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12話 「襲撃(後篇)」

 時は、少しだけ遡る。 

校内の何処からか、微かに人々の足音が聞こえる。複数の人間の物音から、どうやら不審者ではなく、教師や生徒たちが避難しているのだろう。

 緒環は、避難勧告の伝達がされて、皆が校舎の外へ移動していることに、ひとまずは安堵するも、未だ楽観視出来ぬ今の現状に、大きく息を吐いた。

 極度の緊張とストレスから、額には脂汗が止めどなく溢れ、背中もぐっしょりと濡れて体の震えが止まらない。

 周囲の状況を、穴があくほどに凝視しながら、緒環は一歩一歩を慎重に踏み出す。

 背中に掛かる負荷が、忌々しいまでに、緒環の体力と精神を侵食する。


 今、緒環の背中には、応接室で倒れていた真駈の存在があった。あの現場で真駈を発見し、慌てて真駈に駆け寄って見れば、まだ微かに脈があったため、僅かな逡巡の後、ひとまず保健室へ運ぼうと思い立ったためだ。

 医療分野における知識が皆無なため、ここで下手に怪我人を動かして良いものか迷ったが、とにかく安静に出来る場所に真駈を連れていった方が良いだろうし、例え素人の処置にしても、最低限の応急手当てが必要であるのは間違いない筈だ。


 緒環は、背中の真駈の状態をチラリと確認した。

 突然の事態に、碌に抵抗も出来なかったのか、全身にはあちこちに殴打させた痕跡が残っていた。それでも、必死に頭だけは庇ったのだろう、腕や肩への損傷が特に酷いものの、今すぐ死に繋がるような致命傷は負っていないように見える。

 とは言え、重症であることには変わりがないため、以前として予断を許さない状況であった。


 取り敢えず、打撲や出血が酷いから、ガーゼや包帯がなければ話にならんな。

 それと、見るからに骨が折れている箇所もあるし、それらの手当ても必要だろう。

 くそっ、骨折の際の処置なんて俺は知らんぞ!


 緒環は、そう毒づき、歯ぎしりをした。

 これまでの人生の中でも、ここまで酷い例は他になかったし、人の生死が掛かった状況など考えたこともなかった。今程、自分の運命を呪ったことはないと断言出来る。


 自然と、自らの感情の昂りを自覚した緒環は、懸命に自身の気持ちを鎮めるため、深呼吸をした。今冷静さを失えば、適切な判断はおろか、自分だけでなく真駈をも危険に晒すことになる。

 最悪を回避するため、常に最良の判断を選択し続けなければならない。この場は特に、その腹積もりで物事に臨むべきだろう。


 保健室は、体育館や運動場での怪我人の対応がしやすいよう一階に配置されている。

 緒環は、柱に身を隠しながら、周囲の状況にじっと目を凝らす。周囲に人の気配がないことを確認してから、這いつくばるように慎重に歩を進めた。

 物陰から、階段の踊り場の様子を窺う。依然として辺りは静まり返っていて、人影はないようだ。


 意を決して、階段の踊り場へ向かおうとしたその時、緒環の耳に、ちょうど階段の真上から、何者かの足音が微かに聞こえてきた。

 自らの鼓動が跳ね上がる。

 慌てて、再び物陰に身を潜めた。


 くそっ、誰だ!?


 緒環は、神経を研ぎ澄まして、ひたすらに足音の発生源に意識を集中させた。

 先程からのような、集団による避難の際の物音ではなく、間違いなく単独で移動している足音であった。


 落ち着け、冷静になれ!


 自らにそう言い聞かせるも、思いとは裏腹に、己に巣食う恐怖が全身を覆う。

 自身の身体が小刻みに震え、己の意志で制御出来ない。


 恐らくは向こうも、同様にこちらを警戒しているのだろう。

 その存在を悟られないよう、足音を殺して降りてきているために、聞こえてくる音は小さく、不明瞭なものだ。しかし、迫り来る確かな気配は、何よりも鮮烈に、緒環の身の安全に警鐘を鳴らした。


 ここにきて引き返すか?

 いや、多分向こうも、こちらの気配は感じ取っているだろうから、もし相手が不審者だった場合、敵に背を向けるのはあまりに危険が大きい。手負いの真駈先生を巻き込むことは出来ない。


 押し寄せる恐怖が、思考を奪い、冷静な判断力を失わせる。

 目の焦点が定まらず、視界が霞んでしまう。

 最早、何をしたら良いか分からず、恐怖という楔に、全身が縛り付けられたかのように動かなかった。


 ひたひたと、人の気配が近づいてくる。


 畜生、どうしようもないぞ!

