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セイムを食堂に置き去りにして部屋に引っこんだユリアナだったが、世の中は思うようにはいかないものだ。
(ドアの外でも眠れるから大丈夫とは言われたけど、やっぱりベッドで寝た方がいいもの。セイランド様って優しすぎるのよね)
部屋のかんぬきを掛け、体を水にぬらした布で拭うと、ユリアナは質素な服に着替えて毛布をベッドから外した。
その毛布を扉に持っていき、そこで野営用の寝袋を取り出して広げる。その中に毛布を入れ込むと、いつもよりフワフワとした夜具の完成だ。
(ああっ、久しぶりの屋根のあるお部屋っ)
いつもならば木の枝や葉を組み合わせた上に油をしみ込ませた布を広げて小さな屋根を作る。垂れ下がる布が風よけとなるのだが、所詮は薄い布である。こんな頑丈な石造りの壁とは比べ物にならず、風はヒューヒューと通り抜けていく。そして当然、下は土だったり岩だったりだ。柔らかな草が生えている時もあるが、贅沢は言えない。
(葉っぱでできていない屋根、なんて素晴らしいのかしら。今なら歌っちゃえるかも)
そんなユリアナだが歌の才能はない。そしてここまでハイになっているのだから、たとえ床に寝ることになろうとも文句はない。
扉にもたれるように寝ていれば、セイムが戻ってきてもすぐ気づくことができるだろう。
すると、そこへトントンと扉を叩く音がした。
セイムがもう戻ってきたのかもしれない。しかし、セイムとユリアナは万が一の時の合図を取り決めていた。
トン・ツー・トン・ツー・トン。
どこかに書きつける時は、点・棒線・点・棒線・点。
叩く時には、一回・二回・一回・二回・一回。
分かりやすくも面倒くさい、しかし忘れない合図だ。
従って、これはセイムではない。
そう思ったユリアナは、この不審者が無理やりに押し入ってきた時のことを考え、静かに移動した。屋根裏に近いこの部屋では、窓から外には出られない。ならば誰かが入ってこれないようにするか、入ってくるようなことがあったらすぐに誰かが駆けつけるようにするか、である。
かんぬきなぞ、その気になればすぐに壊せるのだから。
扉の前に壊れやすいものを置いて大きな音を立てさせるか、ベッドを立てかけて入ってこられないようにするか、そしていざとなったら相手をどこまで傷つけていいものなのか。
女のまじない師として、こういう危機は今までにもよくあった。
だが、自分一人で判断できた時と違い、今回はセイムの事情もある。セイムのことを考えればうかつなことはできない。だけど、落ち着いて考えてみればセイムの素性をバラして、「これがお婿さまでございます」と言って引き渡してしまえば、ユリアナはこのお城にとっての賓客である。下にも置かぬもてなしをしてくれることだろう。
(セイム兄さん。私の救い主。早く帰ってきて)
そんな薄情なことを思ってベッドを動かそうとしていたら、小さな声が聞こえてきた。
「ユリー、いるの? 開けてちょうだい」
それは、スザンナの声であった。
・・・・・・・・・。
寝ているから気づかなかったってことにしてもいいだろうか、うん、いいんじゃないだろうか。だって私、今、熟睡中なんだから。そう、私は熟睡しているの。どんな物音にも気づかないくらいに。
そう思いはしたが、ここは使用人達が寝泊まりするエリアである。少なくともこの城のお嬢様が立ち入る場所ではない。
しかも夜。酔った男にスザンナが襲われでもしたら大問題。しかも、訪問先はここ。
ユリアナは悩んだ。
そして結局、ユリアナは悪人にはなれないのであった。
― ◇ – ★ – ◇ ―
ユリアナから招き入れられたスザンナは、興味深そうに狭い部屋を見渡し、出されたお茶を口にした。
「このお茶、変わった味なのね。初めてだけどおいしい」
「ありがとうございます。ですが、夜に男の部屋になど来るものではございません。スザンナ様もそういった教育は十分に受けていらっしゃるはずでございますね」
「知ってるわ。だけど明日にはいなくなるんでしょ? それなら今夜しかチャンスはないじゃないの」
