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風が頬をなぶっていく。
人とは弱いものだ。自分のことならば命をかけられても、我が子一人に心が惑う。
ファスットは川で網を仕込みながら、考えずにはいられなかった。
浅瀬の多い川だが、こうしておくと魚が獲れる。今日はオイルで焼いてもらおう。無心に体を動かしていれば、考えたくないことを考えずに済む。
「親父」
そこに、声が掛けられた。既に独立した一番上の息子だ。
「なんだ。どうせなら手伝え」
「やめとくよ。すぐに戻らなきゃいけないから」
「そうか」
「あの男が言ってたことだけど、・・・服なら同じ模様のものをお袋が作るって。そうすれば何よりもの証拠となるからって」
「無用だ」
「けど」
「あいつは死んでなどおらんっ」
バシャリと川の水が跳ねる。
まだきちんと仕込めていなかった網をファスットが乱暴に振り回したからだ。網が振りまいた水しぶきが、ファスットの顔を濡らした。
「無用だ」
「・・・・・・」
大きなため息をつき、息子は何も言わない。
しばらくして振り向くと、そこにはもう誰もいなかった。
きっと現実を受け入れることのできぬ父だと呆れてしまったのだろう。
お前には分かるまい。誰よりもおとなしく優しい子だから、姫のそばにつけた。誰よりも優しい子だから全てを飲み込んでこの地を離れた。
「お前には分からん・・・」
騎士には不向きな息子を愛していた父の気持ちなど。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
ネーテル城下は、かなり賑わいがあった。その一画に臨時で店を出し、セイムとユリアナは商売を始めた。
広場には何本かの柱が建ち、そこに天井が設けられているのだ。壁は無いが、雨は防げる。そこに一区画いくらで店を開くことができる。
「なるほど、飯がうまいわけだ。かなりの食材が出回っている」
「そうだね。こっちは国境と反対方向だし、影響が少なかったんだろうね」
「女の物売りがいるってことは、治安もいいらしい」
二人が考えるのは、やはりどれほどの活気が戻っているか、である。こういった肌で感じる情報は大切だ。人の営みは全てに繋がっているのだから。
肝心の結婚候補者であるスザンナについては、二人は揃って一時棚上げにしていた。
お互いにその気がないのだから協力関係になることはできそうだが、あの考え無しな行動力を思うと躊躇われるものがあったのだ。
「今日は荷物を馬で運んでくる。飛ばさなきゃいけないらしいから夜には戻れると思うが、もしかしたら明日になるかもしれん。小屋の戸締りには気をつけろ」
「そう。気をつけてね、兄さん」
「お前もな。何かあったら隣の小屋のロスさん達をすぐ頼るんだぞ」
「うん」
セイムはユリアナにまじない師としての仕事を押しつけ、自分は肉体労働の仕事に行くことが多かった。臨時の荷運びなど、仕事は選ばなければあるものだ。
ネーテル城内ではないので、別にセイムがまじない師のフリをする必要もないからだろう。また、路銀なしには旅が成り立たない。先立つものは常に必要なのだ。
(本当は私に見せたくないものもあるからなんだろうけど。それは私も同じね。留守にしてくれる方が、こっちも連絡を取りやすいってことはあるもの)
まじない師として店を出していても、「ちょっと留守にします」の札を置いて配達や仕入れに行くこともある。
そしてセイムがいない隙に、彼の動向を知らせなくてはならなかった。
その際、ユリアナはセイムに見慣れない男達が話しかけている姿を見かけることもあった。気づかぬふりをして人ごみに紛れるようにしたが、おそらく彼らはセイムの部下だ。
「セイランド様。しかしそれは・・・」
「いや、もしかしたら・・・」
「クシリシ砦の方にまだ・・・」
そんな言葉を建物の陰に隠れて聞いてしまった時、そっとその場を外れずにはいられなかった。生きる世界が違うということを突きつけられて。
たとえ気のおけない兄弟をよそおっていても、泥だらけになって日雇いの仕事から帰ってきていても、本来の彼はそういう人じゃない。
考えてみれば、有名な騎士が行方知れずになるわけにはいかない。彼の居場所は常に伝えられているのだろう。
(スザンナ様との縁は難しいと報告するしかない。セイランド様、・・・私を信じないで)
そう思いながら、ユリアナはパンくずを与えた鳩を空に解き放った。
― ◇ – ★ – ◇ ―