 頼む、どうか見逃してくれ………!


 緒環は、奥歯をガチガチと鳴らしながら、天に祈る気持ちで、階段の踊り場を睨み付ける。


 極限まで高められた緊張状態は、しかし、人影を視界の隅に捉えた時に、実に呆気なく霧散した。

 反射的に、声が漏れる。


「か、掛飛先生っ!? わ、私です、緒環ですっ!」


 極度の緊張状態の解放から思わず、間の抜けた声色となってしまった。その反動で、へなへなと崩れ落ちるように脱力する。

 階段の踊り場へ、こちらを窺うようにして現れたのは、同じ教師である掛飛だった。


「あっ、 緒環先生ですか! 良かった、ご無事で!」


 緒環の声が聞こえ、互いの正体を把握出来たことで、掛飛も、安堵した様子で額の汗を拭った。

 張り詰めた空気が弛緩し、互いの無事にほっと一息を付けたのも束の間、掛飛は、緒環の背中にいる真駈の姿に目を遣った。


「もしかして、不審者に襲われたのですか?」


「恐らくそうです。それと、真駈先生は、応接室で倒れていたのですが、来客の姿が確認出来なかったことから、不審者は来客を装って校内に侵入した可能性があります」


 緒環は掛飛に、かいつまんで状況を説明する。


 不審による侵入の手際が、あまりに出来過ぎていること。

 この事態発覚を前にして、唐突に校内放送による来客の呼び出しがあったこと。

 そこから導き出せる懸念として、不審者には少なくとも、内部の人間に共犯者がおり、校内の侵入を幇助した可能性があること。


「――確かに、今思えばあの放送は、どうも不自然でしたね。その後の不審者の犯行のタイミングから見ても、この二つを切り離して考えるのは無理があるかな」


「ですね。アポ無しの来客があれば、基本的には事務室の窓口対応となりますし、面談する教師の都合も確認せず、授業中にいきなり校内放送での呼び出しというのは、ちょっと非常識だと思います」


「その不自然な授業中の呼び出しも、不審者をより安全に校内に侵入させ、教師や生徒たちが無防備な時間帯を狙ってのことならば筋が通る、か」


 緒環の見解に、掛飛も同じ考えだったようで、今回の不審者騒動に、何かきな臭いものを感じていることが窺えた。今回の事態は、あまりに何もかもが唐突に過ぎる。


 とは言え、今は状況が状況だ。

 真相の究明よりも、とにかく無事にこの状況を脱する必要がある。


「ひとまず、私は真駈先生を保健室へ連れて行きます。この怪我では、外に連れ出す訳にもいきませんから」


 緒環は、引き続き真駈を保健室へ運ぶ意志を伝える。


「分かりました。3階にいた人たちには、全て報告を済ませて避難させましたので、私はこれから校内に残る生徒たちをかき集めて避難します」


「よろしくお願いします」


 良し、懸念していた生徒たちの避難も、今のところ滞りなく進んでいるようだ。

 おまけに、逃げ遅れた者を探して避難させてくれるのであれば、生徒たちの避難については、全て任せておける。

 となれば、残る問題は……。


「今不審者は、何処に居るのでしょうか?」


「分かりません。ただ、恐らくは1階か2階の何処かでしょうね。

3階は、私が避難勧告のためにくまなく廻りましたが、不審者とは遭遇しませんでしたから」


 掛飛は、緒環の質問に対し、そう答える。

 ならば、自分のやるべきことは一つだ。


「それでは、私は真駈先生を保健室へ運んだ後、被害現場へ向かい不審者の暴動を抑えに行きます」


 思わぬ緒環の発言に、掛飛は目を見開いた。


「それは危険ですよ! 真駈先生を保健室に運び終え次第、即刻避難して下さい!」


 緒環は、首を横にふる。


「校内に残る生徒たちが、無事に避難出来るまでは、尻尾巻いて逃げる訳にも行きませんよ。それに、今も不審者と対峙して、時間を稼いでいる者が居るでしょうから、少しでも人数は多い方が良い」


