1 裏 ユリアナは師を思う
初恋は実らないって言うけど、本当だった。
ユリアナは、養父にして師匠の使っていた部屋に風を通しながらそう思う。
「いつになったら戻ってきてくれるの、かな」
一人になって、もうどれくらいになるだろう。師匠はまだ帰ってこない。もう二度と戻らないかもしれない。
街にはもう師匠のことを知らない人も増えた。
基本的にユリアナは街で借りている部屋を拠点に仕事をするが、薬草や畑のある森の家こそが本当の家だ。何故なら野菜や薬草などを収穫しては干したり煮詰めたりする作業がしやすいからである。
どうしても独特なにおいが出たりするから、民家と離れている方が心置きなく作業できた。
時々、悩みのある女性は直接この森の家にまでやってくる。男のまじない師が多い中、女のまじない師だからこそ必要とされることがあるからだ。
これでも未婚の娘なので男性客には屋外で応対しているが、女性客は家の中まで招き入れる。
そんな時、師匠の残してある持ち物を見て、誰の物かと問われるのが常だった。
説明するのが億劫で、父の物だと言うことにも慣れてしまった。
(お師匠様の使っていた物全てを捨ててしまえば、こんなやりきれなさからも逃げられるのかな)
そう思うけれど、捨ててしまえば二度と帰ってきてくれなくなりそうで、それもできない。
自分にできるのは、帰りを待つことだけ。
――― ユリアナにはちゃんと違う人がいるよ。こんなおじさんで手を打つんじゃない。
そんなことを言って、本気だった自分の気持ちをそのまま無かったことにしてしまったお師匠様。その顔はいつだって自分への愛情を隠さなかったくせに、それでもそんな言葉を告げるのだ。
――― 君にはもう一人立ちできる実力がある。だから一人でやってみなさい。僕の影になるのではなく、自分の力で君が輝く為に。その為に、貴族との縁も作っておいた。だから君に変な手を出す奴はいない。
そう言って、この家と仕事を明け渡して姿を消したお師匠様。
分かっていた。その為に何を引き受けたのかだなんて。
最後までそこにはユリアナへの愛情があったのだと、そのそつのない対応にどうして気づかずにいられただろう。
「結局、何にも分かってないのよ」
物わかりのいい大人なんて大嫌い。子供だからって、気持ちを偽物だって決めつけないで。
もう、私は大人なのに・・・。
ううん、ずっとずっと子供の時から、今と同じように大人だった。
だって早くお師匠様に追いつきたかったから。
(年の差なんて関係ないのに。私はずっとお師匠様しか見てなかったのに)
お師匠様なんて、そんな寝言を言い続けていればいいのだ。オールドミスになった自分を見て、後悔したって遅いんだから。
(早く帰ってきて。私はずっと待っているから)
だから私はこの家に居続ける。お師匠様が戻ってくる、その日まで。
― ◇ – ★ – ◇ ―
ユリアナは未婚だが、仕事の時には髪を結い上げて後ろで一つにまとめている。そしてかっちりとした飾り気のない服を着るようにしていた。
髪型と服装だけならどこの老婆かと言わんばかりの地味さだ。
だから仕事のない日には髪をおろしてリボンを結んだり、襟に刺繍をほどこしたブラウスを着たり、明るい色のスカートにしてみたりと、ちょっとしたおしゃれを楽しむようにしていた。
だからちょっと可愛いお気に入りのエプロンをつけて外に出ると、隣の建物に住む老爺が声をかけてくる。
「なんだ、ユリアナ。可愛いじゃないか。いつもそうしてりゃいいのに」
「ありがと。だけどダメダメ。だってまだ借金が終わらないもの。これでおしゃれとか楽しんでたら、一気に返せとか言われちゃう」
「大変だなあ。まあ、頑張れ」
孫が赤ん坊を産んだと、この間は楽しそうに言っていた老爺は、ユリアナが早く結婚すればいいのにと、何かと勧めてくる。
悪気はないからユリアナも適当にいなしていた。
「うん。ちょっと前のハーブ、質が悪かったらしくて、ご不興をかってしまったのよ。もっと香りがよくて味もいいハーブを見つけてこないと、クビになったら大変だもの」
「そうだなぁ。稼いでも稼いだ金額がそのまま返済に回るんじゃどうしようもないか。ユリアナは一人でも稼げるいい子なのに、働かなくなったら借金だけが残るんじゃなぁ」
歯に衣着せぬ老爺だが、ユリアナは笑い飛ばす。
「ええ。だけどいつかは終わる筈だしね。生きていこうと思ったら誰だって何かしらはあるわよ」
