決別
あたしは、浜辺に立っていた。
赤に染まる海と空。その間には、大きな大きな夕日が水平線から顔を半分覗かせている。それを眺めていると、まるで吸い込まれていくような感覚にさえ陥りそうな気がする。
「綺麗だな……」
あたしの隣から、懐かしい声が聞こえる。この声の持ち主は、振り向かなくてもすぐに分かった。遥……。あたしの大切だった人。あたしにとっての唯一だった人。この人の声を聞くのも随分と久しぶりだ。
不意に、彼に手を握られる。あたしも彼の暖かな手を握り返した。
「こんな風に一緒に夕日を眺めたの、いつ振りかな?」
「確か、最後が中三の夏休みだったから……2年半振り?」
「あはは、そっかあ。もうそんなに経つのか」
あたしは遥の方へ顔を向ける。すると、ちょうど彼と目が合った。
「久しぶり、莉英」
「うん、久しぶりだね、遥」
遥が微笑む。あたしも顔を綻ばせた。
「最近はどうだ? 調子とか」
「あたしは元気だよ。あのね、高校でね、新しい友達ができたの」
「本当か? それはよかった」
すべてが懐かしい。ずっと忘れていた、この感覚を。
「少し見ないうちに、お前明るくなったな」
「そうかな……」
「ああ、目とかキラキラしてる。実は俺、心配だったんだ。俺たちが付き合い始めてすぐのころから、お前ちょっと元気無いっぽかったから」
もしかしたら、遥は感づいていたのかもしれない。あたしがそのころに友達を失ったことに。
「遥の方は、変わりないみたいだね」
「はははっ、そりゃそうさ」
遥は声を立てて笑う。
「ここは時間が進まないからな」
「……ごめんね」
「何も謝ることはないさ」
そう言うと、遥は俯くあたしの頭に手を置いた。
「謝るのは俺の方だ。寂しい思いをさせて、ごめんな」
そのまま頭を撫でられる。久々だからか、力加減が分からないのだろう。ちょっと撫で方が荒っぽい。でも、それでも嬉しかった。
「それで、こんなとこに来てどうしたんだ?」
遥があたしの頭を撫でながらそう尋ねてくる。あたしは少し心がチクりとするのを感じた。
「今日はね……お別れをしに来たの」
「……そっか」
すべてを言わなくても、遥は分かっているようだった。遥はあたしの頭を撫でる手を止め、あたしと向かい合った。
「そうだよな。俺もずっとここにいるわけにもいかないし、お前も、もう腹を決めなきゃな」
「うん……」
「ほら、泣くな」
「うん……ぐすん」
遥に言われて、あたしは泣いていることに気が付いた。必死に涙を拭うけれど、ますます涙が溢れてくる。
「ったく、しかたねぇな」
そう言うと、遥は泣きじゃくるあたしを抱きしめてくれた。あたしは決して沈まない夕日に照らされながら、遥の胸の中でひたすらに泣いた。
どれくらいそうしていただろう。ようやく涙が収まり、顔を上げる。夕焼けの赤が目にしみた。
「ぐすっ、えへへ。最後だってのに、これじゃあ格好がつかないよね」
「いいんだよ、それで。別れはみんな悲しいもんだ。それに俺は、お前が俺のために泣いてくれてるんだったら、お前を格好悪いだなんて思わないよ」
遥があたしから離れていく。もう、お別れを言う時間だ。遥の温もりを名残惜しく感じながら、追いかけることも、目を逸らすこともせず、あたしは遥と向き合う。
「そろそろ、お別れだな」
「うん……」
「友達だけじゃなくて、ほかの子とも仲良くするんだぞ」
「うん……」
「苦手な勉強、頑張るんだぞ」
「わ、わかってるよ……」
「それと……あのヘタクソな料理の腕も上げないとな」
「も、もう。さっきから母親みたいなことばかり言って。言われなくても分かってるってば」
あたしはあからさまにむくれてみせる。そんなあたしを見て、遥はまた声を立てて笑った。
「あははっ、ごめんごめん。ただ、俺は心配なだけなんだよ、お前のことが。だってお前は、俺が好きになった女だからな」
まったく、こんな時まで調子いい事ばかり言うんだから。