化粧を落とし、髪を一つにまとめて帽子に入れ込み、簡素な夜着を身に着けたスザンナは、いささかあどけなく子供っぽかった。
夜は冷える。その為、昼とは違い、夜は保温性のある格好をするものだ。髪を包み込むような毛糸で編んだ帽子は、地味なベージュ色だった。また、夜着も厚手の質素なものだった。更に靴下も生成りの毛糸で編んであり、あんなにもおしゃれだった姫君がまとうものとは思えない。意外である。
しかし不屈の精神消え去らぬセリフに、ユリアナは、やはり寝たフリをしておけば良かったと、後悔した。セイムがいれば、追っ払ってくれたことだろう。
(セイム。私の救い主。早く帰ってきて。今なら、明日の卵を一個譲ってもいい)
かなりセイムに配慮した条件を心の中で叫びつつ、ユリアナは笑顔を浮かべた。
「チャンスとおっしゃいましても・・・英雄と呼ばれる騎士様を消し去ろうだなんて、そう簡単にできたならば他の国がやっているでしょうに」
「違うわよ。そっちじゃないわ。私だって考えたの」
「はぁ」
そうなんですか。考えたんですか。けど、それは心の中にしまって私に披露はしないでくれると助かります。
「あの後でね、皆に言われたの。私のせいで誰がどんな迷惑をこうむってどんなことになったかを。私がしなくてはならないことは、私が守らなくちゃいけない人達の犠牲を忘れず、それに尽くすことだって」
「はぁ」
つくづくと貴族とは因果な商売である。
そう思ってユリアナは天を仰いだ。流れのまじない師ごときに罵倒され、それなりに心が折れたであろうスザンナ。しかし周囲は彼女のショックを見逃さず、すかさず貴族の義務を教育し、この勢いのまま、スザンナをセイムの所へ嫁がせるのであろう。
流れ者のまじない師ごときに貴族の責務を突きつけられ、そんな自分を恥じたスザンナは、言われるがままに従うのだ。
そうして、セイムは結局スザンナに食われてしまうのかもしれない。
・・・・・・不憫なセイム。ただの流れのまじない師ならばスザンナにひどいことを言えても、同じ家の中で英雄と貴族の夫婦として暮らすとなれば、毎日冷や汗と吐き気と皮膚のブツブツに耐え、セイムはスザンナから逃げ回らなくてはならないのだ。
「それはそうなのよ。結局、私がしたことは様々な人達を踏みつけにしてきていたのだわ」
「そう己の過去を見つめて言い切ることのできる人がどれほどいるでしょうか。自分の過ちを直視するのは勇気がいることです。それにまっすぐ向かい合い、自分を顧みることができる強さは、あなた様だけのもの。他の人にはない勇気です」
「ふふっ、ありがとう。ユリーは優しいのね」
「そんなことはありません」
ユリアナの背中に悪寒が走る。
気をつけよう。女性が「あなたって優しいのね」って言い出したら、その後に続くのはろくでもないことだ。たとえば金を貸してほしいとか、力を貸してほしいとか、無茶ぶりは厄介レベル。
男ってのは「あなたって優しいのね」と言われたら奮い立つ生き物だが(悲しいよね、男って)、それはとりもなおさず、「私の為に尽くしてちょうだい」の意味でしかないと知るべきだ。
その言葉に、男を尊敬したり褒めたりする意味合いなど、枯葉一枚ほどの重さも入っていない。
ユリアナは総毛だった。声が棒読みになっていた。
「ううん。だからね、その優しいユリーにお願いがあるの」
「・・・あの」
昼間の妖艶さとは全くの別物だったが、スザンナはユリアナに上目づかいで可愛らしく微笑みながら言ってのけた。
逃がさないとばかりにユリアナの両手をしっかりつかんでいるところが、抜け目ない。
(この腕を外してください。切実にお願いします)
相手は貴族のお姫様。平民の少年であるユリアナが突き飛ばして逃げるわけにもいかない。
万事休すだ。
「私の恋を叶えてちょうだい。相手の生死を問わず」
「・・・・・・」
「占いはいらないわ。策士になってほしいの」
恋を叶えてと星に願うのは乙女の涙かもしれないが、私を助けてとセイムに願うのはユリアナの心の涙であった。
(セイムがあんなこと言うからっ! あのボケナス男ーっっ!!!)
