後編
――静かなる反動は、嵐のように忍び寄る。
優遇関税の撤廃が正式に発表され、その報せがリュクス王国内を駆け巡った日、街はざわめいた。
「ようやくか……長いこと一方的だったからな」
「我が国の技術と労働が、安く買い叩かれるのを見てきた。正当な見直しだ」
「これが、本当の“対等な国交”だろう」
市民の間に広がったのは、ようやく一国としての誇りを取り戻したという、静かな納得の空気だった。
宮廷内でも、侍従や官僚の間にさざ波のように広がる声があった。
「王子殿下も、やはり見る目がおありだ」
「レイナ様の冷静な分析が交渉を後押しされたのは間違いない」
人々の口に上るレイナの名は、もはや“美しい婚約者”ではなく、“王子を支える理知の象徴”として語られ、そこには尊敬と感謝が混じっていた。
だがその敬意は、どこかよそよそしくもあった。
まるで彼女を“特別な存在”として見上げるように。
賞賛の中で、レイナは少しずつ――孤立していった。
それらの賞賛はあまりに静かで、美しく、そして短かった。
祝福の言葉が花のように咲き誇った数日後――その花は、風にちぎられるようにして、散り始めた。
――すべての始まりは、一つの記事だった。
それは王都最大の発行部数を誇る《ユスティナ時報》に掲載された、ある匿名寄稿だった。
『王子の婚約者レイナ、復讐のための接近――その仮面の裏に潜む私怨の影』
見出しの大きな活字は、民衆の目に飛び込むには十分すぎる刺激だった。本文にはこう記されていた。
・レイナは、グランディア王国で“誤解”によって追放されたが、それをいまだ根に持っていた。
・追放後、偶然を装ってリュクス第二王子セドリックに近づいた。
・王子の心優しさに取り入り、婚約を結んでから政務に急速に関与するようになった。
・外交の場で“私怨”を爆発させ、条約破棄を主導。
・この動きは、国家の戦略ではなく個人の感情による“復讐”ではないのか。
証言者の名は伏せられていたが、文章は要点を押さえすぎていて――誰が読んでも“事実”のように思えた。
セドリック王子の婚約者として、その正義を体現したはずの彼女が、突如として“感情的で危険な女”として書き換えられようとしていた。
王都のあちこちでは、彼女の名前がさまざまな形で語られていた。
称賛と尊敬だけでなく、好奇心、噂、そして一部の悪意が混じるようになっていた。
王宮に届く報告の中にも、
「復讐のために王子と婚約したのではないか」
「権力欲が見え隠れする」
といった声が紛れ始める。
――それは、目に見えぬ波紋のように、静かに広がっていった。
追い打ちをかけるように、二日後に出た第二の記事はさらに扇情的だった。
『宮廷の変化――王子の周囲から消える助言者たち』
本文には、セドリックの幼少期から仕えていた重臣数名が最近辞任したこと、それと同時期にレイナが政策会議に顔を出すようになったこと、王子の書類に彼女の筆跡が混ざっていたことなどが記されていた。
事実の断片を並べて、巧みに憶測と織り交ぜる――それは最も読者の心を操る記事の構成だった。
レイナ自身が弁解を口にする前に、「そうかもしれない」と思われる構図が完成していた。
王宮の侍女のひとりが、声を潜めてレイナに言った。
「レイナ様……お気をつけください。御前会議の一部で、殿下への影響について非公式の懸念が出たと、噂で……」
それがどこまで真実かはわからなかった。だが、その“ささやき”自体が、すでに不穏の兆しだった。
セドリックは動じることなく、変わらぬ穏やかさで微笑んだ。
「気にするな。風評など、真実に勝る力はない」
その声も笑みも、いつものように優しかった。
だからこそ――その優しさが、レイナには鋭く突き刺さった。彼の温もりが胸をなぞるたび、心の奥からじくじくと疼く感情があった。
怒りは、手放していない。それは最初から分かっていたことだった。
あの国に対して、あの夜に対して、自分の中で燻り続ける感情は消え去ったことなどなかった。
けれど。
――私は、セドリック様を“利用していない”と、本当に言い切れるだろうか。
あの会談のとき。アリステアが困惑し、父が言葉を失い、アンネローゼが顔を引きつらせたあの瞬間。
胸のどこかで、「ざまぁ」と、思っていなかったか?
