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狂騒曲が終わる日に  作者: 藤木
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 不思議な男だ。

 差し出されたカップを受け取り、セイランドはそう感じていた。

 部屋に暖炉の炎だけが揺らめく様が、この時間を幻想的に見せているのだろうか。

親しくもないのに、なぜかお互いに相手が信頼できる男なのだと、そう感じていることが伝わってくる。それはとても夢のように現実感のないひとときだった。


「その中指の指輪、あれからずっとお外しにならなかったのですね」


 ジルバルドが、セイランドの左手に嵌められた指輪を示してくる。


「指輪? ああ、これは・・・。外してはいけない指輪でして」

「外してはいけない? その理由を、あなたは知っていますか?」

「理由は、・・・あれ? いや、たしか外してはいけないんだが、・・・ええっと何故だったかな?」


 こういうものは守りの力があるという。だから外さなかったのだろうか? 

 しかし別に嵌め続けなくてはならぬものでもないような・・・? そういえばなぜ自分はこの指輪を嵌め続けているのだろう。 

セイランドがその理由を思い出せないでいると、ジルバルドが小さくふぅっと息を吐いた。


「あなたは本当に信頼に足る方だ。その指輪、一度お外しになったら、あなたの女嫌いとやらが治りますよ」

「え?」


 何故そんなことを言われるのかが分からず、セイランドがジルバルドの顔を見返す。

 セイランドの持っていたカップを取り上げて、ジルバルドは机に置いた。

 そしてセイランドの前に跪いてその指輪のはまった手を取り、頭を下げた。


「まさかそこまで強く思いつめていらしたとは。指輪など何かの折に外されただろうと思っておりました。それなのにあれから一度もお外しにならなかったのですね。本当に感謝申し上げます」


 意味の分からないセイランドを、ジルバルドは下から見上げてくる。


「良ければ私に外させてもらえませんか。おそらく、その方が良いだろうと思うのです」

「よく分かりませんが別に指輪を外すくらい、・・・・・・どうぞ?」


 そのまま引っこ抜くのかと思いきや、指輪を抜く前にと、ジルバルドはセイランドを長椅子に横たわらせた。


「思い出してください。実は私達はここで会ったのが初めてではありません。あなたはあの頃、まだ少年でいらした」


そしてセイランドに語りかけながら目を閉じさせ、訳の分からないことを呟いてセイランドに昔の記憶を(さかのぼ)らせる。

やがてセイランドを揺り起こし、それからゆっくりとセイランドの目の前で指輪を引き抜いた。


「どうですかな、思い出せましたか?」

「・・・ああ、思い出した。・・・って、俺はどうして、忘れていたんだ?」


 目の前で問いかけてくるファンルケ医師を、たしかにセイランドは知っていたのだ。

 どうして忘れていたのだろう。

 思いがけず増えた記憶に、セイランドはいささか混乱した。



― ◇ – ★ – ◇ ―



 かつてのワッルスアの戦い。それはワッルスアに始まって周辺の地域へと広がり、敵にも味方にも多くの死者を出すものとなった。

 国中の医師だけでなく、治療のちの字も知らぬ人間も駆り出され、重傷者の手当てに追われた。


「そんな場所にユリアナを連れて行くことを躊躇(ためら)わなかったと言えば嘘になるでしょう。しかし幼いあの子を家に置いてはいけなかった。その頃、子供をさらう事件が多発していたのです。かどわかされた子供はまず帰ってきません。預けることも考えましたが、預けた先の人間が人買いに渡すことすらあり得た。・・・少しの金をめぐって何をやるか分からない、そんな空気が国を覆っていました」

 

 ジルバルドはユリアナに少年の格好をさせた。

まだ子供だったので胸も膨らんでいなかったのが幸いしたのだろう。幼い子供を戦場に連れてきたことへの非難がましい目はあったものの、猫の手すら借りたい状況である。

ある程度なら医師の手伝いもできたユリアナは、簡単な手当てをしたり、怪我人の体を拭いたりしながら、治療団の中で働いていた。


「怪我人の手当を行う治療団に対しては、どの兵士も敬意を払います。いずれ自分が傷ついた時に世話になるのですから。だから戦場であっても、そこはまだ安全だった。そこに慢心(まんしん)があったのでしょう」


 治療団のテントにまで運ばれてきていない傷病者が、助けられることもなく地面に転がっている。

ユリアナはうめき声を無視できず、テントから少し離れた場所に倒れている兵士達へと近づいていった。


「さすがに担ぐことはできなくても、水を与えて矢を抜いてやることはできるだろうと。だけど誰もが重傷というわけでもなく、中には大した傷じゃなくても戦いから逃げたくて大怪我をしているフリをする者もいました。そこであの子は、子供であっても構わないという男に襲われたのです」