ほとんど少年が一人で出している店ともなると変な輩に絡まれて売り上げを狙われそうなものだが、そんなこともなく平和に時間は過ぎていた。
「おかげでな、最近、調子がいいのだ」
「ありがとうございます。ついでにまたほぐしてさしあげますね」
ファスットは良いお得意さんだ。こういう露店市場で店を開いているユリアナに話しかけては、遠慮なく寝転んでマッサージを受けていく。
威厳も何もあったものじゃないが、きっとファスットにも考えがあるのだろう。
「うむ。やはりユリーはいいな。セイムもいい男だが、ユリーはいい子だ。ちゃんと稼げとるか? 困っとらんか?」
「大丈夫です。どうも医師や薬師が足りていないらしく、僕にまで依頼をいただけますので」
「戦から戻ってきた奴も多いからな」
セイムもユリアナも本当にお金に困っているわけではなかった。
それでも稼ごうとするのは、路銀はその場その場で稼いでいった方がいいからだ。目立たぬように紛れ込むとは、そういうことである。
そしてこの街では占いよりも治療の依頼が多く、ユリアナの稼ぎは決して悪くなかった。
「ロムの兄もみてやったそうだな」
「ロムさん?」
「一昨日、お前に脇腹の傷を負った兄をみせにきた男だ」
「ああ。矢じりが残っていた人ですね。・・・・・・ひどい痛みだったでしょうに、強い人でした。一応、今日も様子をみてきましたが、発熱も落ち着いていましたから、あとは静かに療養しておけば大丈夫だろうと思います」
「わざわざ行ってやったのか」
「医師や薬師の方と違い、自分達が使う薬草は効果が小さいことも多いのです。だから油断はできません。あと二日程は様子を見に行っておけば悪化も防げます」
「そうか。ユリーは頑張り屋だな」
あまり効果がないのだと言ってのけたようなものだが、ファスットは気にしない様子だった。暖炉に薪と一緒に石を入れておき、熱くなった石を厚手の布で包んで当てると患部が楽になる方法を教えてあげたからだろう。
どうであれ、ユリアナはそれなりの効果をあげている。
それは当たり前の話でもあった、ユリアナが使っているのは、まじない師ではなく薬師達が使うレベルの薬草だ。それを言ってしまえば厄介なことになる。だから子供だましの薬草しか使っていませんよと、何かとアピールしてはいるものの、ユリアナにはぼちぼちと客がやってきていた。
ファスットは時々お菓子をくれた。なんでも息子しかいないファスットは、娘という存在に憧れていたのだそうだ。
「セイム殿は今日も力仕事に行っているのか」
「あ、はい。その方が稼ぎがいいもので・・・。兄はまじない師もできますが、肉体労働もお手の物なんです」
「そうであろうな」
うんうんと頷かれても、それもそれで気まずい。
バレてる、バレてるんですか、バレてるんですよねっ!?
いや、考えまい。だって直接何かを言われたわけじゃないし。
ハハハハと笑ってごまかしながらも、しかしまじない師としてセイムが役立たずなのは、確実にバレていたことだろう。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
雨の日には、客も少ない。たとえ屋根があっても、冷たい雨や風が入り込まぬよう、簡易的なテントを張っている店もある。
ユリアナもまたテントを張って雨をよけていた。薬が濡れると困るからである。
今日はたいした稼ぎになりそうにないなと思ってぼーっと下を向いていたユリアナだが、視界に靴が映った。
「占いをお願いしたいんです」
「殿方が占いを望まれるとは珍しいことでございます。さて、どんなことを占いましょう?」
自分も少年を装っているのだから、その物言いはどうかと思わなくもなかったが、何事もとっかかりは必要である。
その日、やってきたのは暗いオリーブグリーン色のマントをかぶった少年だった。黒に近く地味な色ながら、マントの裏側には凝った刺繍をほどこされているのに気づけば、実は手が込んでいると分かる。
しかし、その少年の迷いのない瞳は、占いを求めるものではなかった。
基本的に占いとは、迷える心に指針を与えるものにすぎない。迷う心を鼓舞することはあっても、道を切り開く力は本人だけのものだ。占いが道を切り開くことはありえない。
だから占いを求める人間は、未だ迷いの中にあることを示している。
少なくとも、自分が行くべき道を見出している人間が求めるものではないのだ。