ユリアナの苦境も知らず、その頃のセイムはまだ城の連中と盛り上がっていた。
女だと分かっているユリアナさえいなくなれば、下品な会話もそこまで厭うものでもない。
何より各地の情報はそれなりに彼の頭に入ってもいる。
(ま、こんだけ賑やかにやっていれば、大抵の男はこっちに来てるよな。なんてったって、そうそう出回らない戦の諸事情とやらも小出しにしてやったし、もしかしたら情報提供の為にまわされてきたのではないかと思われるようにふるまってもやったし。これで安全は確保できた)
セイムはユリアナがゆっくりと休めるように気を遣ったつもりだった。
時にまじない師は、情報操作の目的で各地に飛ばされることもあるのだ。
怪しまれもしようが、ここまで各地の事情を教えながらも悪意のある言葉をどこに対しても撒かなかったとなれば、どちらかというとネーテル領に対して好意的な人間から差し向けられた者だと思うだろう。
(ユリーだって男がいたらゆっくり寝られないだろうし、今夜はせっかく野宿じゃない夜だ。ユリーに目をつけた奴がいても忍んではいかないだろ、これだけ人がここに集まってりゃな。今日だけはゆっくり寝てくれ。・・・あー、俺って気遣いができてるよな)
セイムは短時間の細切れ睡眠ができる為、そこまでベッドで寝ることにはこだわらない。これでも無理やりに連れてきた自覚がある為、セイムなりにユリアナを大切にしているのだ。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
聞きたくもないのに、スザンナの惚気交じりの恋の話を一晩かけて聞かされたユリアナだった。
これがただのガールズトークなら楽しくもあっただろうが、先に不幸しか見えないお貴族様の身分違いの恋など、聞く方が身の破滅だ。
人目につく前にと、光が少しさしただけでまだ暗い中、スザンナを部屋に帰したユリアナは、やがて闇を払っていくであろう明け方の空をまぶしい思いで見つめていた。
「ああ、太陽が昇ってしまう。どうしてあれは月じゃないの」
白々と夜が明け、けたたましい鶏の声が空へと響き渡る。だが、セイムはまだ帰ってこなかった。
朝帰りか、朝帰りなのか、あの男。
そんな怒りが、ユリアナの心に満ちた。
久しぶりに野宿じゃないとなったら、城のメイドでも口説いてお泊りしたのか。
・・・いや待て。あれ? 考えてみれば女嫌いだ、セイムは。
ということは男? 男か、男なのか、セイムって・・・。
ごめんね気づかなくってと、怒りは反転。なんだか申し訳ない気持ちになった。
(ごめんなさい、セイランド様。私、分かってなかったんですね)
そう、たとえて言うならば、今のセイムは女が好きな男が男と結婚しろと迫られているのに等しい。
たとえば美人な奥様のいるハイリテ公爵とかマヌワ男爵とかが、いきなり男と結婚しろと強要されたら自殺だってしてしまうかもしれない。
今までセイムは単に女の人が苦手すぎるのだろうなと思っていただけだったが、その根本が、恋愛対象が男だけだったというのであれば、私はなんて残酷なことをしているのか。
私がどんなに助けを求めても帰ってきてくれなかったセイムだが、今なら卵の一つを譲ってあげられるくらいに自分はセイムに優しくなれると思う。
(ううん。駄目よユリアナ。ここは熟睡していたフリをして、朝帰りに気づかなかったことにしてあげなきゃ)
一晩中、他人の恋愛話を聞かされていたこともあるが、寝不足もあいまってユリアナの思考もいささかおかしくなっていた。
そしてセイムは、食堂で他の騎士や兵士達と、雑魚寝していた。
盛り上がりすぎて皆が食堂で寝入ってしまったのだ。




