての煙草や、無断欠席は控えようと決心した駆であった。
「全く真駈先生は甘いんですよ! あの様子じゃあ、アイツはまたやらかすに決まっている!」
駆が退出した後も、緒環は、現状の不満をこれでもかと吐き出す。周囲が辟易とした表情を浮かべていることに、緒環本人は気づいていないようだった。
真駈は、そんな状況に苦笑しながらも口を開く。
「ああいうタイプの生徒は、ただ闇雲に怒鳴ったところであまり意味はありませんよ。偉そうに文句ばかり言ってと、余計意固地になるだけです。」
「けどですね、真駈先生――」
「――そう言えば、この件についての報告で、もう一つ気になったことがあるんですよ!」
再び話が拗れる気配を察した、馳部 智継という教師が慌てて口を挟む。緒環は、話を遮られたことで露骨に嫌な顔をした。
「何だ!!」
その場に対するフォローのつもりが、却って火に油を注いでしまったと後悔するも、もはや後には引けない、と馳部は自身の言うべき言葉を続ける。
「い、いや、信じられない話で、どう考えても見間違いや、勘違いの類の話なのですがね…………」
持って回った言い回しに、緒環は更に苛立つ。
「だから何だというのだ!!」
「そ、それが、彼方の奴が、他校の女生徒と一緒に喫茶店に居た時のことらしいですがね、ふとした時に煙草を吸おうとするも、ライターがなかった様子でして。
それで代わりに、目の前に居る女生徒が煙草の火を点けたらしいのですが、奇妙なことにその女生徒は、火の元になるような道具は持っておらず、指先から突然火を起こしたという話らしいのですよ」
――瞬間、職員室一体が静寂に包まれる。
周囲の反応は様々であった。
荒唐無稽な与太話に唖然とする者――
暫し目を瞬き、それから考え込むようにして思考に没頭する者――
ただの見間違いに過ぎないと、馬鹿馬鹿しいと鼻を鳴らすもの――
一旦静まり返った雰囲気も、やがてそれらの感情が一体となり、すぐに騒然となる。
いやまさか――でももしや――。
様々な感情が錯綜し、混沌とした空気が場を支配する。
確証もない、根拠もないただの噂。
だが、ここではそれに狼狽えている。根も葉もない噂が、周囲を謀り不安を煽る――
突如、パン、パンという手拍子が二度、職員室に響いた。
それまでの喧噪が、一旦は静まり返ると、その発信源である真駈がこの場を取り持った。
「すみません、皆さん。今の事実に個人でそれぞれ思うところはあると思いますが、とりあえず真偽も分からない内容に振り回されないように、少し落ち着きませんか?」
騒然とした場を取り直すように真駈がそう発言すると、それまでの不穏な空気が取り敢えずは終息する。この機を逃さず、真駈は続ける。
「馳部先生自身も仰っていたように、この件は、見間違いや勘違いの類の話である可能性が高いでしょう。むしろ常識的には、それ以外に考えられませんよ。
ですから、あまり深くは考えずに少し様子を見ましょう。その方がより冷静な判断ができるだろうと思いますし」
「そ、そうですね。私もそう思います」
真駈の意見に、馳部も同意を示した。
同じく真駈の発言に、周囲の意見も概ねその通りのようで、特に反対の声は上がらなかった。
こうして、表層上は問題なく、この件に関して幕を閉じることとなった。