第8話「開票速報と震える指」
投票箱の蓋が閉じられ、世界が審判の時を迎えた夜。
選挙事務所の空気は、張り詰めた弓弦のように極限まで緊張していた。
壁に掛けられた巨大なモニターには、各局の開票速報番組が映し出されている。赤と青のグラフが拮抗し、アナウンサーの早口な実況がBGMのように流れていたが、その言葉の内容など誰の耳にも入ってはいなかった。
スタッフたちは固唾をのんで画面を見つめ、電話対応班は受話器を握りしめたまま動かない。時折、炭酸の抜けたぬるいコーラをすする音だけが、不気味な静寂を強調していた。
俺、浅木ミナトは、部屋の隅にあるパイプ椅子に座り、膝の上で組んだ自分の指先を見つめていた。
指が、震えている。
武者震いではない。恐怖だ。
もし負ければ、コウガは政治生命を絶たれ、俺たちは路頭に迷う。それどころか、ジェラルドたちの報復によって社会的に抹殺されるかもしれない。この世界において、敗者は歴史から消されるだけの存在なのだ。
「……おい」
頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、コウガが立っていた。
彼はいつものように不敵な面構えを崩していなかったが、その瞳の奥には隠しきれない焦燥の色が滲んでいた。彼の発するフェロモンも、普段の落ち着いた白檀の香りではなく、どこかピリついた鉄の匂いが混じっている。
「どうした、ミナト。お前らしくもない。いつもなら『確率は五分五分です』なんて冷静に分析して見せるくせに」
「……すみません。分析するには、少し思い入れが強くなりすぎました」
俺は苦笑して眼鏡の位置を直した。
プランナーとして、客観的な視点を保つべきだった。だが、コウガと共に過ごしたこの数週間は、俺の人生で最も濃密で、鮮やかな日々だった。彼を勝たせたい。この国を変えたい。そんな個人的な感情が、俺の目を曇らせている。
「勝つさ。俺もお前も、やるべきことは全てやった」
コウガは隣の椅子を引き寄せ、ドカッと腰を下ろした。
彼の太ももが俺の脚に触れる。その熱が、冷え切った俺の身体に伝播し、震えを少しだけ鎮めてくれた。
彼はポケットからくしゃくしゃになったチョコレートの包みを取り出し、俺に差し出した。
「糖分補給だ。頭が回らなくなったら困る」
「……あなたは食べないんですか?」
「俺は甘いのは苦手だ。それに、お前が美味そうに食うのを見ている方が、精神安定剤になる」
キザな台詞だと思いながらも、俺は包みを受け取り、口に含んだ。
安っぽいミルクチョコレートの甘さが、舌の上で溶けていく。その甘さは、不思議と涙腺を刺激した。
その時だった。
事務所の中央から、悲鳴のような歓声が上がった。
「決まったぞ! 当確だ!!」
誰かの叫び声と共に、モニターの画面に大きく『コウガ・ヴァン・ハイル 当選確実』のテロップが躍った。
一瞬の空白の後、爆発的な歓喜の渦が巻き起こった。
抱き合うスタッフ、泣き崩れるボランティア、宙を舞う書類。
それは、歴史が動いた瞬間だった。
万年野党だった民衆改革党が、ついに第一党の座を奪取したのだ。
俺は呆然と画面を見つめていた。
実感が湧かない。ただ、心臓だけが早鐘を打っている。
隣にいたコウガが立ち上がった。
彼は俺を見下ろし、ニヤリと笑った。それは、初めて出会った雨の夜と同じ、獰猛で、それでいてどこか少年のように純粋な笑顔だった。
「行くぞ、ミナト。俺たちの勝利だ」
コウガは俺の手を掴み、強引に立たせた。
スタッフたちがコウガを取り囲み、万歳三唱が始まる。
カメラのフラッシュが焚かれ、マイクが向けられる。
俺はその輪から一歩下がり、影になることを選んだ。
光を浴びるのは彼だけでいい。俺はあくまで黒子。影から彼を支えるのが役目だ。
壇上に立ったコウガは、マイクを握りしめ、紅潮した顔で叫んだ。
「ありがとう! この勝利は俺のものではない。今日まで歯を食いしばって生きてきた、お前たち全員の勝利だ!」
割れんばかりの拍手と指笛。
コウガは言葉を続けた。
「そして、俺に戦うための『言葉』と『武器』を与えてくれた、最高の参謀にも感謝を捧げたい。彼がいなければ、今の俺はここにいない」
コウガの視線が、群衆の隙間を通して、部屋の隅にいる俺を真っすぐに射抜いた。
会場の視線が一斉に俺を探す。
俺は驚いて息をのんだ。
馬鹿な。そんなことを言えば、俺の正体が探られる。オメガであることがバレれば、せっかくの勝利に泥を塗ることになるのに。
だが、コウガの目は「逃がさない」と語っていた。
それは所有宣言にも似た、強烈なアルファの意志だった。
俺は胸が熱くなるのを感じながら、小さく首を横に振った。
『まだだ。まだ、俺はあなたの隣に立つ資格がない』
俺の拒絶を読み取ったのか、コウガはふっと目を細め、それから再び聴衆に向き直った。
「……さあ、夜明けだ。新しい国を作るぞ!」
熱狂は最高潮に達した。
俺はその喧騒を遠くに聞きながら、静かに事務所の裏口へと向かった。
勝利の美酒に酔うには、俺はあまりにも多くの秘密を抱えすぎていた。
契約は果たされた。俺は彼を勝たせた。
ならば、俺の役目はここで終わりではないのか。
そんな不安が、胸の奥で黒い染みのように広がっていた。




