第5話「泥と中傷」
選挙戦中盤。
俺たちの陣営「民衆改革党」の支持率は急上昇していた。
街を歩けば、コウガのポスターに人だかりができ、演説会場は常に満員。風は確実に吹いていた。
だが、権力の座に長く居座る者たちは、ただ指をくわえて見ているほど甘くはなかった。
ある朝、事務所に出勤した俺は、入り口の壁にペンキで殴り書きされた文字を見て凍りついた。
『売国奴』『アルファの恥晒し』『オメガ狂い』
赤いペンキが、まるで血のように垂れている。
さらに、事務所の前に停めてあった演説用馬車の車輪が斧で叩き割られていた。
スタッフたちが青ざめた顔で立ち尽くしている。
「……やりやがったな、ジェラルド」
奥から出てきたコウガが、低い唸り声を上げた。
その瞳は怒りで金色に発光している。周囲の空気がビリビリと震え、ベータのスタッフたちが怯えて後ずさる。
俺は慌ててコウガの前に立ち塞がった。
「落ち着いてください、コウガ。これは挑発です。ここであなたが暴れたら、それこそ彼らの思う壺です」
「だが、これは俺への侮辱だけじゃない。お前たちへの脅迫だ!」
「分かっています。でも、今は耐えてください。修繕の手配と、警察への被害届、それから……これを逆手にとる方法を考えます」
俺は冷静さを装っていたが、内心は怒りと恐怖で震えていた。
『オメガ狂い』という言葉。
それは、コウガがオメガの権利向上を訴えていることへの批判だろうが、もしかしたら俺の正体がバレているのではないかという不安がよぎる。
その日の午後、さらに追い打ちをかけるような事態が発生した。
街中に怪文書がばら撒かれたのだ。
内容は、コウガの出生の秘密――母親が身分の低い踊り子であり、不義密通の末に生まれた子であるという、事実を歪曲した中傷記事だった。
さらに、彼が過去に暴力事件を起こしたという捏造された記事まで添えられている。
事務所の電話は抗議と問い合わせでパンク状態になった。
支持者の中にも動揺が広がっている。
俺は対応に追われながら、前世の記憶がフラッシュバックしていた。
根も葉もない噂で候補者が潰され、自殺に追い込まれた同僚の姿。真実など関係ない、声の大きい嘘が勝つ世界。
「……っ」
過呼吸になりかけ、俺は裏口から路地へと逃げ出した。
冷たい壁に背中を預け、必死に息を整える。
怖い。また、すべてが壊れていく。
俺のせいで、コウガまで泥に塗れてしまう。
「ここにいたか」
頭上から声が降ってきた。
コウガだった。彼は俺の隣に並んで壁に寄りかかり、タバコに火をつけた。
紫煙がゆっくりと昇っていく。
「……すみません。少し、空気を吸いたくて」
「気にするな。中は戦場だからな」
「俺の読みが甘かったんです。相手はもっと卑劣な手段を使ってくると想定すべきでした。出生のことまで掘り返されるなんて……」
謝る俺の頭に、コウガの手がポンと置かれた。
「俺は自分の出自を恥じてはいない。母は誇り高い女性だった。それに、こんな紙切れ一枚で揺らぐほど、俺たちの絆は脆くないだろう?」
コウガは怪文書を握りつぶし、ゴミ箱へと投げ捨てた。
「ミナト。お前が俺を信じてくれるなら、俺は誰に何を言われようと構わない。お前はどうだ? 俺のような泥だらけのリーダーについてくるのは怖いか?」
試すような視線。
俺は眼鏡を外し、涙目になりそうなのをこらえて彼を見上げた。
「……怖いです。でも、逃げるのはもっと嫌です。あなたの言葉を信じて待っている人たちがいる。俺だって、その一人なんです」
「なら、反撃といこうぜ。最高の演説で、この雑音をすべて吹き飛ばしてやる」
コウガの不敵な笑みに、俺の心に再び火が灯った。
そうだ。負けてたまるか。
言葉は刃物にもなるが、人を守る盾にもなる。
俺たちはまだ、終わっていない。




