二日目(1)
目が覚めると、部屋は実体を持っていた。
一晩で僕の影響が周囲に及び、すべてが実体化したのだろうか。
現状を把握すべく、僕はベランダに出た。
青い空には雲が浮かんでいる。
周囲の建物は透き通っていない。
小鳥のさえずりが聞こえる。
ゴミ捨て場ではカラスがゴミ袋をつついている。
ここは現実の世界、現世だ。
僕はそれを実感した。
頭の上には違和感があるけれど。
たぶん、頭の上でキヨが跳ね回っている。微かにではあるが、確かにキヨの存在を感じる。だけど、鏡を見ても、キヨは映っていない。キヨを見ることができなくなったのは寂しいが、僕は戻って来ることができてほっとしていた。そして、ほっとすると同時に、猛烈な空腹感に襲われた。
「あっ、朝飯がない」
僕は思わずそう呟いた。
シリアルの買い置きはある。でも、牛乳がない。
昨日、レンズを試すついでに買って帰るつもりでいたのだ。
――でも……。
ふと異界のコンビニでパンとお茶を買ったのを思い出し、リュックを開けてみた。
しかし、そこにはパンもお茶も入っていなかった。
「はぁ」
思わずため息が出た。
しかたなく僕はコンビニへ向かった。
昨日と違って店には店員が居た。当たり前のことだが、その当たり前が僕を安心させた。現世に戻って来たと思ってはいたが、ここに来るまで全く人を見かけなかった。ゴールデンウィーク初日の早朝だから、人が居なくても不思議はない。でも、僕は、人に会って、戻って来られたことを実感したかったのだ。
まず、カゴに牛乳を入れる。これでシリアルは食べられるが、パンが食べたくなった。食べそびれたパンを思い出し、すっかりパンの口になっているのだ。でも、消えたのと同じパンを買うのは、料金を二倍払っているような気がして嫌だ。僕はクリームパンとソーセージロールを選んだ。
自分の欲しいものを籠に入れると、頭の上にいるキヨのことが気になった。
店に入ってからキヨの気配がおかしい。特定の方向に引き付けられているように感じる。気になるからキヨの反応を調べてみると、お菓子売り場に近づくほど、動きが激しくなることがわかった。
そこに何か欲しいものがあるのだろうか。
そう思ったとき、頭にイメージが流れ込んでいた。
キヨは浴衣を着た小さな女の子の肩の上にいる。
僕にはその女の子が、昨日のお婆さんの幼い頃の姿だと理解できた。
彼女は手に明〇のミルクチョコレートを持っている。
彼女はそれを割り、欠片をキヨに差し出した。
――ああ、あの子にはキヨが見えていたんだ。
幼い子どもにはいろいろなものが見えている。
だが、成長するにつれて見えなくなり、それを忘れてしまう。
きっとキヨのことも忘れてしまったのだろう。
だが、キヨはその思い出を忘れない。
それは大切な思い出らしい。
確か、明〇ミルクチョコレートは大正生まれ。歳をとった人たちが懐かしく思うように、キヨも懐かしく思っているのかもしれない。いや、キヨの興奮具合から、懐かしいどころではなさそうだ。
そう感じた僕は、それを手に取って籠に入れた。
キヨは僕の頭から肩に降り、僕の頬に自分の頭を擦りつけているようだ。
なんだかこそばゆい。
キヨの嬉しさが僕に伝わって来る。
でも、いまは撫でてやることもできない。
それが少し寂しい。
僕の思いとは別に、キヨはかなり興奮している。
家に帰ると、キヨの感触は僕の頭から肩に移り、首の周りをぐるぐる回ったと思ったら、今度は右腕を伝って――
これは間違いなく催促だ。
僕は仕方なく、チョコレートの角を少し割って、キヨがいると思われる方向に差し出した。
チョコレートの欠片が宙に浮いている。
そして、そこに小さな歯型が付き、少しずつ小さくなっていく。
不思議な光景だ。
一瞬、動画に残しておこうかと思ったけど、キヨは僕の右腕の上でくつろいでいるようで、カメラを取りに行くのは憚られた。
右腕の上に、キヨのやわらかなお腹を感じる。
それはほのぼのとする感触ではあるが、このままでは朝食がとれない。
しかたがないから、片手で食べることにした。
左手と口を使ってパンのビニールを破る。
左手だけでもパンくらい食べられるんだ。
こうして僕は不自由な食事を終えた。
キヨもチョコレートを食べ終えたようだ。
しかし、右腕は解放されない。
この感触からすると、両手両足で僕の右手をかかえてくつろいでいる。
眠っているのかもしれない。
――キヨは自由だなぁ。
食事の後、僕は撮った写真を確認することにした。
右腕のキヨを落とさないように作業をするのはちょっと厳しい。
が、不可能ではない。
机が中古オフィス家具店で購入したL字型のデスクだというのが救いだ。
机の天板が右に回り込んでいて、肘をつきながらでも楽な姿勢で作業できるから。
Windowsが立ち上がると、僕はメールチェックもせず、カメラをUSBケーブルでつないだ。SDカードだからリーダライタでもデータを転送できるけど、僕は絶対にそうしない。前に、静電気でSDカードを破壊してしまったのに懲りて、僕はカメラに挿したSDカードはできるかぎり取り出さないことにしている。旅行三日分のデータをダメにしたショックは、いまだに忘れられない。