「ですがね………」


「今は、こうして押し問答している時間が惜しいです。危険はお互い様ですし、生徒の身の安全を鑑みれば、即座に行動に移すべきです」


 掛飛は、どうにか説得を試みるものの、緒環の決意が固いと見るや、やがて諦めたようにため息を付いた。


「……まあ、確かにここで言い争っている時間はないか。

――では、緒環先生。くれぐれも無茶はしないで下さいよ」


「掛飛先生こそ、油断は禁物ですからね」


 二人は、忠告を交わし合うと、今後の方針を取り決め 、一つ頷いた。それぞれに行動を開始する。


 緒環は、しっかりと背中にいる真駈を背負い直し、気を引き締める。

 とにかく、一刻も早く真駈を安静にさせなければならない。


 無事に保健室へたどり着けることを祈りながら、緒環は慎重に階段を降りていった。






 思い返せば、この惨状は、何の前触れもなく訪れた。


 突如もたらさせた悲鳴に、ぼんやりと黒板を眺めていた遥は、ハッとなって、辺りをキョロキョロと見渡した。

 次いで、激しい怒声や、机と椅子がひっくり返る音、駆け出すような足音などが無秩序に聞こえて、遥は、恐怖で身を竦み上がらせる。

 尋常でない気配に、クラス全体が緊迫した空気に包まれた。


「何なんだ、一体? 何が起こった?」


 この騒ぎに、教師である蓑輪(みのわ) 辰巳(たつみ)も、手に持ったチョークの動きを止め、眉間に皺を寄せて、周囲を振り返る。


 生徒たちの諍いか、はたまたもっと別の事態に陥ったのか。いずれにせよ、この騒ぎがただごとではないことは明らかだ。


 突然の異常事態に、頭が混乱するのも束の間、続けて隣のクラスの方から、いくつもの悲鳴と共に、乱暴に扉を開け放つ音、廊下を慌ただしく走り去る足音が聞こえた。


「ヤバい、ヤバいよ、あれ!」


「頭おかしいんじゃねぇか!?」


「何だよ、一体何なんだってんだよ!」


 誰かが、何かを叫ぶ声がする。今までに聞いたこともないような、逼迫した声色だった。


「おい、今のヤバいって何だよ? 」


「先生、何か様子が変ですよ!?」


 外の様子に、これまで硬直していたこのクラスの生徒たちも、目に見えて慌てふためき始めた。

皆一様に、恐怖や焦燥といった感情が貼り付いており、収拾が付かない。


「ああ、そんなことは判ってるが、どうせ大したことじゃないだろう。そんなにがなり立てることじゃない」


 そんな周囲の感情にも拘わらず、そんな投げやりな台詞が、思わず蓑輪の口を衝いて出た。

 クラス全員が、信じられない、といった思いで箕輪を見る。


「大体、隣のクラスの馬鹿が大袈裟に騒いでいるだけだろ。今は授業中なんだから、ちゃんと勉強に集中しろ」


 この不穏な空気に、本当に気付いていないのか、それとも敢えて知らない振りをして目を背けているのか、蓑輪は、この状況にまるで頓着をしない。


「先生!? そんなこと言っている場合じゃないですよ!」


「そうです! あの悲鳴は、ただごとじゃないと思います!」


「とにかく、状況を確認しないと!」


 そんな生徒たちの危機感にも、蓑輪の反応は芳しくない。

 もしかしたら、この騒動に関して、お調子者の生徒が、ちょっとしたことを大袈裟に騒ぎ立てている、という風にしか捉えていないのかも知れない。


 ダメ、そんな悠長なことを言ってちゃマズいよ!

 絶対に、何かが起きてる!


 生徒たちの怯えを含んだ発言が、酷く耳障りに聞こえた。

 得体の知れない事態に、遥は心が押し潰されそうになる。

 自らの第6感が、この騒動に警鐘を鳴らした。


「いいから、皆席に戻れ――って、おい! 雲居、何処へ行くんだ!」


 遥は、震える膝を叱咤しながら、今ある精神力を総動員して、騒ぎのする方へと足を向けた。


 教室の扉を開ければ、目の前を必死に走り抜ける生徒たちの姿があった。

 咄嗟に、視界に映った生徒を見れば、顔を蒼白にして、一目散に逃げ出しているようだ。何を慌てて逃げる必要があるのかと、その要因へと視線を動かす。


 見知らぬ男が居た。

 その男は、教師である時枝と対峙している。その手には、何処からか調達したのであろう金属バットが握られており、よく見れば、バットには僅かに血痕が付着しているようだった。