彼らの動揺を前にして、復讐の快感に似たものを、ほんの一瞬でも感じていなかったか。
そう問いかけたとき、足元にひびが入るような感覚がした。
誰かに突きつけられたわけでもない、自分自身の問い――それが何よりも深く、レイナの心を揺らしていた。
心の奥で芽吹いた「疑い」は、他人から吹き込まれたものではない。それは、自らが最も恐れていた問いだった。
王宮の大理石の廊下を歩きながら、ふとしたときに誰かの視線を感じる。
応接室で紅茶を飲んでいても、控えの女官のまなざしに、ふとした躊躇がある。
庭師が一瞬だけ目を伏せて通り過ぎる。
誰も、責めてなどいない。けれど――誰も、心から信じてくれてはいない。
その微かな軋みが、音もなく日常を蝕んでいく。
レイナは気づいていた。
自分の立っている場所が、少しずつ冷えていることに。
誰の手も届かぬ高みに押し上げられ、同時に、人としての輪から引き剥がされていることに。
――ざまぁの代償。
それは剣のように振り下ろされる報いではなかった。
それは静かに、じわじわと血の気を奪うように忍び寄る。
かつて光に包まれた者にだけ降る、長く伸びる影のように。
手のひらを見つめるたび、自分が誰かの手を振り払った気がしてならなかった。鏡に映る瞳は、自分のもののはずなのに、どこか他人のようだった。
セドリックは変わらぬまなざしを向けてくれる。
けれど、その背中を見送るたびに、レイナは自分自身に問いかけていた。
――私は、本当にセドリックの傍に、いられる資格があるのだろうか。
その問いに、まだ答えは出なかった。
ただ、涼やかな風が庭園の葉をそっと揺らしていた。
もう雪はどこにもないけれど――
それでも、あの夜の寒さは、心の奥でまだ溶けきってはいなかった。
季節は確かに移ろい、静かに――次の章が、ゆっくりと幕を開けようとしていた。
◇
「……レイナ様。申し訳ありませんが、今回の評議会へのご同席は――控えていただきたいとのご意向です」
会議室へ向かおうとしたレイナを、侍女長が深々と頭を下げて制止した。言葉は丁寧だったが、その声にはわずかに張り詰めたものがある。
「今までは、許されていたのに……」
レイナが静かに尋ねると、侍女長はうつむいたまま答えた。
「“臨時の措置”でございます。王族評議会の一部より、混乱回避のために――との……」
臨時という名の“排除”。
その日を境に、彼女のまわりで小さな異変が積み重なっていった。
回覧されるはずの資料が手元に届かず、会議日程の通知は遅れ、政務の調整にも呼ばれなくなった。
配膳された食事の品数が妙に少ない日が続き、香水の調合が以前と微妙に異なる。仕立てを依頼した衣装が予定よりも遅れて届くなど、目に見える“ほころび”が日常の中に紛れていた。
侍女たちは笑顔を保っているが、どこか言葉が浅い。背後で交わされる囁き声も、彼女が近づくとすっと止まるようになった。
レイナは鏡の前で、静かに自嘲する。
「まるで、私は毒でも盛りそうな存在に見えているのかしら」
けれど、誰も直接非難するわけではなかった。ただ、確かに彼女は“孤立”しはじめていた。
一方、セドリック王子にも圧力は忍び寄っていた。
王政の助言機関である評議会では、彼の政治判断そのものが議題に上がりはじめていた。
「王子妃殿下のあの行動――あれは“私情”による外交への介入ではないか?」
「妃殿下に同調し、条約を破棄したことで、他国との連携にも疑念を抱かれている」
