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自分の善意を無にされた時、人は何を思うのか。
「で、なんだって?」
不機嫌そうにセイムがユリアナを促した。
なぜかというと、ユリアナに気を遣って食堂で寝たセイムが、部屋に戻って「ゆっくり休めたか」と声をかけた途端、平謝りされたからである。しかも変な誤解をされていた。
(男と朝帰りと思われて謝られるって何だよ、おい)
誤解を解いても解かなくても、意味はなさそうなので、そこはスルーすることにした。というよりも、向き合いたくなかった。
時に、男の心はタンポポの綿帽子よりも傷つきやすく壊れやすい。
「だからね、昨夜、スザンナ様が来て、責任もって策士になってくれって」
「無理」
「そんなぁっ」
「無理だ。大体、今日、城を出ていくのに、何をどうしろと言うんだ」
「そうだけど、聞いてよっ。可哀想な恋をしていたんだよ」
「それならもう十分聞いたさ。あのお姫様に好かれた男が、その頭を冷やさせる為に、無謀にも軍隊に入って死地に向かったってんだろ。それがあのファスットの息子だっていうんだから、あの男もいくら自分が仕えているお姫様かもしらんが、そりゃあ恨みもあるだろうよ。よりによって自分の息子に目をつけやがるとはってな」
セイムはいささか乱暴に言い捨てた。
一晩中、色々な話をせがまれ、疲労がとれていないのだ。人の口や手紙といったものなしに情報など出回らない。だから、こういう街から街へとさすらう人間は、色々な場所で話をねだられた。
「え。いや、なんかそういう話じゃなかったような・・・」
「お姫様の頭ん中じゃ綺麗な恋物語りなのかもしれんが、城に勤めている奴らの中じゃ、物知らずなお姫様のおかげで剣もろくに持ったことのない若者が一人命を落としたって、同情の的だったぞ」
「んー。まあ、ちょっと聞いてよ。とりあえずスザンナ様の言うところの話を。兄さんだって、何事も多角的な情報って必要だと思うだろ?」
「・・・そりゃな」
別にスザンナのことなどどうでもよかったセイムだが、そう言われたら仕方がない。なぜなのか、セイムはスザンナを受け付けないのだ。
(見てるだけでムカついてくるんだよなぁ)
しかし諦めて、しぶしぶとユリアナの話を聞くことにした。
「そういえば同じ金髪と紫の目なら、あのフォンナの方がよほど気立てが良いと評判だったぞ」
「ああ。言われてみれば似たような色合いだったね。だけどフォンナにあのスザンナ様の色気はないなぁ。顔だちも、バラのような華やか系と百合のような清楚系だよね」
「なんでも税金を滞納している家に行ったら、既に亡くなった親を前に泣いていたのが、あのフォンナだったそうだ。それを伯爵が引き取ってスザンナ姫の侍女にしたんだと」
「へぇ。それを許すなんて、ネーテル伯爵夫人も結構優しいんだね」
「いや。この城に関しては夫人よりも伯爵の方が仕切っているそうだ」
「へぇ」
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
それはスザンナが六歳の頃だった。
ファスットが「年も近いので遊び相手に」と連れてきた、優しい面立ちをした小麦色の髪と琥珀色の瞳を持つルクス。ファスットの子供達の中で、ルクスはおとなしく、喧嘩を嫌がり、口数も少なくて優しい性格だった。
ファスットは覇気のない息子に困っていたようだが、スザンナはすぐにルクスを気に入った。おとなしいルクスだが、その代わり乱暴なんか絶対にしない。粗雑な男の子達と違って、物事が分かっているのだ。これはとても大事なことだ。
他の息子達が血気盛んなタイプだっただけに、母親の手伝いをしたり本を読んだりすることを好むルクスにどう対応したらいいのか困っていたファスットだが、かえってネーテル伯爵はスザンナの遊び相手にはちょうど良いと思ったらしい。
スザンナの姉は年が離れており、スザンナはルクスに夢中になった。日に焼けていないおかげで白くすべすべとした肌、性格と同じく穏やかで中性的な容姿。なんと言っても、このお人形は生きているのだ。
「いやいや。違うだろ。人間だから。人形じゃないから」
「そうかもしれないけど、やはり等身大の着せ替えごっこは違うよ。その気持ち、僕にはよく分かる」
「全然、分からん」