少し視線をずらせば、床に横たわる一人の生徒の姿が確認出来た。見るからに、被害に遭った生徒だと判る。もしかしたら、他にも怪我人は居るかも知れない。


「おい、コラ! 雲居、お前、今は授業中だぞ! いい加減に――」


 蓑輪は、後を追って遥に言い募る。けれど、ふと遥の視線の先に目を向けると、途端に蓑輪の声は尻すぼみとなり、目の色を変えた。


 それはそうだろう。

 目に映る光景は、あまりに現実離れしていて、夢と断ずるには、あまりに生々しくもあった。

 直面した危険は、誰の目から見ても明らかで、一刻を争う事態にも、けれど身体は鉛のように動かない。


 時枝が、生徒たちに向かって懸命に叫んだ。

 目の前の男を、どうにか引き付けておくから、その間に、生徒たちを外に避難させるつもりらしい。

 時枝は、恐怖で震える己を悟られまいと、眦を決して相手を強く睨み付ける。自分を出来るだけ強く見せて、相手を牽制することで、少しでも多くの時間を稼ぐつもりなのかも知れない。


 そんな懸命な努力も、所詮は一時の時間稼ぎにしかならなかった。

 これまで、じっと時枝の様子を眺めていた男は、突如として、不敵な笑みを浮かべた。

 そのまま、金属バットを振りかぶって、時枝に接近する。

 均衡は、一瞬にして崩れた。周囲から、悲鳴が上がる。

 あれだけ必死に取り繕っていた虚勢は、いとも簡単に剥がれ落ち、後には、ただ一方的になぶられる時枝の姿が映った。

 元々、スポーツや武術などで、普段から肉体や精神を鍛えている訳でもない時枝には、丸腰で武器を持った相手に挑むこと自体が無理だったのだ。


 気づけば、時枝はぐったりと意識を失った。男は、足元の人間が動かなくなったことを確認すると、興味を失ったような様子で、ゆっくりと視線をこちらに移す。


 視線がかち合った。


 瞬間、遥は、ぞくりと全身が粟立つのを感じた。

 隣から、ひっ、という小さな叫び声が上がる。見れば、完全に腰が引けてしまっていた。

 最早、ぐずぐずしてはいられない!


「蓑輪先生、今すぐ、この状況を私たちのクラスの生徒全員に伝えて下さい! それと、出来れば早急に避難するように指示を!」


「えっ?」


「早く!」


「わ、分かった!」


 遥の指示に、蓑輪は、弾かれたように教室へ戻った。すぐさま、この騒動の状況報告と、避難指示を出す声が聞こえる。


 遥は、目の前の男に意識を戻した。

 男は、にやにやと笑いながら、ゆっくりと遥に近づいて行く。その表情には、これまでとは違う、邪な感情が見え隠れしていた。

 そんな、あからさまな男の様子に、あれだけ恐怖していた遥の感情が、憤怒によって塗り潰されていく。

 女の尊厳をこれ程に軽視し、侮った態度は赦せないが、そのお陰でどうにか身体は自由に動かせるようだ。

 目の前の男を睨み付けながら、遥は、この局面を如何にして脱却するか思案する。


 単純に、相手を倒すことだけを考えるならば、話は簡単だ。

 こちらには、魔法と言う大きなアドバンテージがあるのだから、この場合は、武器の有無や、性別の不利も、何ら問題にならない。

 しかし、本来魔法が存在しないこの時代では、魔法の使用はご法度であり、仮に、人目に付かない形で利用するにしろ、その行使には大きな制約が伴う。

 ましてや、以前に公共の場で、魔法を使ったことがバレて痛い目を見た経験があるのだから、これ以上の魔法の使用は慎むべきだ。

 そう考えれば、目の前の男と、事を構えるのは賢明ではない。


 となれば、やはり目の前の敵から逃げることが、最良の手段であろう。

 周囲の人間を、少なくとも安全圏に脱出させるまでの時間を稼ぎ、相手の隙を付いて逃走する。

文字に起こせば簡単だが、いざ実行に当たっては、様々な困難を伴う。

 武器もなく、身体的な能力差がある状態で、全うな時間稼ぎが出来るのかが疑問であるし、そもそも、隙を見て逃げ切れるかどうかも怪しい。


 それでも、やるしかないんだよね。


 遥は、目の前の男を見据えて、大きく深呼吸する。

 大丈夫、私だって、伊達に過酷な環境に身を置いていないんだよ!


