第3話「猛獣使いの憂鬱」
コウガの私邸――というよりはアジトと呼ぶに相応しい、雑然とした古びた洋館に連れ込まれてから三日が経過した。
そこは野党の選挙対策本部も兼ねており、昼夜を問わず党員やボランティアが出入りしていた。壁には選挙区の地図が貼られ、床にはビラや資料が散乱している。コーヒーとタバコの匂いが充満する空間は、前世の選挙事務所を思い出させ、俺にとっては奇妙に落ち着く場所だった。
「違う、そうじゃない! コウガ、何度言えば分かるんですか!」
俺の怒声が、事務所の喧噪を一瞬だけ止めた。
部屋の中央、古びたソファにふんぞり返っているコウガは、不満げに顔をしかめていた。
「何が違う。俺は事実を言っただけだ。現政権はクソだとな」
「だから、『クソ』という言葉を使うなと言っているんです! 公党の党首が汚い言葉を使えば、それだけで支持層、特に無党派層の女性や高齢者が離れていきます」
俺は頭を抱えた。
コウガの演説スタイルは、一言で言えば「暴走」だ。
情熱はある。カリスマ性もある。だが、品性がない。聴衆を煽ることに長けているが、それは熱狂的な信者を生むと同時に、多くのアンチを生み出していた。
「いいですか、選挙は喧嘩じゃありません。共感の獲得競争です。あなたの怒りは正当なものですが、それをそのままぶつけても、人々は『怖い』と感じるだけです。怒りを『憂い』に、破壊衝動を『改革への使命感』に翻訳する必要があるんです」
俺はホワイトボードに書き殴ったキーワードを指し棒で叩いた。
コウガは退屈そうにあくびを噛み殺している。この男、本当に話を聞いているのか。
俺はため息をつき、彼の手元にある原稿を奪い取った。
「次の街頭演説、第一声の原稿を書き直しました。読んでみてください」
「……チッ、細かい男だ」
コウガは渋々といった様子で原稿を受け取り、目を通し始めた。
最初は面倒くさそうにしていた彼の目が、行を追うごとに真剣なものへと変わっていく。
ざわついていた周囲のスタッフたちも、固唾をのんで見守っている。
「……『私は怒っているのではない。悲しんでいるのだ。この国が、才能ある若者を貧困で潰し、声なき者の声を無視し続けていることに。だが、悲しみは力に変えられる』……」
コウガがポツリポツリと読み上げる。
その声は、普段の怒鳴り声とは違い、深く、重く、腹の底に響くバリトンだった。
彼の声質は素晴らしい。マイクを通さなくても遠くまで届く通りの良さと、聞く者の心を揺さぶる倍音が含まれている。ただ、使い方が下手なだけだったのだ。
「……悪くない」
コウガは顔を上げ、ニヤリと笑った。
「お前の書く言葉は、俺の言いたかったことの芯を食っている。まるで俺の心臓を直接覗いたみたいにな」
「それが俺の仕事ですから。あなたはただ、その原稿に感情を乗せるだけでいい。ただし、怒りではなく、未来への希望を乗せてください」
俺は眼鏡の位置を直しながら、淡々と言った。
本当は、彼に認められたことが嬉しくて、心臓が早鐘を打っているのを悟られないように必死だった。
オメガである俺にとって、アルファからの肯定は強烈な快感となって脳を刺激する。ましてや、それがコウガのような強力なアルファであれば尚更だ。
俺は密かに服用した抑制剤のパッケージをポケットの中で握りしめた。
薬の効果で発情は抑えられているが、彼への精神的な依存までは消せない。
「おい、ミナト。顔色が悪いぞ。休め」
ふいに、コウガの手が俺の額に伸びてきた。
大きな掌が触れた瞬間、ビクリと身体が跳ねる。
彼の体温が、皮膚を通して直接流れ込んでくるようだ。
「だ、大丈夫です。ただの寝不足です」
「嘘をつけ。ここに来てから、まともに寝てないだろう。お前は俺の道具だが、壊れたら困る。……それに」
コウガは顔を近づけ、俺の耳元で囁いた。
「お前から漂う匂いが、甘くなっている。無理をするな」
心臓が止まるかと思った。
周囲にはベータのスタッフたちもいる。彼らには分からないだろうが、コウガには俺の体調の変化が筒抜けなのだ。
恥ずかしさと、気遣われたことへの妙な嬉しさが入り混じり、俺は顔を伏せた。
「……休憩を、とらせてもらいます」
「ああ、そうしろ。俺も少し頭を冷やす」
俺が逃げるように給湯室へと向かう背中を、コウガの視線がじっと追っているのを背中に感じた。
猛獣使いになったつもりでいたが、手綱を握られているのは、あるいは俺の方なのかもしれない。




