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君のいる明日  作者: ほろほろほろろ
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出会い

 ガタッ

 落ちる感覚と共に鈍い衝撃を感じ、あたしは目を覚ました。どうやらベッドから落ちたらしい。毛布にくるまりながら、右手にはジリジリとうるさく鳴る目覚まし時計を掴んでいる。

 目覚まし時計を止めて、体を起こした。その時、つぅ~っと、首筋を汗が伝うのがわかった。そんなに暑いわけではないのに、気が付けば体中が汗ばんでいた。

(また……あの夢だ……)

 さっきまで見ていた夢の感覚を思い出す。内容は覚えていない。でも、なんだか懐かしくて、嫌な夢だったような、そんな気がする。

 まあでも、夢のことなんか気にしても仕方が無い。あたしはあくびを噛み殺しながら、包まっていた毛布から抜け出した。

 右手の掴む時計を見ると、既に朝の7時を回っていた。春休みに入る前は6時半には起きていたことを考えると随分な寝坊だった。どうやら春休みの生活サイクルから抜けられていないようだ。念のために目覚まし時計をセットしておいて正解だった。

(それにしても、今日からまたいつもの日常が始まるのか……)

 ちょっぴり憂鬱なあたしは、顔を洗おうと、とりあえず洗面所へ向かっていった。


 ここは『高浜高校』。あたし、御嶋莉英の通う、至って普通の私立高校だ。全寮制で、生徒数はおよそ800人。そして今日は、あたしがこの高校の2年生になる記念すべき日だ。

 あたしは、寮から校舎へと続く道をのんびりと歩いていた。出発が早かったわけでもないのに、辺りを見回しても他の生徒の姿がいつもより大分少ない。他のみんなも春休みのダラけた生活から抜け出せず、今もベッドの上で夢見心地だったりするんだろうか。

 静かな春の陽気に、小鳥たちの声がよく響く。道の途中にある小さな原には、かわいらしい花たちが春風に合わせて花びらを揺すりながら踊っている。ここから少し遠くを眺めると、そこにはこの高校自慢の、とても立派な一本桜が惜しげもなくその花びらを広げている。

 春だ。そう思った。

 もちろん春休みの間もこの光景を見たりはした。けれど、新学期初めの春はそれとは違う。なんだか、あたしの進級を彩ってくれているような、そんな春だ。

 春の空気と、再び始まる学校生活に対する憂鬱、もとい期待に胸を膨らませながら、あたしは校舎へと続く道を進んでいった。


 春の陽気を感じながら歩いていると、気づけばもう昇降口に着いていた。あたしは新たな自分の下駄箱に靴を入れ、履きなれた上履きに履き替える。

「あぁ……どうしよう、どうしよう」

 教室へ向かおうと階段に足をかけたところで、どこからか声が聞こえた。女の子の声だ。

 無意識に声の主を探して首を廻らすと、小柄な女の子が廊下を歩いてこちらへ向かってきていた。すっかり白い顔をして、よく見れば目にはうるうると涙を溜めている。

(……もしかして、道に迷っちゃったのかな?)

 多分新入生の子だろう。きっと自分の教室の場所がわからないんだ。

 自分も新入生の頃よく迷ったことを思い出す。この高校の校舎は無駄に広くて、慣れない内は苦労するものだ。一応校内地図がいくつか設置はされているが、問題なのはその校内地図に行く為の地図がないことだ。

(ここでそっと手を差し伸べてあげるのが、上級生ってもんだろう)