 そう己を鼓舞しながら、静かに徒手空拳の構えを取る。目の前の敵に、明確な抵抗の意志を示した。


 その姿を見るや否や、男は遥の元へと大きく踏み込んだ。そのままの勢いで、バットを振り下ろす。

 遥は、咄嗟に男の側面に身を躱した。バットが空を切る音がして、ひやひやする。

 行き場を失ったバットは、廊下の床に激突し、甲高い金属音が響く。

 その隙を付いて、遥は、男の腹部へ蹴りを放った。男の口から、くぐもった声が漏れる。

 続けて、握り拳を繰り出す。狙いは、顎の先端。

 しかし、この追撃は相手も予想していたのか、後方に跳んで避ける。


 二人の間に、距離が開いた。

 遥は、相手の様子をじっと見つめる。

 ダメージは、ほぼない。それなりに本気で繰り出した一撃であったにも拘わらず、男の動きに支障がないことに、小さな落胆を隠しきれない。やはり、根本的に打撃力が乏しいのだろう。

 一方で、男も、相手の予想外の反撃に目を丸くしていた。

 暴力をひけらかし、少し痛め付けてやれば、いとも簡単に屈伏して、後はこちらの思うがままの存在だと侮っていたのだろう。こちらの動きのキレや身のこなしを見て、改めて警戒心を強めたようだ。

 先程までと違い、男は遥の動きを慎重に窺いながら、攻撃の機会を見極めようとしている。

 遥としては、こうした膠着した状態は、願ったり叶ったりだ。相手との睨み合いが長引く程、それだけ時間稼ぎが出来る。


 背後から、遥のクラスメイトたちが教室を出ていく気配を感じる。幾人から、遥を気遣うような視線を向けられるが、気にしている余裕はなかった。

 取り敢えず、遥が目を光らせている間は、無事に避難が出来る筈だ。


 不意に、目の前の男は、眉をひそめた。

 何事かと思えば、蓑輪が、遥の側ににじり寄ってくるところであった。


「雲居、ここから先は、先生に任せて避難しなさい」


 蓑輪は、遥にも避難するように促す。この場の時間稼ぎは、蓑輪が代わるつもりらしい。


「先生一人で、ここを食い止められるんですか?」


 遥は、目の前の男を見据えたまま、蓑輪に問い掛けた。先程は、酷く怯えた姿を見せていたが大丈夫なのか、と言外に匂わせる。


「それを言われると、中々に辛いものがあるな」


「それなら、私もここへ残った方が良いんじゃないですか? 先生一人で対処出来る相手ではないですよ」


 遥の提案に、蓑輪は首を横に振った。


「残念だが、それは無理だ。こんな事態になったのに、これ以上生徒を危険に晒したとあっては、我々教師の責任問題になる」


「今、教師の体面を考えてどうするんですか! あいつをここで食い止めないと、被害はもっと大きくなりますよ!」


 こちらの会話が相手に筒抜けになるのを承知で、遥は、説得を試みるが、蓑輪も頑固として譲らない。


「悪いが、その体面こそが、我々教師にとっては死活問題なんだ。凶器を持った人間が暴れている状況で、一人の女子生徒を最前線に立たせて、肝心の教師が尻尾巻いて逃げたとなれば、この学校の信用問題にも関わる」