「王子殿下の“判断力”そのものが、王位継承にふさわしいのか再検討する必要があるのでは?」
――標的は、レイナだけではなくセドリックへも。
彼もまた、次第に王宮内の陰に包囲されつつあった。
セドリックの兄である王太子に忠誠を誓う一派は、セドリックの人気と影響力を危険視し、彼を牽制する動きを加速させていた。
直接名を挙げることはなかったが、会議の場では次第に「王子妃の判断を問題視する声」が「王子の判断そのもの」へとすり替わっていった。
「第二王子殿下は、王子妃によって過度な影響を受けておられるのではありませんか?」
「最近の決裁には、殿下の独断とは思えぬ文調や内容も見受けられます。……噂では、王子妃殿下が起草に関与しておられるとか」
「グランディアとの条約破棄の件も、外交慣例を無視した“個人的感情”の混入があったとの指摘がございます。改めて検証の場を設けるべきでは?」
発言者の口ぶりは一様に丁寧で、あくまで「中立的な提案」といった体裁を装っていた。
だがその実、彼らの言葉には確かな意図があった。
それは、セドリック自身の“判断力”や“王族としての適格性”を揺るがせることで、王位継承の正当性そのものに疑念を植え付けること。
表ではレイナの影響力を懸念するように見せながら、裏では「第二王子そのものが危うい存在である」という印象を、じわじわと広めていた。
しかも彼らは、誰も「王位継承」や「廃嫡」という言葉を使わなかった。
それこそが狡猾な包囲だった。
――あくまで“忠言”という形をとりながら、徐々に退路を塞いでいく。
そしてセドリックにとっての最大の支え――レイナ妃の存在そのものを、政治的な“弱点”として扱い始めていたのだ。
会議室の空気は、沈黙の中に鋭利な刃を潜ませていた。
そこに漂うのは、忠誠ではなかった。
――冷ややかで計算された、“継承争い”の匂いだった。
◇
「……すべて、私のせいなのね」
離宮の回廊、月の光が石畳を照らし、風に揺れる木々の影が静けさを揺らしていた。
庭園へと続く石柱の陰に佇むレイナは、背後から近づいてきたセドリックに気づきながらも、振り返ることなく呟いた。
「私には、復讐の意図がなかったと、強く言い切れる自信がないの。あの場で、彼らの顔を見てしまった。それだけで、押し込めていたはずの感情が、一気にあふれてきたの。追放された夜の記憶、信じてもらえなかった孤独……。『ざまぁ』と思わなかったと言えば嘘になるわ。誇りを取り戻すつもりだったはずなのに、気づけば、あの人たちを潰すことにすり替わっていたのかもしれない……」
声の端が、かすかに揺れた。
セドリックは黙って歩み寄り、そっと彼女の肩に両腕を回す。
背中に伝わるぬくもりが、冷えた心をゆっくりとほどいていく。
「レイナ、君はずっと、自分を取り戻すために歩いてきた。その姿を、俺は誰よりも見てきたよ。怒りがあったとしても、それに溺れたりはしなかった。君が動いたのは、自分のため“だけ”じゃない。正しさのために、この国の未来のために……。君の選択が私怨だけだったなんて、俺には到底思えない。ちゃんと、見ていたから」
その声は静かで、まっすぐだった。だからこそ、レイナの胸を締めつけた。
彼の言葉に、甘えてはいけないと思った。
「……けれど、あなたまで巻き込んでしまったわ」
「構わない。君と共に歩んでいけるなら、それでいい」
揺らぎのないその答えが、かえってレイナを痛ませた。