 うちの高校は入学式も今日だったはず。高校入って初っ端から遅刻だなんて苦い思い出を残すのも酷だろう。ここは上級生であるところのあたしが、一肌脱ぐとしよう。

 あたしは未だにおろおろとしている新入生ちゃんの元へと駆け寄っていく。

「ねぇ、君。もしかして道に迷っちゃった?」

「はひぃ!」

 突然の素っ頓狂な声に、あたしは思わず後ずさる。急に声をかけたから驚かせてしまったようだ。

 そりゃ知らない人に急に話しかけられたら誰でも驚くだろう。反省しながら、あたしはなるべく笑顔を装う。作り笑いは得意なのだ。

「大丈夫だよ、落ち着いて。あたしはこの高校の2年生なんだ。もし何か困ってるなら力になれるかも」

「あ、あの……えっと……」

 新入生ちゃんの顔から驚きの色は消えた。が、恥ずかしそうに口ごもってしまった。恥ずかしがり屋さんなんだろう。少しの沈黙の後に、新入生ちゃんは口を開いた。

「じ、実は道に迷ってしまって。しょ、職員室まで行きたいんですけど……」

 俯き気味な新入生ちゃんは上目遣いにこちらを見つめてくる。不覚にもすこしどきりとしてしまった。

 それにしても、職員室か。新入生が何の用があるかは知らないけど、まぁ、初対面で突っ込んで訊くことでもないか。

「職員室だね。付いて来て」

「は、はい」

 あたしは新入生ちゃんを引き連れて職員室へと向かっていった。

 廊下を進み、階段を上り、渡り廊下を抜け、またさらに廊下を進んでいく。そしてやっと、『職員室』と書かれた札を掲げた扉の前に着いた。

「はい、ここが職員室だよ」

「こんなところに……。ほ、本当にありがとうございました」

 あたしが振り返ると、新入生ちゃんは大げさなほど頭をさげてお礼を言ってきた。

 そこまで大層なことをしたわけでもないんだけどな。まあとにかく、この子の助けにはなったようだし、あたしはあたしで、さっさと自分の教室へ向かうとしよう。

「じゃあ、あたしはもう行くね」

「は、はい。ありがとうございました」

 新入生ちゃんはもう一度頭を下げてお礼を言った。あたしはその姿に背を向けて、自分の教室へと続く廊下を進んでいった。


 キーンコーンカーンコーン

 HR開始を告げるチャイムが鳴る。しかし、あたしのクラスはいまだにざわついたまま。担任がまだ教室に来ないのだ。先生が居ないのをいいことに、クラスのみんなは無駄話に花を咲かせている。

「よう、御嶋」

 あたしがたった一人、自分の席でただぼぉ~っと担任が来るのを待っていると、一人の男子が話しかけてきた。

 去年一緒のクラスだった加山篤志くんだ。

「おはよう、加山くん。また同じクラスなんだね。今年もよろしくね」

 そう言って、あたしは微笑んでみせる。そうすると加山くんは、

「お、おう。そうだな。今年もよろしくな」

 と、少し照れた様子だ。

 1年生の頃から加山くんとはよく話していたけど、いまだに慣れないのか、あたしと話すときの加山くんはよく照れたような恥ずかしいような、そんな顔をしている。それに加えて、あたしがちょっとからかってやると顔を真っ赤にするのだ。それが可笑しくて、去年はよく加山くんをからかって遊んでいたものだ。

「って、それより聞いたか?」

 照れたかと思うと、今度はちょっと興奮気味な加山くんが、ずいっと身を乗り出して訊いてきた。

「聞いたって何を?」

「なんでもよ、この学年に転校生が来るらしいんだよ。高橋のやつが職員室で先生たちがそんな話をしてるのを聞いたらしいぜ」

「へぇ、そうなんだ。珍しいね」

 転校生……そういえばさっきからまわりのみんなの話の中に、そんな話題もあったような。

「楽しみだな、御嶋。どんなやつなんだろうな。面白いやつだったらいいな」

「それならいいけど。どんな理由で転校したのかわかんないんだよ? もしかしたら、前の学校で事件起こして転校ってパターンかも」

「あぁ、そりゃあ嫌だなあ。問題児は願い下げだ」

 そう言いながらも、さっきから加山くんの目は期待の色できらきらしている。余程楽しみなんだろう。

 それにしても、転校生か。あたしにはまるで興味が無いことだ。第一、進級と同時に転校してくるのだから、あたしからしてみれば転校生も1年のころの他のクラスの人も同じようなものだ。