「それって、結局は、利己的な理由ですよね?」


 遥は、男の一挙手一投足を見逃さないよう、細心の注意を払い、いつでも迎撃出来る体勢を取りながら、そう毒づく。


「私も、それは否定しないがね。だが、それを差し引いても、丸腰の人間が立ち向かって良い相手ではないし、これが君の役割と言う訳でもない」


「それは、先生自身にもそのまま当てはまると思いますけど」


「我々は大人で、同時に教師なんだよ。そういう肩書きを持つようになると、好むと好まざるとに拘わらず、色んな責任がまとわりつくんだ」


 損な役回りだけどな、と蓑輪は無理矢理に笑う。目の前の恐怖に、顔が引き攣っていた。


 そういう言い方はズルい、と遥は思う。

 大人と言う立場から、そうした論拠を持ち出されてしまえば、何も言うことが出来なくなるではないか。

 いつだって、他人に損な役回りを押し付けるのは子供であり、今はまだ、それらの責任を共に背負うことが出来る立場にはないのだから。


 遥は、蓑輪の決意が固いことを悟ると、やがて、諦めたようにため息を付いた。つくづく、自身の無力さを恨めしく思う。


「分かりました。くれぐれも、無理はなさらずにお願いします」


 最後にそう言い残して、遥は、目の前の男の動向に注意しながら、その場を立ち去ろうとする。

 男は、せっかくの獲物を取り逃がすまいと、遥が動きを見せた瞬間に、追い縋るかのようにして飛び掛かった。

 すぐさま、蓑輪は男の前に立ち塞がり、行く手を阻む。


「うおおおおおおおおおおおおお!」


 蓑輪は、凄まじい叫び声を上げて、レスリングにおけるタックルの要領で、逆に男の元へ突っ込んで行く。それは、見事に相手の片足を掴み、転倒させることが出来たようだ。


 遥は、蓑輪の無事を祈りながら、クラスメイトたちと合流するため、皆が逃げた経路を追って駆け出した。






 保健室の扉を開けて、奥にあるベッドに真駈を運び込んだ。

 幸いにも、掛飛と別れてからここまで、誰とも遭遇することなく到達することが出来た。どうやら、生徒たちへの避難勧告と誘導は、無事に進められているようだ。


 まずは、保健室にある棚から、真駈の治療に必要と思われるものを物色する。

 緒環に、負傷者を治療した経験はない。精々が、擦り傷や切り傷を作った際に、手当てをする位だ。

 緒環は、少し考えてから、消毒液と包帯を手に取る。取り敢えず、出血をした箇所は、きちんと傷口を塞がなくてはならない。打撲箇所については、正直、適切な処置方法を知らないので、出来得る限り安静にさせておくしかないだろう。

 緒環は、消毒のために保管されていたペットボトルの水を取り出して、処置を施す。

 余程痛め付けられたのか、真駈は依然として意識が戻らない。

 僅かながら呼吸はしており、一命は取り止めているものの、未だ予断を許さない状況にある。一刻も早くこの事態を収束させ、真駈を病院に搬送させなければならない。


 ぎこちない手付きながらも、消毒を済ませて、必要と思われる箇所に包帯を巻いていく。

これで、一応の応急処置にはなったと思う。後は、本人の自然治癒力に期待するしかない。


 緒環は、真駈の様子を窺い、問題がないことを確認すると、保健室を退出した。

 足音を忍ばせて、校内に居るであろう、不審者の元へと急ぐ。

 現在、教師と生徒たちの避難は順調に進んでいるようだが、やはりその際に懸念されるのが、不審者の動向についてだ。例え、皆の避難が無事に終わったとしても、肝心の不審者の身柄を押さえなければ、完全な事態の収束には結び付かない。

 本来であれば、それは警察の役割であり、そのような危険なことは本職に任せるのが賢明ではある。しかし、時枝らが生徒たちをより安全に避難させるために、自ら囮の役をかって出たと聞いた以上は、その事実を無視して我関せず、と言うのは、緒環自身がそれを赦すことが出来なかった。


 先程の、3階には不審者は見当たらなかったと言う掛飛の証言や、犯行当時の高次の状況報告から、不審者は現在も2階に居るのではないか、と当たりを付ける。

 緒環が感じた、保健室に着くまでの1階の雰囲気と、それぞれの証言を元にした単純な消去法であるが、ただ闇雲に不審者を探すよりかは効率が良い筈であるし、一刻も早く合流するために、他に良い手立ては思い付かなかった。


 緒環は、慎重に気配を殺しながら、2階に続く階段を上っていく。

 すると、不審者との距離が近づいているためか、次第に何者かが争うような物音が聞こえてきた。

 その物音は、高次からの報告にあった、被害現場である2年6組の方角と一致している。

 緒環は、残りの階段を一気に駆け上った。

 恐怖から、視界はぐにゃりと歪み、正常な平衡感覚が酷く不安定ではあったが、今そんなことを気に掛けている余裕はなかった。

 騒音や怒声が、はっきりと大きく聞こえてくるのに比例して、自らの鼓動も煩わしい程に高鳴っていく。

 それでも、沸き起こるあらゆる感情を無視して、一心不乱に現場へと向かう。


 やがて、その喧騒が、何者かの争いであると正確に認識した時。目の前に映るのは、金属バットを持つ見ず知らずの男が、緒環の同僚である蓑輪と神々廻に対峙している姿だった。