――この人の未来を、私のせいで曇らせたくない。
彼がどれだけ多くを背負いながら、それでも自分を守ろうとしてくれているのか――レイナには、痛いほどわかっていた。
だからこそ、彼の隣にいるだけでは、足りなかった。
この人の未来を守るために、自分にできることを。
その手を離さないために、もう一度、自らの意志で立ち上がらなければならない。
◇
翌朝。
離宮の執務室の前で、レイナは一度、深く息を吸い込んだ。
心臓の奥で鳴る鼓動を静めるように指先に力を込め、静かに扉を叩いた。
「セドリック、お願いがあるの。――次の評議会に、私を出席させてほしい。発言の機会を、どうか」
執務机の奥で顔を上げたセドリックは、意外そうに瞬きをした。
だがレイナの声は澄んでいた。決意と覚悟が、余分な揺らぎをすべて削ぎ落としていた。
「……君が、評議会に? でも今は、出ればきっと――」
「わかっているわ。私が出れば、反発も批判もあるでしょう。でも、だからこそ、私が自分の言葉で語らなければならないの。誰のために、なぜあの場で動いたのか。そして、今あなたの隣に立つ資格が、私にあるのかどうかを――自分自身の口で証明したいの」
レイナは一度息を吸い、まっすぐにセドリックを見つめた。
「逃げたくないの。噂に怯えたり、ただ沈黙して嵐が過ぎるのを待つようなことは、もうしたくない。あの夜、あなたが私を信じてくれたこと――その手を取った瞬間の自分を、私は裏切りたくない」
静かに言葉を継ぐ。
「だから今度は、私が“私自身”を信じてみたいの。失われた誇りを、もう一度、自分の足で立たせたい。そのために――どうか、機会をください」
セドリックは、しばらく言葉を返さなかった。
静かに机から立ち上がり、彼女の前まで歩み寄る。
真っ直ぐに向けられたレイナの眼差し――その奥にある強い意志は、もはや誰の庇護も必要としない、確かな自立の証だった。
「……本当に、いいのか?」
低く絞られた声だった。
「君が再び矢面に立てば、また心ない言葉に晒されるかもしれない。それでも、なお……」
レイナは静かに頷いた。
その動きには、一切の迷いがなかった。
セドリックは一度だけ目を伏せ、深く息を吐いた。
そしてゆっくりと顔を上げると、彼女の瞳をしっかりと見つめ返しながら、穏やかに言った。
「――わかった。君の意志を、俺は信じる。評議会の場で、君に発言の機会を設けよう。君は、俺の隣に立つべき人だ。その証明を……皆の前で果たしてくれ」
レイナの瞳がわずかに潤んだ。けれど、微笑みは消えなかった。
「はい。必ず」
その一言に込められたものは、感謝でも、決意でも、誓いでもある。
そしてそれは、あの夜、吹雪の橋の下で始まった絆が、いま新たな試練を迎えようとしている証でもあった。
◇
王族評議会の重々しい扉が、ゆっくりと音を立てて開いた。
その瞬間、議場に座していた文官や貴族たちの視線が一斉に入口へ向けられる。
姿を現したのは、第二王子セドリック・ド・リュクスと、その隣を歩く若き女性――婚約者レイナであった。
濃紺のドレスに身を包み、淡い金に近い栗色の髪を結い上げたレイナの歩みは、静かで淀みがなかった。
実家からは勘当され、家名を持たぬ身となった今も、その姿勢には確かな気品と風格が宿っていた。
――あれが、噂の“王子の婚約者”か。
――実家から追放され、名前すら持たぬというのに、ここまで出てくるとは。
――まさか、自らの正当性を主張しにきたのか?