 少女ではなく少年と思っていたらしいが、ユリアナを襲おうとした兵士に、ユリアナは泣き叫んで助けを求めた。

 しかし治療団のテントは遠く、ジルバルドや他の医師もユリアナが居なくなっていることに気づいていなかった。だが、そこでその兵士を斬りつけた少年がいた。


「その少年・・・と言っても青年になりかけていましたが、彼は自分も怪我で動けなかったのを、ユリアナの悲鳴を聞き、最後の力を振り絞ってその兵士を斬りつけたようでした。背後から斬られた兵士は絶命しました。しかし、その少年もまた命を落とすのは時間の問題となっていました」


 兵士の血を浴びたユリアナはガクガクと震えていた。

既に死を覚悟していたのだろう。助けてくれた少年は、震えているユリアナに

「安全な所に逃げろ。僕もちょっと休んだらすぐに行く」

「・・・あなたも、すごい怪我、・・・してる」

「大丈夫、この程度の怪我なんて俺達にはなんてことない」

と、空色の瞳を少年はユリアナに向けた。

 ユリアナがいるであろう方向に顔こそ向けていても、少年の目はもうほとんど見えていなかった。

 笑顔を浮かべたまま、少年は意識を失った。

ユリアナはこけつまろびつ治療団のテントへと駆け込んだ。血まみれのユリアナに驚いたジルバルドだが、すぐに駆けつけてその少年を抱き上げてテントに戻り、治療にあたった。


「怪我をしてからかなり時間がたっていたらしく、その少年はかなりの熱を出していました。通常であればそれはもう放置するしかありません。怪我人は次から次へと増えるのですから、生きるも死ぬも運次第です。ですがユリアナは自分を助けてくれた少年の体の汗をこまめに拭き、怪我の消毒も自らが徹底して行い、意識が戻らぬ少年の上半身を起こさせてはスプーンで薬を飲ませました」


 やがて少年の意識が戻る頃には、もう峠も越していた。

さすがにユリアナのそれまでの献身はあまりにも贔屓(ひいき)がすぎたので、他の患者から不満が出ていた。その少年の意識が戻った時点でユリアナは雑用の方に戻った。

 

「その少年は、自分がユリアナを救ったことなど覚えていませんでした。元々が死にかけていた上に、その後は高熱に浮かされ、それこそ気がついたら治療されていた、という状況だったのです。しかし若い力の生命力は素晴らしく、少年はみるみる内に回復していきました」

「すみません。そこまで言われても、そちらは全く記憶にありません」

「それだけ重体だったのですよ。起き上がって動くことも無理だった筈です。極限状態にあって、あなたは子供を襲う男を許さなかった」


 身動きはまだまだでも、周囲を見渡す程度のことはできる。その少年は、治療団のテントで働いているユリアナの姿を目で追うようになった。

 他の兵士達にしてみれば、ユリアナは自分の子供くらいの幼い少年にしか見えなかったが、その少年にとっては数才しか年の違わない子供だ。

怪我人に話しかけてはあれこれと世話を焼いているユリアナを、いつも一生懸命だと好ましく感じていた。

 男の子だと聞いてはいたが、まるで好きな女の子のように、少年はユリアナの姿を見かける時間を楽しみにするようになっていた。


 ユリアナもまた少年のことが気になっていたが、今更お礼を人前で言おうものなら周囲に性別が気づかれてしまう。何も言えず、こっそりと遠くから少年の回復ぶりを見つめていた。

 その治療団のテントで、二人が言葉を交わすことはなかった。


「思い出しました。たしか私はあなたに相談したのですね」

「そうです。あなたは私にこっそりと相談しました。このままでは自分は小さな少年を襲う人間になりかねない。この性的な衝動をどうにかできないか、と」

「・・・あの時は無茶なことを」

「いいえ。あなたはとても立派な方だ。弱い者を守ることをまず考える。自分の手からすらも」


 それはジルバルドの本心だった。

若い時期は本能的な性欲に翻弄されやすい。まだ体を動かして発散できていれば良かったのだろうが、治りかけた傷が開いてしまう為、セイランドは体を動かすことを禁止されていた。


「ちょうど私は人の心に影響を与える術についても研究していた時でした。しかしそれは治療に使うには今もまだ不完全で、ですがあなたのそういった性的な衝動をある程度抑える程度には使えるのかもしれないと思ったのです」


