特効薬の代償
エヌ氏の人生は、絶望の淵にあった。
大学病院での精密検査の結果は、最悪という言葉でも足りないものだった。担当医は沈痛な面持ちで、何枚ものレントゲン写真と、複雑な数値が並んだ検査報告書をエヌ氏に示した。
「……残念ですが、現代医学では手の打ちようがありません。進行性の肝硬変に加え、広範囲にわたる細胞の壊死。基礎的な代謝機能も著しく低下しています。余命は、長くて半年といったところでしょう」
エヌ氏はフラフラと病院を後にした。冷たい夜風が、死を待つだけの体に容赦なく吹きつけた。
そんなある夜のことだ。自宅の玄関を、激しくノックする音が響いた。
死を覚悟したエヌ氏は、泥棒なら好都合だと自棄になってドアを開けた。そこには、時代錯誤なマントを羽織った、青白い顔の男が立っていた。
男は返事も待たずエヌ氏に飛びかかると、その首筋に鋭い牙を立てた。
「吸血鬼だ!」
激痛と共に、エヌ氏の意識は深い闇へと落ちていった。
次に目を覚ましたのは、翌朝のことだった。
窓から差し込む朝日を浴びて、エヌ氏は驚愕した。昨夜までの死にそうな倦怠感が、嘘のように消え去っていたのだ。ベッドから飛び起きると、指先一つにまで力がみなぎっている。鏡の中の自分は、頬に赤みが差し、まるで十数年も若返ったかのようだった。
数日後。エヌ氏は再び、あの大学病院の診察室にいた。
担当医は、震える手で再検査のデータを見つめていた。
「あり得ない……。何かの間違いだ。壊死していたはずの細胞が完全に再生されている。それどころか、ミトコンドリア内でのATP回路……エネルギー産生効率が、二十代の若者のそれより数倍も跳ね上がっているんだ。肝硬変の痕跡どころか、がん細胞すら、影も形も消えている。エヌさん、一体何をしたのですか?」
エヌ氏は内心で小躍りした。あの吸血鬼は、私を殺したのではない。未知の吸血性ウイルスを注入することで、生命維持のメカニズムそのものを書き換え、死の病から私を救ってくれたのだ!
しかし、喜びは長くは続かなかった。
退院して数日もすると、喉の奥に、焼けるような激しい「渇き」を覚え始めた。いくら水を飲んでも、山のようなステーキを平らげても、その飢えは一向に満たされない。胃袋は膨れても、細胞内の代謝回路が、常に暴走気味のエネルギーを要求して叫び声を上げているのだ。
ふと、鏡を見たエヌ氏は凍りついた。血色の良かったはずの顔が、あの日見た男と同じ、異常なほど青白い色に変わっていた。
「……そうか、あのウイルスは細胞を無限に修復し、ATPを爆発的に生成する代わりに、他人の生命力を……つまりは新鮮な血液を、高濃度の燃料として要求し続けるのだな」
医者が「完璧」と太鼓判を押したその健康な体は、今や一分一秒、猛烈な勢いでエネルギーを消費し、他人の血を求めて悲鳴を上げている。
エヌ氏はクローゼットの奥から、古い黒のコートを取り出した。
自分が生き永らえるために、誰かの健康な血を奪い、代わりにこの「不老不死という名の地獄」をなすりつけるしかない。
次は、どの家のドアをノックしようか。
エヌ氏の口元には、医者も驚くほど白く鋭い、新しい「特効薬」が覗いていた。