視線には、好奇心、懐疑、あるいは警戒の色が交じっていた。
レイナは怯むことなく、セドリックと並んで中央へ進み、定められた席の手前で静かに一礼する。
「本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」
その声は凛として澄み、議場の隅々まで届いた。
「私はレイナ――家名はございませんが、現在セドリック殿下の婚約者として、また外交交渉に関わった者として、この場に立たせていただいております」
議場がぴたりと静まり返る。
王族の席には王と王妃、そして王太子が並び、その両脇を取り囲むように高位貴族、文官、軍の将官、聖職者たちが居並んでいた。
その誰もが、レイナという名と、その背後にある噂を耳にしていた。
――王子の婚約者は、私怨で外交の場に私情を持ち込んだのではないか。
――彼女の言葉ひとつで、国の方針が揺らいだ。
――その影響力を、国益ではなく感情のために振るったのでは――と。
そうした疑念の視線を真正面から受けながらも、レイナは顔を上げ、まっすぐに言葉を継いだ。
「本日は、私にまつわる一連の誤解と憶測について、自らの言葉で釈明をさせていただきたく参りました。王子殿下の名のもとで動いた者として、王家に、そして臣民の皆さまに誤解を残したままにはできません」
その所作、その言葉の一つ一つに、十年にわたる王子妃教育の痕跡があった。
だがそれはもはや、誰かに仕込まれた“型”ではない。
自ら選び、自らの意思で立つ者としての姿だった。
静まり返った議場の空気の中に、ただ一人、強く優しいまなざしを向ける男がいた。
セドリックは、彼女のすぐそばに立ち、何も言わず、ただその覚悟を見守っていた。
「私は、かつて隣国グランディア王国にて、王太子妃となるべく育てられておりました。幼い頃から礼儀作法を学び、政務に携わり、国を支えるための教育を受けてきました」
レイナの声は静かだったが、揺らぎはなかった。
「けれど、私は愛されることはありませんでした。必要とされたのは、私の“能力”だけ。そしてある日、理由も与えられぬまま、冤罪の名のもとにすべてを奪われました。婚約を破棄され、家から追放され、名誉を汚されました」
議場の空気が一層重くなる中、彼女はゆっくりと言葉を継いだ。
「その時、私は何もかもを失いました。家族、友人、地位、誇り、自分自身――私のすべてが、あの夜に断ち切られたのです」
それでも、と彼女はほんのわずかに顎を上げた。
「そんな私に、手を差し伸べてくれたのが、セドリック殿下でした。命を、ではなく、“尊厳”を救ってくださったのです」
視線は前を向いたまま、ほんの一瞬、彼女の声が細くなる。
「――復讐を望まなかったかと問われれば、否定はできません。怒りがなかったとは、言い切れません」
ざわ……と、議場の一角がざわめく。
「ですが、私が外交交渉に臨んだ理由は、私怨のためではありません」
レイナは怯むことなく、凛とした姿勢を保ったまま、真っ直ぐに顔を上げた。
「私は、リュクス王国の一員として――その利益と尊厳を守るため、対等な立場で交渉の場に立ちました。そして、たまたまその相手が、かつて私を裏切り、地に落とした者たちだった。ただ、それだけのことです」
言葉は明快だった。過去に縛られながらも、未来を見据えようとする者の声だった。
「誹謗を受け、名を奪われ、嘲られてなお、こうして私がここに立てているのは――セドリック殿下が、私を信じてくれたからです。私を“復讐の女”としてではなく、“再び歩む者”として受け入れてくれたからです」
レイナの瞳が、議場をひとりひとり確かめるように見渡す。
「私は、かつて“過去に囚われた人間”でした。ですが今は、未来を選び取るために、この場に立っています。王子の婚約者としてではなく、ひとりの人間として――誇りを取り戻すために。今日、私はその一歩を示したくて、ここに参りました。どうか、私の声が、皆さまの心に届いておりますように」
議場の空気が、わずかに変わった。
誰かが喉を鳴らし、誰かが書類の手を止め、誰かが、ほんのわずかに、目を伏せて頷いた。
その反応は決して大きくはなかった。だが確かに、“風向き”が変わる気配があった。