 それなのにみんなは、少なくとも一部のグループでは、そんな存在を面白がっている。あたしには分からないなあ。

 そういえば、転校生は転校初日にクラスのみんなから質問攻めに遭うというイニシエーションがあるって、どこか昔のマンガで読んだな。もしかしたら、今日それが自分の目の前で起こるかもしれない。そう考えると、少しだけ楽しみな気持ちになる。まぁそれも、うちのクラスにその噂の転校生が来たらの話しだけど。

 ガラガラッ

 チャイムが鳴ってから10分ほど経って、ようやく担任が教室に入ってきた。

「はい、全員席に着け~。HR始めるぞ~」

 担任の声とともに教室からざわめきは消え、みんな自分の席に着き始める。次々に席が埋まっていくなか、ふとあたしは気がついた。あたしの前の席には誰も座らなかったのだ。

 教室中が妙な緊張感で満たされる。

「おはよう。一年間このクラスの担任を務める関谷だ。よろしく頼む。早速だが、みんなに転校生を紹介する。入ってきなさい」

 その瞬間、クラスが一斉にざわついた。が、担任の咳払いにみんなは一斉に口をつぐんだ。みんな声に出すほど、うちのクラスに転校生が来たことに驚いたんだろう。

 そう言うあたしも内心驚いていた。まさか本当にうちのクラスに来たとは。一体どんな子がやってくるのだろう。皆、固唾を飲んで、転校生が現れるのを待った。

 そして遂に、教室の引き戸が控えめに開かれた。そこから現れたのは、俯き気味な、小柄な女の子だった。

 丁度こんな小さめな女の子をどこかで見た覚えがあるな、とあたしは思った。はて、どこだっただろうか。

 担任が教壇から退いて、転校生ちゃんに譲る。転校生ちゃんは俯きながらちょこちょこと歩き、やがて教壇の上に立った。しかし、教壇の上でも顔を真っ直ぐに向けないまま、その視線は下の方へと注がれている。

「は、はじめまして。星乃怜佳といいます。こ、これから一年間よろしくお願いします」

 転校生ちゃんの声は、予想通りの弱々しく、今にも消え入りそうなか細いものだった。転校生ちゃんが挨拶を終えるのを見届けて、担任は口を開いた。

「じゃあ、星乃はあそこに座ってくれ」

 そう言って担任が指さすのは、あたしのちょうど前の空いた席だった。

 これまた小さく「はい」と返事をして、転校生ちゃんはあたしのほうへ歩いてくる。その間も、ずっと彼女は床ばかりを見ていた。

 何気なくその顔を覗き込む。向こうは下を向いているけど、こっちは座っていて視線が低いのでよく顔が見える。それにしても、やっぱりどこかで見たことある顔だ。

 あたしのすぐ前まで来てあたしの視線に気が付いたのか、ふと転校生ちゃんは顔を上げた。あたしたちは互いに見め合う形となった。

 すると、転校生ちゃんは声を上げずに驚いたように目を丸くした。きっとあたしも同じような顔をしていたと思う。なぜなら、このときあたしも大きな驚きを感じていたから。

 どこかで見たことあると思っていたこの転校生ちゃんは、なんと今朝会った新入生ちゃんであったのだ。


 HRが終わると、やっぱりというか、転校生ちゃんは数人のクラスメイトに囲まれてしまった。

 みんなは次々と転校生ちゃんへ質問を投げかける。どうして転校してきたの、とか。前の学校はどこ、とか。誰も相手のプライバシーなんか考えてはいないようだった。

 なんだか昔読んだマンガの実演を観てるかのようで、あたしは少し愉快な気持ちになった。転校生ちゃんからしたらいい迷惑だろうけど。

 一方転校生ちゃんといえば、余程の小心者か恥ずかしがり屋なのか、さっきから言い淀んでばかりで、質問に答えられていない。それに構わず質問の雨を降らすみんなは、ただ単に転校生を珍しがって質問したいだけなのかもしれない。

 さて、入学式と始業式も終わり、今日は午前で解散だ。ほとんどの生徒はこの後部活があるだろうけど、あたしは幽霊部員だから部活に顔は出さない。つまりこのまま帰る予定だ。