月日が流れ、ルクスはスザンナの為にレースを編んで髪飾りを作り、城の片隅で花を育てて花冠を作り、スザンナに物語を読んで聞かせるようになった。
そんなルクスに対し、スザンナは彼が怖がるヘビを追い払い、更に男らしくないとルクスをいじめる男の子達をも一喝した。
綺麗な花をスザンナに差し出して、はにかむように笑うルクス。そんな彼を守る為に、スザンナは強くなろうと決めたのだ。
「なぁ、ユリー」
「黙ってください。これは、あくまで過去の小さな恋のメモリーなんです」
「・・・勘弁してくれ」
やがてスザンナも年頃を迎える。十三歳になった頃、ルクスは「もうお別れです」と挨拶に来た。
嫌がるスザンナに、ネーテル伯爵夫妻は言い聞かせた。
ルクスは使用人の子供であり、いつまでもスザンナの遊び相手ではいられないこと、今までルクスをスザンナのそばに置いていたのはスザンナの教育の為であること、ルクスだって違う人と恋をして家庭を築くように、スザンナも誰かと結婚してこの家の繁栄に尽くさなくてはならないことを。
おとなしいルクスをそばに置いておけば、少しはスザンナも女の子らしくなるかと思いきや、かえってお転婆が過ぎるようになったと、伯爵夫人も頭を抱えていたらしい。
悩んだ挙句、スザンナは城を抜け出し、畑仕事に出ようとしていたルクスを家の前でつかまえた。
そんなスザンナにルクスは優しく微笑んだ。
「たとえ伯爵様に言われた仕事でもスザンナのそばにいられて楽しかった」と。
その楽しい時間を、スザンナはこれからも失いたくないだけなのだ。
だけどルクスは、
「身分違いな自分はもうスザンナのそばにいない方がいいと分かっている。けれども、いつでもスザンナが幸せであるようにと願っているこの気持ちは変わらない」と、微笑むばかり。
呆然とするスザンナに、ルクスは家に入って何かを母親に言っていた様子だったが、スザンナの手を取って連れ出してくれた。お昼ご飯はルクスの家で食べた。
夕方になる前に、ルクスはスザンナを城に届けた。伯爵も伯爵夫人も怒らなかった。けれども、それがルクスに関してスザンナができる最後のわがままだったのだと分かった。
自分がどんなに願っても、自分の願いは大人によって阻まれるのだ。
その後、無駄かもしれないと思いながらも、色々と作戦を変えて実行してみた。しかしルクスがスザンナの元へ戻ることはなかった。
自分の周りにいた人達が一新され、スザンナには違う勉強が始まった。
「いいですか、お嬢様。貴婦人の力とは美しさにあるのです」
礼儀作法の教師は、そうスザンナに教えた。
様々な教育を受け、スザンナは女性の武器とは美にあるのだと学んだ。通常ではかなわない願いも、美しく男を誘える女が願うのであればかなえられるのだと。
だから彼女は身につけようとした。
流し目のタイミング、己の美しさをひきたてる色合い、男の鼻の下がのびるような声音、自然に溶け込める話しかけ方、人の目を集めるしぐさ、そんな様々なことを。
その結果、彼女には様々な縁談が舞い込んできた。
出会う男性は、「あなたをずっと守って差し上げたい」と言ってくれた。
けれども、その中に小麦色の髪と琥珀色の目をした、スザンナが守ってあげたい人はいなかった。
「なんか、根本を忘れ去ってないか?」
「いいから黙っててくださいよ。兄さんはうるさいです」
「あ、そ」
このままでは本意ではない男の元に嫁がされてしまう。そう思ったスザンナはネーテル伯爵に言った。
「私は修道院に入るか、仕事をする人間になりたいのです」
「お前ができる仕事などない」
伯爵は即座に却下した。
「お前ができるのは、着飾って男を待つことだけだ」
だが、王都では女性でも仕事を持つ人がいるという。自分だって何かできるのではないか。貴族のお姫様ではなく、働く女になったらルクスと釣り合うのではないか。
「今まで甘やかされてちやほやされてきたお前に何ができる? 毎日見ているであろう侍女の仕事すらできぬくせに」
そう言われ、ベッドメイキングなどをやってみた。ヘタクソだと評された。
ドレスの手入れも教わってやってみた。ドレスを駄目にする気かと言われてしまった。
洗濯に至っては、自分が着ていたドレスを濡らしてしまって洗濯物を更に増やす始末だった。
そしてスザンナは自分にできることがとても少ないことを知った。
どんなに蠱惑的に扇を開いて見せることができても、貴婦人らしくお茶を上手に淹れられても、貴族の女性以外の人が簡単にできることを自分はできない。