「んじゃ、最後に。莉英、元気にやれよ」
「遥こそ、ね」
遥は安心したように微笑みを浮かべた。そして、あたしが瞬きをしたその一瞬の内に、遥の姿は消えてしまった。その場に残ったのは浜辺についた足跡だけ。しかしそれも、押し寄せる小さな細波に少しずつ攫われていく。浜辺にはあたしだけが残った。
「なんか、あっけなかったな」
漫画だと、別れの場面ってもっと盛り上がっていたのに、あたしたちの交わした言葉といえば、永遠の決別などとは程遠いものばかりだった。
まあでも、それもあたしたちらしい、かな。
「遥……」
既にここを去った彼へ呼びかける。届きますようにと願いながら。
「遥、ありがとう。そして……」
そして、さようなら
それまでぴくりとも動かなかった太陽が急に動き出した。太陽はぐんぐん空高くへと上り、あたりを照らし出す。さっきまで淡い赤に染まっていた空や海は眩しい青へとその色を変えていった。
そうか、あれは夕焼けじゃなくて、朝焼けだったんだ。
朝を迎え、辺りは陽気に包まれる。その温かさに抱かれながら、あたしはそっと目を閉じた。
窓から差し込む朝日に照らされ、あたしは目を覚ました。あたしは小さな違和感を覚えながらも暖かいベッドから這い出る。
時計を見ると既に7時を過ぎていた。ああ、さっき感じた違和感はこれか。いつもなら6時くらいには目が覚める。だから冬は日の出と共に起きるなんてことは滅多になかった。うう~ん、この感じはなかなか新鮮だなあ。
あれ? でも確か目覚まし時計を7時に鳴るようにセットしていたはず。それが鳴らないってことは、電池切れか? それとも故障かな? 枕元に置いてある目覚まし時計を手に取り、いろいろと弄くってみる。時計としてはしっかり機能しているけど、どうやら目覚まし機能は働かないみたいだ。念のため電池を交換してまた試してみる。しかし、やはり時計の針が動くだけで、目覚ましのベルは一向に鳴らなかった。
「もうこいつはダメかなあ」
時計を枕元に戻し、あくびをしながら伸びをする。なんだか今朝は清々しい。とても気持ちの良い朝だ。まるで、心の中のわだかまりがすっぽりと取れたような感じ。
そういえば、今晩は何か懐かしい夢を見ていた気がする。今朝がこんなにも気持ちが良いのは、もしかしたらその夢のお陰なのかも知れない。まあ内容は覚えてないけど。
「……今なら、描けるかも」
唐突に頭の中にイメージが浮かんでくる。もやもやとしていてはっきりとは掴めないそれは、幾度となく形を変え、色彩を変えていく。あたしはそれが、今あたしが描くべき情景なのだと理解した。
あたしはふと、怜佳ちゃんとの約束を思い出した。怜佳ちゃんが手術を終えたら、展覧会に来る。あたしは怜佳ちゃんのために最高の一枚を描くんだ。そう約束した。そして、ずっと描けずにいたその一枚の絵を、今なら描ける気がする。
こうしちゃいられない。早く支度を済ませて美術室へ行って早速描かなければ。今のこの心持ちが消えないうちに。
あたしは支度を素早く済ませ、寮の自室を飛び出した。2月の朝の冷たい空気があたしの頬を優しく撫でる。遠くからは、寒さに負けじと声を張り上げる野球部員の掛け声が響いてきた。そんなすべてが、今のあたしには眩しく見えた。
今思えば、誰かのために絵を描くなんて初めてなんじゃないか?
あたしは今まで自己満足の為に絵を描いてきた。多くのひとが思い出を写真に収めるように、あたしは思い出をキャンバスの中へと投影してきた。それは誰かに見せるためではなく、すべて自分のためだった。
だけど今は、怜佳ちゃんのために絵を描こうとしている。怜佳ちゃんはあたしの描く絵を見るのが楽しみだと、そう言ってくれた。あたしはその期待に応えたい。それが、大切な怜佳ちゃんのためになるのなら。
自然と駆け足になる。気付けばあたしは、怜佳ちゃんの期待に応えることへの喜びに笑みがこぼれていた。