 いつのまにか転校生ちゃんへの質問コーナーは終わり、今度は、今からどこどこへ行こうといった親睦会へのお誘いが始まっていた。まあそれも良いかもしれない。初日から友達ができる良い機会だ。あたしは興味ないけど。

 少ない荷物をまとめ、席を立つ。あたしは教室から出る前に気になって、もう一度転校生ちゃんの様子を眺めてみた。すると、彼女もこちらを見てきていて、ばっちり目が合ってしまった。

 あたしはてっきり、彼女はみんなの誘いを快く受けると思っていたが、その考えとは裏腹に転校生ちゃんはまるで災難にでも遭っているかのような表情を向けてくる。その目は、涙こそ湛えていなかったけど、なにか懇願するような上目遣いでこちらを見つめてくるのだった。

 1つ、心の中でため息を吐く。そんな目で見られたらいやとは言えないじゃないか。仕方ない。助け舟を出してあげよう。

 あたしはきびすを返して、転校生ちゃんを取り囲む集団へと割って入っていった。

「みんな、ちょっといいかな」

 その呼びかけにみんなの注意が一斉あたしに向いたと。

「転校生ちゃんは、えっと……越して来たばかりでまだ荷解きができてなくて、これからその整理をしなきゃいけないんだ。だから……その、いろいろ話とかしたい気持ちも分かるけど、今日のところはこれでお開きにしよ?」

 うん。即興にしては中々本当っぽい言い訳だと、自分ながらに褒める。そんなあたしの心中を知ってか知らずか、みんなは納得しないといった顔をしながらも、邪魔になっちゃいけないと思ったのか、あたしの言葉を聞き入れてくれた。

 みんなが元のグループに戻るのを見届けて、あたしは今度こそ帰ろうと転校生ちゃんに背を向けると、

「あ、あの。御嶋さん……ですよね、お名前……」

 名前を呼ばれ、仕方なしに振り返る。

「御嶋さんも帰られるんですか……?」

「うん、そうだけど」

「それなら、もしよろしければ、そ、その……一緒に帰りませんか?」

 一緒に帰る、ねぇ。

 転校生ちゃんのその言葉を心の中で繰り返しながら、あたしはあることを思い出していた。

 今朝、彼女に初めて会ったとき、この子はひどく道に迷っていた。それも無理はない。なにしろこの高校の校舎は構造が入り組んでいて分かりにくいし、何よりこの子は今日転校してきたばかりだ。

はたしてその、転校したてで文字通り右も左も分からない状態なこの転校生ちゃんは、自力で寮まで辿り着けるだろうか。

 答えは否だ。

 つまりこの転校生ちゃんは、一緒に帰るという体で寮までの道案内をしてくれと言っているのだ。

 また1つ、心の中でため息を吐く。そしてまた、いつもの様な笑顔で、

「いいよ、一緒に帰ろうか」

 あたしはそう答えた。


 校舎から寮までの帰り道。行きは穏やかだったのに対し、帰りは随分と騒がしい。その理由はただ1つ。あたしの隣を歩く転校生ちゃんが、何かにつけてあたしにいろんなことを質問してくるのだ。

 転校生が転校初日に質問攻めに遭うのは分かるが、転校初日に転校生から質問攻めに遭うとは誰が予想できただろう。

「御嶋さんは美術部なんですよね? どんなことやってるんですか?」

 あたしは一瞬、彼女は一体いつどこでそんなことを知ったのかと思ったけれど、そういえば今日のHR中の自己紹介で言ったんだった。

 しっかり聞いていただなんて、真面目な子だな。あたしはその間ずっと上の空だったのに。

「実はあたし、幽霊部員なんだ。だから、最近は何やってるかは知らない」

「へぇ~、そうなんですか」

 てっきり幽霊部員をやってる理由を訊かれると思っていたけど、そこには触れてこなかった。そこらへんは先ほどの質問攻め連中と違ってしっかりわきまえているようだ。

 といったところで、あたしたちは寮の入り口に辿り着いた。

 短い帰途。それなのに、その間転校生ちゃんがずっと話してくるものだからだいぶ時間が長く感じた。

 あたしたちはエレベーターに乗り込んで、3階へのボタンを押す。あたしたち今の2年生は3階に部屋が割り振られているのだ。ちなみに1年生は2階、3年生は4階。1階には売店やら食堂やら、大浴場やらがある。