一晩泣き明かしたスザンナだった。
すると、久しぶりにルクスが城に訪ねてきた。
ルクスはスザンナを城の裏に広がる丘に連れ出した。そうして自分のことは諦めてほしいと言った。
伯爵は、スザンナが突拍子もないことを言い出した背景にルクスへの恋心があると見て、ルクスにスザンナを諦めさせるよう命じたのだ。
ルクスは言った。
自分にも様々なしがらみがあるのだと。子供の頃のように、好きだという気持ちだけで誰かと居られる日々は、大人になったら消えてしまうものなのだと。
「けれどもスザンナ。たとえ君がほかの誰かを好きになって結婚しても、僕はそんな君がいつもいつも幸せに笑っていられることを祈っているよ。知ってる? 本当に誰かを好きになるとね、その想いを消し去ることなんて神様にしかできないんだ。小さい頃の君は僕にとってまぶしいくらいに格好いい王子様だった。そして今の君は世界で一番素敵な王女様だ。君の姿や心がどれ程変わろうと、僕は君が好きだよ。だから、お別れだ。永遠に」
そして数日後、スザンナはルクスが王都へ向かう兵の一人として参加したことを聞いた。本当はルクスの兄が行く筈だったのだ。それが急遽ルクスに変更されたらしい。
自分の恋心が、弱くて怖がりなルクスを戦場へと追いやったのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ルクス・・・」
その時、スザンナは死にたいと思った。けれど死ぬ勇気なんてなかった。
戦争が大きくなり、どこの城も慌ただしくなった。ネーテル伯爵も何かと連絡がある度に出かけたり指示を飛ばしたりして、心労でやつれていった。
スザンナも何かあった時にはどう逃げるかなど、そういう特訓をさせられた。
やがて戦争が終わり、平和になったと教えられた。けれどもルクスは戻らない。ファスットに訊いても教えてもらえないのは分かっていた。生きているのか死んでいるのかさえ。
フォンナに頼み込んで調べてもらい、ルクスが生死不明であることを知った。
そうして、スザンナには縁談が持ち上がった。
今回の戦争で軍師としての武勲をあげた騎士との結婚だった。
― ◇ – ★ – ◇ ―
そんな内容に様々な惚気をブレンドした話を、一晩かけて聞かされたユリアナである。
そこまで語り終えたスザンナは、ユリアナに強い視線を合わせたのだ。
「あなたのお兄さんの言うとおりよ。私はあまりにも愚かなことを繰り返すばかり。本当は自分で自分の道を切り開かなくてはならなかったのに」
「いやぁ・・・、どちらかというと、貴族のお姫様にしてはかなりしっかりしていらっしゃると思います、ハイ」
ただし、違う方向に。
「慰めはいらないわ。敗戦した中には、身分高くとも辛い目にあいながら生き延びた人もいると聞くわ。だったら私だってできると思うの」
「は?」
「辛くても泣いてもかまわない。私はルクスを見つけ出したいの。たとえ死んでいても構わないわ。どんな姿になっていてもいいの」
「いやいやいやっ、ちょっと待ってください、スザンナ様」
「私がルクスを見つけ出す方法を私に教えて。報酬は私の持っている宝石で払うわ。私をここから連れ出して。決してあなた達に迷惑はかけない」
既にここにいらしている時点で迷惑です。
そう言えるものならば言いたかった。言えないからユリアナはユリアナなのだ。
ユリアナは、初めてスザンナを見た時の印象を思い出さずにはいられなかった。このタイプの女は恋に生きる。男を恋に落として踏み台にしていくか、恋と共に破滅するか。
遠い異国には、戦いに赴く女達が住む国があるのだとか。自分から戦いに行くとはどんな女達なのかと思ったものだが、こういう前だけを見て突撃していく女達なのかもしれない。
その先に死神が待つと分かっていても男達が戦争に明け暮れるように、剣をとる人間はあまりにも先のことや周囲のことを考えないで生きているのだろう。そしてスザンナもまた考えなしに生きているのだ。
そう思えば許せないこともないかもしれない。
だってしょうがないよ。前しか見えていないんだからしょうがないんだ。うん、そうだ。そうに違いない。
やくたいもないことを思い、ユリアナはそんな思いを振り切るように頭を振った。
睡眠不足は、ユリアナの思考能力を格段に低下させていたのだ。