 相談されてもジルバルドはあまり心配していなかった。自分が相手を襲うかもしれないと思って先に手を打とうとする少年が、ユリアナを襲う筈もなかったからである。

 恥ずかしい相談をしてまで弱者を守ろうとする、それは少年の誇り高さを示していた。


「あまり効果がないと分かっていたその術を、私はあなたの指輪をポイントにして掛けました。一度指輪を外せば効果が消えてしまう術です。簡単なものでしたが、あなたの騎士道精神を思えば、その程度で十分でした」

「それは過大評価でしょう」


 セイランドが顔を赤らめる。

思えばあの時の自分はなんて恥ずかしい相談を持ち掛けていたのだろう。


「それ以上でした。まさかあれから一度も外さなかったとは。ましてや理由も分からないまま外してはいけないという強い思いだけを残していた。・・・どんなにあなたがユリアナの為に自分を抑えてくださっていたのか、それを改めて私は先ほど知ったのです」


 ジルバルドがセイランドに向ける眼差しに、感謝以外のものはなかった。父として娘の恩人に向ける思いがそこにある。


「こういった術というのは、本人の心がかなり影響します。本来はユリアナを襲わないようにと掛けた術でしたが、恐らくあなたは無意識のうちにユリアナが少年ではなく少女だと確信していたのでしょう。・・・あなたの心の中でどんな変化があったのかは分かりませんが、やがてその強い意志が女性を拒絶する方向へと向き、そうして女嫌いという作用へ変わっていったのだと考えます」


 ジルバルドの言葉がセイランドに沁みていく。

そういえばワッルスアの戦いまで、自分は普通に女性と触れ合っていたのだ。


「一つ疑問なのは、普通の女性といれば吐き気も出ましたが、何人かの女性やお弟子殿には特にそういったことがありませんでした。それはなぜなのでしょう」

「さあ? その女性には他に想う人がいるとあなたが知っていたとかですか? ですがユリアナを守る為の暗示ならばワッルスワを離れれば意味もなくなるというもの。状況の変化と共に、あなたの心にも何かしらの変化が訪れていたのでしょう」

「どうなんでしょう」


 さすがのジルバルドもその例外に至った理由まで分からない。

 それこそフィツエリの市場で出会ったルーナが、男性としてのセイランドを全く評価していなかったばかりか対象外としてみなしていたことを、セイランドが深層的に気づいていたなどと、誰が気づくだろう。

 だからセイランドの疑問に、ジルバルドは微笑で済ませた。


「人の心などあやふやなものですよ。ですがもう、あなたは女嫌いでも何でもない。この数年間、かなりのご不便があったことでしょう。ユリアナの師として、父として、あなたには心からの感謝を。・・・あの時、娘を救ってくださいまして本当にありがとうございました」


 たしかに自分を繋ぐ枷はもうない。

 セイランドも自分が解き放たれたことを感じていた。



― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―




 王都ロームにどの貴族も専用の屋敷を持ち、ローム滞在中はその屋敷を利用する。領地にある自分の城に引きこもる貴族もあれば、王都の屋敷にばかり詰める貴族もいる。

 フィツエリから出たことのなかったルーナとロシータは、ローム風の屋敷と生活スタイルに、かなり感激していた。ここではベールをかぶらなくてもいいし、顔をさらして自由に出歩くこともできるのだ。


「なんて自由なのかしら。素敵」

「ルーナ様。ロカーン様が睨んでおいでですよ」


 舞踏会が催されるというので、フィツエリ男爵は長男のロカーンを王都に寄越していた。ルーナのエスコートには、父である男爵よりも兄の方が望ましいだろうと踏んだからだ。

 妹に続いてすぐにロームに到着したロカーンは、父の代理として気忙しい日々を送っていた。

 

「ルーナ。そんなことよりダンスは覚えたのか。ワルツならまだ踊る相手がどうにでもごまかしてくれるが、ラウンドのように皆が一斉に踊るのはヘタクソが目立つ。恥をかかぬようきちんと練習しておけ」

「はい」


 妹に剣を教えたことはあったが、フィツエリの文化ではダンスなど必要なかった。おかげでロカーンは妹に短期間でダンスを教えてくれる教師探しにも奔走させられた。


「こういうものは順番もあらかじめ決められている。お前の前後にも同じ男爵位の令嬢が居並ぶ。その中で一番のヘタクソだったらいい笑いものだ。心しとけ」

「はい。・・・お兄様、あの、ケリスエ様も舞踏会に参加なさるのかしら」


 どこまでも立場を理解しない妹に、ロカーンの頬も引き攣る。


「ある程度、場がほぐれたら軍部の人間も踊りに参加することはあるだろう。しかし舞踏会とは、常に王侯貴族が家格に応じて始めていくものだ。場をわきまえろ」

「はい」

 