 エレベーターが3階につくと、すぐに左右への分かれ道だ。あたしは右を指さして言った。

「あたしはこっちだけど、転校生ちゃんは?」

「……私は、こっちです」

 彼女は左を指さす。

「そっか、じゃあ、また明日ね」

 そして、あたしは自室へ向かおうとして転校生ちゃんに背を向ける。

「あ、あの!」

 初めの一歩を踏み出そうとしたところで、急に呼び止められてしまった。あたしは、今度はなんだと思いながら振り返った。

「ん、どうしたの?」

 向き直ると、転校生ちゃんは真っ直ぐあたしの目を見つめてくる。教室での、俯いてばかりの彼女はそこにはいなかった。

「私の名前……」

「?」

「その、転校生じゃなくて、星乃怜佳です」

 そこまで聞いて、あたしはようやくこの子の言わんとすることに気がついた。あたしはこれまでずっと、転校生ちゃんのことを転校生ちゃんと呼んでいたのだ。それが、彼女には気に食わなかったのだ。

「あ、あぁごめんごめん。あたし名前覚えるの苦手でさ。怜佳ちゃんだね、わかった。もう覚えたよ」

 そう言うと、怜佳ちゃんはほっとしたように表情が柔らかくなった。これからは転校生ちゃんのことはちゃんと名前で呼ばなくては。

 ところで、あたしも気になっていたことが1つあった。

「じゃあ、あたしからもいいかな、怜佳ちゃん」

「はい、なんでしょう?」

 早速名前で呼ばれたことが嬉しいのか、彼女は顔を綻ばせた。

「敬語、やめない? あたしたち同学年でしょ?」

 実は、帰り道でずっと気になっていた。ちっちゃいとはいえ同級生に敬語を使われると、なんだかむずがゆくて仕方ないのだ。

「それも……そうだよね」

 よかった、分かってくれたみたい。

「じゃあ、改めて。また明日ね、怜佳ちゃん」

「うん、また明日、御嶋さん」

 そして、あたしたちは互いに背を向けてその場を後にした。


「ただいま~」

 誰もいない部屋に向かって、帰りの挨拶を済ませる。

 私はカバンを床に放ってベッドに身を投げた。ベッドは優しく私を抱きとめてくれた。

「御嶋さん…かぁ」

 自然と、今日初めて出会った女の子の名前が唇からこぼれた。

 私が初めての学校で道に迷っていた時に、颯爽と現れるなり私を助けてくれた女の子。あぁ、なんて優しい人だったろう。あの時の光景を今でも鮮明に思い描ける。そう、あのときの御嶋さんは、まさに王子様さながらだった。

 それにしても、

「綺麗な人……だったなぁ」

 目を閉じて、目蓋の裏に御嶋さんの姿を映し出す。

 すらっとした体、端正な顔立ち、さらさらとした長い黒髪。

(……っ)

 顔がなんだか火照るのを感じて、頬にそっと触れる。冷たい手が、かすかな熱を感じとる。

「また……明日か」

 新しい学校。正直不安ばかりだったけど、少しだけ、これからが楽しみだ。

 壁に掛けられた時計を見上げると、針は12時半を指している。

 緊張のしすぎで気づかなかったのか、今になってお腹が空いているのに気がついた。

「何か作ろ」

 そう思って台所の冷蔵庫を開けると、そこは空っぽだった。そういえば、まだ買出しに行っていなかった。

「しょうがない、何か買ってこよう」

 昨日この寮の1階の一画に売店を見つけたのを思い出す。あそこに行くことにしよう。

 服装は制服のままだけど、寮の中だからこのままでいいだろう。そうと決まれば出発だ。

 私は財布と鍵だけを持って玄関のドアに手をかける。

「……いってきます」

 振り返り、無人の部屋へとそう呟いて、私はドアを開いた。

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