「自分にとって親にも等しい大切な人がいます。その人がいなくなりました。それを探し出してくれそうな心当たりがありますが、その心当たりを頼れば、今度は自分がとんでもないことになります。僕は、親にも等しい大切な人に届くか届かないかも分からない希望と、確実に自分が背負わねばならぬ罪をおかす覚悟との間で揺れています。まじない師殿は、どう思われますか?」
「難しい岐路でございますね」
それは占いじゃない。
そう思いながら、ユリアナは水晶玉に手を当てた。
どいつもこいつも、私に何を求めているのか。私を便利屋だとでも思っているのか。いや、まさか。いやいや、まさか。
「あなた様の星はここにはありませぬ」
「・・・それはどういう意味ですか?」
「その通りの意味です。あなた様は自分の生きる場所を求め、それはここではないと感じていらっしゃる。やがて、その答えをあなた様は手になさるでしょう」
「そんな質問をした覚えがないのですが」
「すぐに、この意味がお分かりいただけることでしょう。そして、それは先ほどの答えにもかかわってまいります。それではどうぞお帰りを。お代は銅貨一枚でございます」
面食らったままの少年は、それでも銅貨を取り出すと、ユリアナに渡した。不満そうな顔のまま立ち去ろうとする。
そんな少年の背中に、ユリアナは最後に声を掛けた。
「ご存じでしたか? そのマントの裏に刺繍で描かれた模様には意味がありまして、悪意を打ち払い、護りを増すとされております。はるか昔、その意味をこめてとある国では王族に愛用された模様でございます。やがてその王国は滅びたと言われておりますが、その流れを汲んだのか、遠い異国でもその模様はお守りとして使われております。ですが、それを知る人間は少ない。少なくともこの国でそれを知るのはかなりの識者でございましょう。目立たぬ場所に加護の模様とは、それを作ってくださった方は、あなた様によほどの愛情を抱いていらしたのでしょうね」
驚いたように振り返った少年はマントの裏側をひっくり返し、袖口の模様を見つめた。
泣きそうな顔になった少年だったが、そのまま軽く仕草で謝意を示すと、街の向こうへと消えていった。
占いはともかくとして、銅貨一枚の仕事はしただろうと、ユリアナは思うことにした。
旅をするまじない師とは、情報をももたらす職業なのである。
― ◇ – ★ – ◇ ―
十日ほど滞在し、その街を引き払う日が来た。前日には何かと世話になったファスットにも出立の挨拶をすると、名残を惜しんでくれた。その顔色は最初に会った時よりも良くなっている。
それがユリアナにとって一番嬉しいことであった。
「せっかくの腕だというのにもう行くのか。どうだ、ここに腰を落ち着けんか?」
「ありがとうございます。しかし、私には戻らねばならぬ場所があります」
「そうか」
「はい」
ユリアナの答えに何を思ったのか、ファスットはそれ以上重ねて言わなかった。
誰もがその人なりの人生を歩んでいる。
ユリアナの頭を優しくなでると、「元気でな」と言ってくれたその表情は、もしかしたらユリアナに父がいたらそんな感じだったのかもしれない。
「どうかファスット様もご自愛ください」
「ありがとうな」
いい人だった。ユリアナが娘だと気づいていても、変な要求をすることもなく守ってくれていたのだと思う。
お礼にと渡した塗り薬も喜んでくれた。おかげで、王都に来る際には少し郊外まで足を伸ばしてくださいと、自分が住む街を案内しておいたユリアナである。
あれから、スザンナは全く二人の所に現れていなかった。
「結局、抜け出してくるのは無理だったんだろうけど」
ユリアナはその事実にほっとしながら、セイムと旅程の確認をするつもりで、独り言のようにつぶやいた。
旅立ちの朝、外はまだ暗い。
だが、旅人は太陽の光と共に発つものだ。明るい時間は限られている。太陽の出ている内にできるだけ移動し、暗くなる前に次の宿に着くか、野宿できるようにしておかねばならない。
「そんなもんだろ。違う世界に飛びこむ勇気など、土壇場で消え去るものだ。あの令嬢が弱虫だとかいうのではなく、現実を見るとはそういうことさ」
セイムはなんてことない話であるかのように相槌を打った。
城下で市を開く場合、専用の小屋が与えられる。しかし、あくまで屋根と壁と土間だけのスペースである。そこに川から水を汲んで来たりして煮炊きをする。寝台すらない小屋だったが、雨がしのげればそれでいい。
その小屋ともお別れだ。仮の宿を渡り歩きながら、流れゆく人々は己を渡り鳥にたとえる。
「まあね。正直なところ、これで良かったとも思うんだ」