 ロカーンは冷ややかに妹を見やった。


「ルーナ。お前の愚かな行動をごまかす為にロームへと連れ出してもらったこともある。ケリスエ将軍の人となりは信頼に値すると評価もしている。別に恋するなとは言わん。だが建前というものをないがしろにするわけにはいかないことも理解しろ」

「・・・はい、お兄様」

「いくらでも練習はしておけ。分かったな」

 

 ロカーンが部屋を出ていくと、ルーナは窓へと近づいた。外に広がる青空を眺める。


「ルーナ様」


 心配そうなロシータの声を背後に聞きながら、ルーナは空を横切る鳥の姿に目を細めた。


(建前を理解して、そこに何が残るというのかしら。お兄様。違う人を慕いながら暮らし続けることに、何があるというのですか)


 その時まで思いもしなかった激情が、この心の中にあったことを知った日。

 全てを投げ捨てても構わないという、その言葉の意味を知った。

 あれからわずかな日数しかたっていないというのに、あの日までの自分は遥かに遠い。

この想いを知るまでの自分はどんなに子供だったことだろう。




― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―




 ユリアナが目覚めると、既にセイランドはいなくなっていた。

 王都ロームに早く戻らねばならない為、夜明けと共に出発したのだという。


「ご挨拶、しておきたかったのに・・・」

「きっと分かってくださっているよ。ユリアナの寝起きが悪いことぐらいね。さあ、今日はお前の手料理を食べさせてもらえるかい? 久しぶりなんだ。ゆっくり二人で過ごしたい」

「はい、お師匠様」


 ジルバルドが目をくりっとさせながら促すと、ユリアナも笑い出す。


「そういえばルクスさんに渡した傷薬、受け取ってくれました?」

「ああ。よく手に入れたね。助かったよ」

「うふふ。戦争が終わった後に買いに行ったのがよかったみたいです」

「ああ、なるほど」


昨夜、ジルバルドに涙ながらに訴えたことは、寝ている間にユリアナの中で「全てうまく進むから大丈夫」という思いに変化していた。

 目覚めて朝の光を浴びた時、ユリアナはもう何も心配いらないという、優しい思いが心に満ちていくのを感じたのである。

 時を(つかさど)る女神によって、運命の車輪は回されていく。あるべき未来と過去に向かって。


「フィツエリで面白い料理を覚えました。楽しみにしていてくださいね」

「ああ。そういえば伝言を頼まれていたんだ。明日、テイト殿が、お前を森の家にまで送っていってくださるそうだよ」

「えっ、いいのに。別に一人でも大丈夫なんだけど」

「せっかくだから甘えておきなさい。やはり一人では心配だからね。送ってもらえるのならそれに越したことはない」

「はぁい」

「庭の香草を摘んでくる。お湯を沸かしておいてくれるかい?」

「はい、お師匠様」


 庭へと出ていくジルバルドを見送り、ユリアナは小さく微笑んだ。

会ったら心の痛みだけがぶり返すのだろうと思っていた。お師匠様が自分の気持ちに応えてくれる日が来ないであろうことは分かっていたから。

 けれども自分の心はとても安らいでいる。

 あの頃の自分が望んだ想いは最後までくれなかったけれど、それでも違う愛が向けられ続けていたことに気づいたからかもしれない。


「ユリアナが好きなハーブを植えといてよかった。どうしてもあの子の好みで揃えてしまうクセが抜けんな」

 

 外に出て香草を幾つか摘むと、ついでに馬小屋にいるテイトの馬にもジルバルドは柔らかな草を与えた。

 隣の空いたスペースに、昨日までいたセイランドの馬を思い返す。

ジルバルドは夜明け前に旅立った男に心の中で呟いた。


(術はとっくに私の掛けたものから、あなたの心が決めたものへと変化していたのですよ、セイランド殿。女性を拒絶し、ユリアナを受け入れた。・・・それはそういうことなのでしょう)


 人生を切り開くのは常に自分だ。

 けれどもこの世界を回す車輪は、人の心を取りこみながら回り続ける。

 ユリアナが置かれていた状況をセイランドが知った以上、案じることはもうないと分かっていた。


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