第10話「最後の罠と消えた参謀」
スキャンダルは野火のように広がった。
SNSや週刊誌は、あることないことを書き立てた。
『コウガはオメガの色香にたぶらかされている』『神聖な国政に獣を入れた』『公職選挙法違反の疑い』。
民衆の熱狂は、一夜にして疑惑と嫌悪へと反転しかけていた。
大衆とは移ろいやすいものだ。それを熟知しているはずの俺でさえ、この急激な変化には恐怖を覚えた。
首相官邸には報道陣が詰めかけ、俺は議員会館の一室に軟禁状態となっていた。
コウガは会見の対応に追われ、俺の元に来ることはできない。
いや、会ってはいけないのだ。今、俺たちが接触しているところを撮られれば、疑惑は確信に変わる。
「……ミナトさん、少しよろしいですか」
部屋の扉が開いた。
入ってきたのは、党の古株スタッフである男性だった。彼はいつも穏やかで、俺も信頼していた人物だ。
「車を用意しました。裏口から出られます。コウガ様からの指示で、一時的に安全な場所へ移動してほしいと」
「コウガから? 分かりました」
俺は疑いもせず立ち上がった。
コウガなら、この騒動から俺を守るために手を打ってくれるはずだ。
帽子を目深に被り、男の後について裏口へと向かう。
そこにはスモークガラスのワンボックスカーが停まっていた。
だが、車に乗り込んだ瞬間、違和感を覚えた。
車内の匂いが違う。
コウガの車なら微かに残っているはずの白檀の香りがしない。代わりに漂うのは、安っぽい香水と、腐った葉巻のような不快な臭い。
そして、運転席と助手席に座っているのは、見知らぬ大男たちだった。
「……おい、行き先はどこだ」
俺が尋ねると、案内してくれたはずのスタッフが、申し訳なさそうに、しかし冷酷に扉をロックした。
「すみません、ミナトさん。私も家族を人質に取られていましてね」
「なっ……!?」
車が急発進する。
俺は扉を開けようとしたが、チャイルドロックがかかっている。
窓を叩くが、分厚い防弾ガラスはびくともしない。
「ジェラルドか!?」
「ご名答ですよ、元秘書君」
スピーカーから、聞き覚えのある粘着質な声が響いた。
俺の背筋に冷たいものが走る。
車は王都を抜け、寂れた港湾地区へと向かっていた。
連れて行かれたのは、廃倉庫の中だった。
薄暗い空間に、カビと潮の匂いが充満している。
中央の椅子に、ジェラルドが優雅に脚を組んで座っていた。その周囲には、雇われの荒くれ者たちが数人、ニヤニヤしながら立っている。
俺は後ろ手に縛られ、彼の前の冷たい床に転がされた。
「やあ、久しぶりだねミナト君。顔色が悪いようだが、抑制剤が切れているのかな?」
ジェラルドは愉快そうに笑い、俺の顎を靴先でしゃくり上げた。
「汚い足をどけろ」
「威勢がいいねえ。だが、君のその生意気な口もいつまで利けるかな」
ジェラルドは懐から注射器を取り出した。
中には透明な液体が入っている。
見るだけで分かる。あれは、オメガの発情を強制的に誘発する違法薬物だ。
「これを打たれれば、君は理性を失いただの雌犬になる。その醜態を映像に収め、全国に生中継してやろう。国民は知ることになる。自分たちの選んだ首相が、こんな卑猥な獣に入れ込んでいたという事実をね」
「……そんなことをして、ただで済むと思っているのか」
「済むさ。コウガは失脚し、選挙は無効。混乱に乗じて私が暫定政権を樹立する。君は……そうだな、彼らにくれてやろう」
周囲の男たちが下品な笑い声を上げる。
絶望的な状況。
だが、不思議と俺の心は冷えていた。
恐怖はある。だが、それ以上にコウガへの信頼があった。
あの男は、こんな安い罠に嵌まるようなタマじゃない。
「……可哀想な人ですね、先生」
「何?」
「あなたは人を恐怖と利益でしか縛れない。だから、本当の信頼関係というものが理解できないんだ。コウガは必ずここに来る。そして、あなたを完膚なきまでに叩き潰す」
「黙れッ!」
ジェラルドが俺の頬を張った。
口の中が切れ、鉄の味が広がる。
彼は顔を真っ赤にして注射器を振り上げた。
「その減らず口、一生聞けないようにしてやる!」
針先が俺の首筋に迫る。
俺は目を閉じた。
コウガ、すまない。
ドォォォォン!!
その瞬間、倉庫の鉄扉が爆音と共に吹き飛んだ。
砂煙が舞い上がり、逆光の中に一つの影が浮かび上がる。
怒りで逆立った黒髪。黄金に輝く瞳。
その全身から放たれるのは、空間そのものを歪ませるほどの、圧倒的な殺気と覇気。
「……俺のツガイに、その汚い手を触れるな」
地獄の底から響くような咆哮。
コウガ・ヴァン・ハイルが、そこに立っていた。