「そうなのか? かなり思い入れがあったようだが。ま、籠の中の鳥が空を夢見るもんじゃないよな」
「籠の中なら幸せに生きていける、誰もが。そういう幸せもあるよね」
「それで山越えするか、それとも街道を行くか、どっちにする? おそらく着くのはどっちでも似たり寄ったりだろう」
「僕としては山越えかな。歩きながら薬草も摘んでいきたいから」
「なるほど」
「それに途中の村にも寄ってみたい。実は、いくつかの薬草が戦争の前後から品薄になっているんだけど、それは怪我の治りを早める効果があるんだ」
「ほぉ」
セイムが食いついた。
「もしかしたら、自分達で隠し持っているのかもしれない。だけど戦争は終わった。きちんと代価を払えば今なら出してくれるかもしれない。交渉できるようなら買い取っていきたいんだ」
「そこが産地なのか?」
「というより、一子相伝的な薬なんだよね。あ、もちろん、手に入ったら兄さんにも分けたげるよ」
「そりゃ助かる」
その薬を作っている人が住む村は山の中にある。戦争が始まった時点でほとんど領主に薬を持っていかれたそうで、買い付け人が駆けつけた時には、ほとんど残っていなかったと聞く。
しかし、戦に巻き込まれた時に傷薬が無いのは命取りだ。製造している者が自分達の分まで本当に隠し持っていないはずがない。
ユリアナも似たような薬が作れないわけじゃないが、どうしても効き目は本家に及ばない。それなりの時間をかけて作られるそれは、おそらく秘伝の薬草も入っているのだろう。
そんな話をしている所に、バタンッと嵐のように女が駆け込んできた。
「来たわっ、ユリー」
「げっ」
「うわっ」
それはスザンナだった。フードのないマントをまとってはいるが、髪は一つにまとめて編み込まれている。
セイムとユリアナは目を見交わすと、すぐにセイムは外へと駆け出していった。ユリアナはスザンナの口を手でおさえる。
「むっ!?」
「黙って。何も言わず、すぐにこれに着替えて」
低く静かな声でスザンナを黙らせると、ユリアナはスザンナに革をなめした靴と、地味なシャツとスカート、そしてフードのついたマントを渡した。
しかし戸惑っているスザンナは、すぐには動かない。
焦れて、ユリアナはスザンナのマントの留め金を外した。少年だと思っている相手に服を脱がされてはたまらない。
「きゃっ。何をするの、ユリー」
「黙ってください。すぐに着替えてここを出ないと危険です。すぐに着替えないのであれば置いていきます」
その低い声音に、スザンナも理解したらしい。彼女にしては早いスピードで着替える。脱ぎ散らかされたそれまでの衣服をユリアナは拾ってすぐに荷物へと入れ込んだ。
そうして着替え終わったスザンナの手を引く。スザンナの声を、周囲の小屋で聞いた人間がいるかもしれない。追手がかかる前に逃げ延びなくては。
なめした革でできた靴は、足音を消してくれる。
セイムは周囲を探りに行ってくれたはずだ。あとは山で落ち合えばいい。
沈黙したままのユリアナに対し、不安そうなスザンナの視線が向けられていた。スザンナの方は見ずに、周囲に聞き取れないような声でユリアナは言った。
「あなたはもうお姫様じゃありません。これからは・・・そうですね、アンナと呼びます。あなたも普通の娘さんのようにふるまってください」
「分かったわ」
「では、アンナ。夜が明ける前に山の中に隠れる。急いで走って。見つかったら終わりなんだ」
「ええ」
セイムが阻止しそこねたのか、そんな二人を追う影が一つあった。
二人はその存在に気づくことなく走った。人にその姿を見られる前に、この街を抜けなくてはならなかったからだ。
「はぁっ、はぁっ」
スザンナは汗だくになりながらも、自分の手を握って走るユリアナを見やった。何度もつまずきそうになるが、それでもこうやって自分を引っ張る腕がスザンナを転ばすことなく駆けさせていく。
(不思議ね。こうやって人さらいに騙される話なんて聞き飽きているのに。それでもどうして私はこの少年を信じたのかしら)
ユリアナは物音に神経をとがらせているらしく、少しでもガタッと音がしたらすかさずスザンナを物陰に隠した。大抵は、牛とか野良猫とかネズミだったが。
レンガや木でできた家の壁に押しつけられたりもして、スザンナもすぐに薄汚れた格好になる。しかしユリアナの真剣な表情に、スザンナは理解した。
(そうね。多分、私がユリーを信じたのは・・・。私に対して何も望まない人だったからなのかもしれない)




