七日目(1)
翌朝、僕は酔っぱらいの叫び声で目が覚めた。
時計を見ると、まだ午前五時。
騒いでいるのは二軒先のアパートの住人だろう。
彼は朝まで飲んで、駅から歩いて帰って来る。
二か月に一度くらいの頻度でこんな風に騒ぐのだ。
声はまだ遠い。
たぶん、ワンブロックは離れている。
いつも通りなら、もうすぐパトカーが来るはずだ。
通報されて警察にお持ち帰り、というのがよくあるパターン。
ただ、あの酔っ払いは、たまに破壊行為を行う。
警察の到着が遅いと、家の門扉や自転車などが壊されていることがある。
この辺りの人たちは、物が壊される音がしても、外に出て酔っぱらいに関わる人はいない。
僕も同じだ。
関わり合いになりたくない。
でも、僕は弱いわけじゃない。
高校時代は友人に誘われて少林寺拳法をやっていたことがあるし、大学では誘いを断り切れずに、ちょっとだけ空手をやっていた。
両方とも、段位だって持っている。
僕は弱くない。
でも、僕は戦わない。
僕は武道経験を隠す。
世の理不尽に巻き込まれないように。
子ども向けのヒーロー物では、周りの者が挫けたヒーローを叱咤する場面が往々にしてある。
僕はそれが嫌いだ。
自分は戦えないから、なんて言うやつが偉そうに説教するのが気に入らない。
僕の知っている強者は、努力して強くなった人ばかりだ。
最初はみんな弱かった。
強いのは努力に努力を重ねた結果だ。
そういう裏側を知っていると、強い者が弱いものを守るのは義務、なんて言う連中に腹が立つ。
あの人たちは、誰も助けてくれる人が居なかったから、死ぬ気で努力して底辺から這い上がって来たのだ。
努力をせずに弱いままのやつが偉そうなことを言うのは許せない、と僕は思う。
そんな身勝手なやつらのために命を賭けるヒーローは、古代ローマのコロシアムで戦わされていた奴隷の剣闘士と同じではないか。
そんな風に思ってしまう。
だから僕は自分の強さを隠す。
身勝手な連中に利用されたくないから。
僕がそう考えるようになったのは、高校時代のできごとが発端になっている。
高校時代、友人と一緒に歩いているところを、ガラの悪い連中に絡まれた。
友人は、僕の武道経験を知っていたから、威勢よく言い返して事を荒立てた。
そして、いざ喧嘩という段階になって、ヤツは僕を置いて逃げた。
相手も僕も、そのクズさに呆れた。
あいつはチンピラが僕に同情してくれるほどのクズだった。
こんな経験から、僕は正義の味方にはならないと決めた。
そんな僕が食べる者を封じようとしているのは滑稽に思える。
でも、自分の家族のためなら、そうすることが嫌じゃない。
それが自然なことだと思える。
そこで僕はあることに気づいた。
いままで、僕に血のつながった家族がいなかったわけではない。
ちゃんと父も母も兄弟だっていた。
いまも生きている。
でも、彼らのために身を賭すような考えは、一度だって頭に浮かぶことはなかった。
僕はただあの家から逃げ出したかった。
――僕は歪んでいるんだ。
僕はそれを自覚した。
その歪みに気づかせてくれたのがキヨとネネだ。
――寝よう。
いまなら幸せに眠れるような気がした。
だが、眠ることはできなかった。
外で悲鳴が上がっている。
悲鳴を上げているのは一人ではない。
たぶん二人。ひょっとしたら三人。
そして、パトカーのサイレンがいろいろな方向から近づいている。
――まさか、また食べる者が出た?
僕は飛び起きた。
ダイニングの窓を開けて騒ぎの方を見る。
でも、隣の家の植木が邪魔で見えない。
キヨはまだ寝ている。
僕はこっそりとドアを開け、外に出た。
そして、ジャージ姿のまま、現場に向かう。
角を曲がると、こちらに走って来る男がいた。
二人の警官に追われている。
その男は、目の焦点が合っていなかった。
そして、気味の悪い笑みが浮かんでいる。
――食べる者に食われた?それともただの酔っ払い?
その男は僕に襲いかかって来た。
僕は左斜め前に踏み出して男の攻撃を避ける。
そして、すれ違いざま、足刀で腿の裏側を擦るようにして、膝の裏まで落とした。
相手はそれで体勢を崩す。
原理は『膝かっくん』という子どもの遊びと同じだ。
でも、これはれっきとした武道の技。
本当は、相手がバランスを崩したところで当て身を入れる。
でも、僕はそうせず、足刀のあと、バランスを崩した振りをして、よろめきながら男から離れた。
男から離れながら、自分が危ない橋を渡ったことに気づいた。
いまので僕が食われていた可能性もあるのだ。