「私達は明日には城下に下ります。その後、また違う土地へと流れていくでしょう。もしもスザンナ様がそのルクスさんと添い遂げるにしても、彼の死を見届けるにしても、普通の民衆と同じだけの生活力が必要となります。その白く美しい手も荒れ果て、肌もボロボロになるでしょう。岩や土の上に横たわり木々の葉をかぶって眠るのです。毎日、干からびたパンに具の少ないスープがあるだけ。腐りかけた肉や魚、しなびた野菜。そんな生活にあなたは耐えられますか?」
このお城のご飯はおいしい。だけど庶民は柔らかいパンなんて食べられない。固いパンを焼き、それをスープに浸してふやかして食べる。その方がおなかにたまるからだ。
うつむいていたスザンナが、そのまま下を向きながらつぶやくように言った。
「昔、ルクスと駆け落ちしようと思って、それをやってみたことがあるわ。お父様に、お前にはそんな生活はできまいと言われたの。その通りだった。一回食べて吐き出したわ」
「・・・はい」
そうだろう。言うだけなら誰でもできる。しかし実行できる者は少ない。ましてや特権階級に生まれた者は苦労を知らないだけに打たれ弱い。
「けどね、ルクスが戦場に行ったと知ったあと、それができたの。ちゃんと食べられたわ。だって、ルクスはもっとひもじい思いをしているんだもの」
「・・・・・・」
無理に笑ったのだとわかる顔で、スザンナはユリアナを見上げた。己の無力に泣きながら、それでも諦めない。この弱さと強さはどこから来るのだろう。
「平気よ、私。一生ルクスのことを想いながら腐るような日々を生きていくよりも、辛くてもその方が生きているって思えるから」
そう言ってスザンナは浮かんだ涙をぬぐった。
ユリアナはため息をついた。
「ならば、明日からまさに反省して良い貴族の奥様になるように心がけるフリをしてください。貴族の義務とは民に尽くすことだと口にし、皆に教えを乞うてください。孤児院や教会にも出向いてください。私達はきっと城下の広場で営業をしているでしょう。そうして皆の油断を誘い、そのうち私達と合流してください。あなたを連れて、外の土地へと連れ出して差し上げましょう。ただし、ルクスさんとの結果は分かりませんが」
その言葉に、スザンナは花のような笑顔を見せた。
「ありがとう。きっとよ」
そうしてスザンナは部屋へと戻った。
本日からきっと心を入れ替え、立派な騎士に嫁ぐであろう花嫁教育をこなしていってくれることだろう。
そこまで話を聞いたセイムは、ユリアナを一人にした己の判断を悔やんだ。
「いやいや。ちょっと待て。そのフリってなんだ、フリってのは」
「え。いや、だからフリ?」
「お前・・・まさか貴族の姫をさらう人さらい役を俺にさせようってか!?」
「まさかぁ。僕が兄さんにそんなことさせるわけないよ。ただね、本気なら城を抜け出してくるだろうね。やっぱり無理って思ったら無理でおしまい。お姫様はお城で末永く幸せに暮らしました、と」
「・・・本当に合流したらどうすんだ」
「思うんだけどぉー、もしもそのルクスさんとスザンナ様がうまくいっちゃったら、この縁談、完璧消滅だよね? だけど、もしもこの縁談がまとまってしまっても、もしも無事なルクスさんとか発見しちゃってスザンナさんにルクスさんをプレゼントしたら、スザンナさんってば英雄な騎士様に感謝感激で、英雄様が言うことは何でも聞いてくれちゃうんじゃないの?」
たとえば、同じ家に住んでも顔をあわせないでほしいとか、お互いに別の生活をしようねって言っても、笑顔で受け入れてくれるかもしれないよね?
セイムが押し黙る。
あれほど、スザンナを嫌悪していた彼だ。結婚なんてしたくないだろう。同時に、そうであってもセイムの言いなりになってくれるというのであれば、活路はある。
ユリアナはひそかにほくそ笑んだ。
(セイランド様なら、ネーテル領の一兵士がどこに振り分けられたかも調べられる筈。だって軍の中枢にいらっしゃるんだから)
きっとセイムは、彼の権限でルクスの行方を捜してくれることだろう。
分かっている。本当は自分はセイムを結婚させねばならないことなんて。
だけど裏切らなくてはならないと分かっていても、できれば裏切りたくないのだ。
ユリアナは目を閉じた。堪えていた涙が一筋流れる。
「おい、ユリー。どうした?」
「んー? 寝不足で太陽が眩しい」
「仕方ないな。ぎりぎりまで寝てろ。食事は持ってきてやるから」
「ありがと、兄さん」
優しいセイム。
きっと彼は自分を許さないだろう。