 凶器を持った相手にも拘わらず、果敢に立ち向かったのだろう。蓑輪の身体には、衣服の隙間から幾つもの痣が見て取れ、既に満身創痍な状態にあることが判った。

 すぐ側に居る神々廻は、現時点で目立った怪我はなく、負傷した蓑輪を後ろ手に庇うようにしながら、目の前の不審者をじっと睨み付けている。


 二人の様子から、どうやら神々廻が避難勧告を終えて、ここへ来るまでの間を、蓑輪一人で押さえていたものと考えられた。


 その神々廻の手には、掃除用のロッカーから持ち出したと思われるモップがあり、相手にその先端を突き付けるように向けて牽制している。

 現状、神々廻の持つモップでは、武器として用いるにはあまりに心許ない上、負傷した蓑輪を守りつつ応戦しなければならない負担を強いられている。形勢は、明らかにこちらが不利であった。


 不審者は、神々廻が一瞬、蓑輪に注意を向けたのを見計らって、金属バットでモップを払うように動かした。

 神々廻は、咄嗟にモップを前方に突き出したが、金属バットが接触したことで矛先がずれ、モップは不審者の眼前のすぐ横を通り過ぎるように逸れてしまう。

 一瞬の攻防が見せた、神々廻にとって致命的な隙が生じる。

 不審者は、そのままの勢いで前のめりにバランスを崩した神々廻の懐に掻い潜り、その腹部に向けて、金属バットをフルスイングした。


「がはっ………!」


 あまりの衝撃に、神々廻はうめき声を上げてその場に崩れ落ちた。重い一撃に、まともな声を上げることが出来ず、か細く吐息が漏れるばかりであった。その様子からすると、アバラが何本か折れているかも知れない。

 苦しみに悶えて蹲る神々廻に向けて、不審者は、止めとばかりに金属バットを振りかぶった。


――マズい!


 頭で考えるよりも先に、緒環は、不審者の方に向かって駆け出した。このままでは神々廻が死んでしまうかも知れない、という危機感が、己の内に蟠る恐怖をはね除け、緒環の身体を突き動かした。

 迫り来る気配に、不審者は一瞬驚いた様子を見せるも、すぐさま振り上げた動作をそのままに、身体の向きを緒環の方へ変えて臨戦態勢をとる。

 緒環は、走りながら咄嗟に、廊下の一定の場所に配置されている消火器を手に取る。今、緒環の脳裏をよぎった考えは、不審者に向かって駆け出して、視界の隅に消火器が映る一瞬のタイミングで閃いた、無我夢中の行動であった。

 金属バットを避けるため、スライディングの要領で相手に滑り込みながら、消火器の安全ピンを引き抜き、ホースを不審者に向ける。

 その動作から、緒環の狙いを察した不審者は、大きく目を見開いた。

 だが、もう遅い。


――喰らいやがれ!


 己の出せる精一杯の気迫と共に、緒環は、消火器のレバーを強く握りしめた。


プシャアアアアアアアアアアー!!!


 凄まじい勢いで、消火器のノズルから薬剤が放たれた。至近距離から放射された薬剤によって、不審者は、全身がたちまち白い粉末に覆われ、自らの視界を奪われてしまう。


「ああああああっっ!」


 本能的な恐怖から、不審者は、堪らず片手で両目を押さえながら、金属バットを無茶苦茶に振り回し始めた。

 緒環は、姿勢を低く保ち、バットの軌跡に注意しながら、負傷した神々廻と蓑輪を不審者から離れた場所へ移動させる。


「クソがあああああぁぁぁ!!」


 不審者は、側に居る人間を視認出来ない状態で、最後の抵抗とばかりに、なおも奇声を発しながら、ところ構わず暴れ続ける。

 無差別に描く軌道は、校舎の窓ガラスを割られた音や、何かが破壊された音、金属バットが壁にぶつかった打撃音など、様々な不協和音を奏でながら、被害を拡大していった。

 緒環は、金属バットが届かない位置で、消火器のホースの先を両手で握った。そして、不審者の様子を窺いながら、遠心力を利用して消火器を不審者の脇腹に思いっきり強く命中させる。

 それなりに重量のあるものをぶつけられて、不審者は、堪らずくぐもった声を漏らした。

 それでも、今受けた衝撃を頼りに、攻撃を受けた方向へ金属バットを振るう。

 しかし、リーチの短い得物では、距離をとった相手に当てることが厳しく、バットはむなしく空を切った。


 緒環は、ホースを引っ張り、再度消火器を手元に引き戻そうとする。

 だが、敵も流石にそれは予測出来たのか、消火器は、引きずっている途中で、不審者によって遠くへ蹴り飛ばされた。その衝撃で、緒環は握っていたホースを弾いてしまう。


――ちぃ、駄目かっ!?