「そりゃそうだ」
娘が一人で稼げるというのは、変な男達に目をつけられやすい。そしてヒモ志願の男達が寄ってくるものだ。
師匠がいなくなった途端、ユリアナには縁談が殺到した。それだけ稼ぎ手を無料で獲得したかったらしい。
それを撥ねつけ、今もユリアナが平和に生活できるのは、開業資金を貴族に出資してもらったことになっているからだった。
ロームの中心地から少し離れた郊外の街ではあるが、十分に乗り合い馬車、もしくは徒歩で行き来できる距離とあって、ユリアナはちょくちょくとロームの中心地まで出向いている。
そして貴族の夫人や令嬢相手に占いをするのだ。占いをするといっても、ユリアナの場合、それにかこつけた健康チェックである。
(貴族に借金している状態で、だから返済が終わるまではタダ働きとかって言われたらそりゃ縁談もなくなるわよね。それでいて貴族がお金を出した状態だから何かあったらすぐに調査が入るとなると)
貴族の令息とお知り合いになれるのではないかと、周囲から羨ましがられたこともあるが、ユリアナの場合は、「大切な奥様やお嬢様が医師と親密な関係にならない為」に雇われているようなものだと知って、その羨望も消え失せていた。
「だが、それだけいい葉とかを手に入れても、あっちは金払わないんだろ? 借金からの天引きとかで」
「まあね。だからその分、お産の手伝いとかで稼ぐしかないの。それでも暮らしていけるんだからそれでいいわ」
「そうだな。生きてりゃどうにかなるさ」
遠くを見つめる老爺とて、順風満帆の日々ではない。
たしか妹の息子は兵役に取られて戦死し、家に残っていた子供達は行方不明だと聞いた。
(最近は薬草を買いに行っても、全く違う葉が売られていたりするから困るわ。しかもネズミのフンを薬として売りつけているところもある)
生きていくのは大変だ。
騙されても騙された奴が悪いとされたりする。
(問題はおねしょに効く薬が欲しいってことよね。いいのがあればいいけれど)
寝る前にちゃんと厠へ行けばいいだけなのに、それを面倒がってしないからそうなるのだ。
綺麗な板に可愛い絵を描いてもらって、寝る前には厠へ行くのを楽しみにするようにしてみるというのはどうだろう。寝る前に厠でその絵を見ると、楽しい夢が見られると言えばまだ信じると思う。
(まじない師だなんて、結局は雑用係なのよね。貴族の奥様が使用人にも頼れないことを解決する為の)
だからこそ庇護されることが可能なのだが、ユリアナは無名の絵描きを探す気満々である。
寝る前に忘れないよう、ベッドの所にかけておく絵には「さあ、お手洗いに行こう。いい夢が見られるんだよ」みたいなフレーズを。
途中の壁には「こっちが君のベッドのお部屋。こっちが厠」みたいなフレーズと可愛い絵を。
温かいミルクを飲んでお手洗いに行って、そしてベッドに入るというそれを習慣化すればどうにかなると信じたい。
(私の時にはお師匠様が描いてくれたのよね。暗くても怖くないようにってお父さんとお母さんの絵を)
はっきり言ってヘタクソな絵だったけれど、思い出せば心が温かくなる。
とても大切だったのに、引っ越しのどさくさでなくなってしまった。
恐らく師匠がわざとなくしたフリで捨てたのだと思う。
(ヘタでもいいから嬉しかったのに)
夜中に暗いのが怖くておねしょしてしまわないようにと、頑張って描いてくれたのが嬉しかった。
だから自分もこの仕事を楽しんでやることができるのだろう。
(実際は借金なんてないし、ちゃんとお駄賃ももらえるからいいんだけど)
だけどたまに思うのだ。
自分の仕事って何だったっけ? と。
薬師の真似事もできるまじない師として売り出された筈の自分だが、最近は何でも屋だと貴族の奥様から認識されているような気がしてならない。いいお得意様なので文句はないのだが、持ちこまれる内容がなんだかおかしくなりつつある気がするのだ。
最後に占いをしたのはいつだっただろう。
(そうだわ。そしてお嬢ちゃまの虫かごも手に入れてこなきゃいけないんだった。だけどお嬢ちゃま、年齢的に肌荒れしやすくなってるのよね。肌がさっぱりする水も作って、奥様にお嬢ちゃまの様子を見てつけてあげていただくようにお伝えしないと。お嬢ちゃまに渡すより奥様の株をあげるようにしといた方がいいわ。だって後妻だって話だったもの)
まじない師、ユリアナ。
彼女を育てた師匠はまだ帰らない。