 緒環は、自らの苛立ちや焦燥感から、無意識に唇を噛みしめた。

 不審者を見れば、金属バットを出鱈目に振り回し続けて、こちらを牽制しながら、片手で乱暴に目を擦っている。

 多少なりとも視界が開いてしまえば、こちらのアドバンテージは失われ、不審者を取り押さえることは非常に困難になる。

 相手の行動が大幅に制限されている今の内に、何とか決着をつけなければならない。


 今、転がっていった消火器を拾いに動ける余裕はない。

 緒環は、出来る限り姿勢を低くして、不審者に突撃した。両手を、頭の側面に添えて庇うことで、致命傷だけを確実に回避出来れば問題はない。


 敵の有効射程に入った。


 不審者は、正常な感覚器官を総動員して、間近に迫る緒環を狙って金属バットを振り下ろす。

 反射的に、身をよじって直撃を避けた。金属バットが通り過ぎたすぐ真横で、小さな風切り音が聞こえ怖気けを震う。正に、天が味方したような、紙一重での回避であった。

 緒環は、素早く不審者の手首を掴むと、そのまま関節を極めて地面に捩じ伏せた。その際に、不審者が取り落とした金属バットは、すぐさま、側に寄った神々廻が回収する。


「痛てててて! 放せ、放しやがれ!!」


 不審者は、押さえつけられた状態でじたばたともがく。しかし、関節の動きを封じられてしまえば、最早、力任せに振りほどくことは難しかった。


「大人しくしろ!」


 緒環は、なおも暴れようとする不審者を一喝すると、身に付けていたネクタイを外し、不審者の手首にきつく縛り付けた。それを見た神々廻も、自身のネクタイを不審者の足首に括り付ける。

 不審者は、暫し抵抗を試みていたが、やがて諦めたのか、糸が切れたように大人しくなる。

 その表情は、あらゆる負の感情を蓄え、憎しみを募らせた者の姿を端的に表していた。

 一体、何がこの男の人生観を、ここまで歪なものにしたのか、何がこの男をここまで駆り立てたのか、緒環たちには知る由もない。


「………あー、終わったぁ…………」


 無事に不審者を捕縛し、張りつめていた緊張の糸が切れた途端、これまで誤魔化せてきた疲労がどっと押し寄せてきた。


「お疲れ様でした。これで、何とか事件は収束しそうですね」


 神々廻は、肩の力を抜きその場に座り込んだ緒環を労う。


「こんなことは、もうこりごりですよ」


「全くだ。金属バットで殴り込みなんて、開校してから今まで、一度も聞いたことがない」


「本当に何なんですかね、コイツ」


 神々廻は、負傷した腹部を手で押さえながら、憎しみのこもった目で不審者を睨み付ける。


「さあな。どうせ、頭のネジが外れた人間の考えなんて判らないし、理解したくもないな」


 緒環は、そう言いながら、縛られて横たわる不審者を冷ややかに見遣った。

 緒環自身、今回の一連の事件に何か思うところはあって、その男が犯行に至るまでの背景には、確かに興味があった。

 しかし、今はそれ以上に、志を共にする同僚や、大切な教え子たちが襲われたことに、腸が煮えくり返っていた。

 理性で物事を割りきれる程に、緒環は達観してはおらず、懸命に自らを諫めなければ、今にも殴りかかってしまいそうであった。

 この場で、真相を追究のために事実確認をしながら、平静を保つ自信はない。


「まあ、取り敢えず今は、被害に遭った者の容体の確認だな。神々廻先生は、蓑輪先生を看ていて下さい」


「そうですね、分かりました」


「………ったく、ようやく警察たちのお出ましか」


 不審者によって割られた窓から、パトカーと救急車のサイレンの音が聞こえてきた。徐々に近づいている音の大きさから、もう間もなくの到着になるだろう。


「とにかく、これで事件は解決ですかね」


「だと良いがな。色々と府に落ちない点はあるが、後は警察に期待するしかない」


「まあ正直、そんなことよりも、私は二度とこんな事態にならないことだけを望んでいますが」


「違いないな」


 他愛ない会話で小さく笑い合いながら、緒環たちは、無事に危機が去ったことの実感を噛みしめたのだった。


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