しん……と、議場の空気が静まり返っていた。
レイナの言葉が響いたあと、しばらくの間、誰ひとりとして動かなかった。まるで重たい霧が立ちこめたかのように、誰もが彼女の存在と、言葉の重さを噛み締めていた。
ざわ……と最初に空気を割ったのは、文官席の中央にいた初老の男の低い咳払いだった。
「あれが……グランディアで追放されたという公爵令嬢か」
「……堂々たるものだ。演説も見事だった」
「威厳がある。王太子妃教育を受けていただけのことはある」
聖職者がぽつりと呟き、将軍の一人がわずかに頷いた。重苦しかった空気が、わずかに動き始めていた。
議場の隅で囁き合いが交わされる中、その中心にいるセドリックが、ゆっくりと立ち上がった。
「皆に、王子として一つ申し上げたいことがある」
その声は、レイナよりもさらに静かで、けれど否応なく人々の意識を引き寄せる強さを持っていた。
「私がレイナを妃に選んだのは、同情ではない。この国に必要な“真実を見抜く目”と、“責任を果たす意志”を、彼女が持っていたからだ」
ざわつく空気が、一瞬で引き締まる。その声は、響きながら静かに場に落ちた。
セドリックは、深く息を吸い、まっすぐに議場を見渡す。姿勢は揺るがず、言葉には飾り気がない。だがその瞳には、たしかに確信の光が宿っていた。
王族の威厳というよりは、一人の人間としての誠実さがそこにあった。彼は誰かの期待を背負うためではなく、自らの信じた道を語っていた。
「この場にいる誰よりも、レイナはこの国の未来を想い、行動した。それを“復讐”としか呼べぬなら――それは、言葉の侮辱ではなく、彼女の誠意を見抜けぬ我々の怠慢だ」
会場に、張り詰めたような静寂が訪れる。
誰も言葉を返せなかった。返すべき反論が見つからなかったからではない。その誠意が、あまりにも真っ直ぐだったからだった。
そしてそのとき、王族席に静かに座していた国王――セドリックの父が、ゆっくりと立ち上がった。
その動きひとつで、議場の空気が一変する。誰もが言葉を飲み込み、重い沈黙が流れる。
年輪を重ねたその顔には、厳しさも慈しみも宿っていた。だが何より、その眼差しはひとりの父として、そしてこの国を導く王としての覚悟を湛えていた。
「……よいか、諸卿」
重厚な声が、天井のアーチに反響した。
「我がリュクス王国は、過ちを抱えた者を責めるより、その過ちから立ち上がる者をこそ、讃える国である」
静寂が、さらに深まる。
「レイナ嬢。貴女の言葉は、確かに我が耳に届いた。そして、貴女の行動が私怨に傾くことなく、このリュクス王国の未来を見据えての判断であったことを、私は高く評価する」
一拍の沈黙のあと、王はセドリックの隣に立つレイナへと、まっすぐに視線を向けた。
その眼差しは、王としての重責を帯びながらも、どこか温かく、父親として息子を見守るようなやわらかさを宿していた。
「――貴女を、正式に我が第二王子セドリックの妃として、リュクス王国に迎えよう。そして、これからも彼を支え、ともにこの国の未来を築いてほしい」
その言葉は、王としての厳格な宣言であると同時に、息子の伴侶を心から認める父としての祝福でもあった。
議場に静かに、けれど確かに拍手が広がっていく。最初に手を叩いたのは文官の一人、次に武官、やがて貴族たちまでもが席を立ち、賛意を表すように音を重ねていった。
レイナは深く一礼し、ゆっくりと顔を上げた。瞳に浮かんでいたのは涙ではない――誇りと、深い感謝の光だった。
――ありがとう、陛下。そして……セドリック様。
ようやく私は、“誰かに選ばれる”存在ではなく、自らの意志でこの場所に立っている。そう、胸を張って言える。
隣で静かに頭を垂れるセドリックの背中が、どこまでも頼もしく見えた。
――こうして、レイナは名誉を取り戻した。
だが、それはかつての地位や名声に舞い戻ることではなかった。
失われた“公爵令嬢レイナ・エルヴァン”という過去の肩書きではなく、今この国で、彼女自身が歩み選び取った王子妃レイナとして。
誰かに与えられた立場ではない。奪われた誇りを、ただ静かに取り返すために、自らの足で立ち、自らの声で語った末に得たもの。
それは“復讐”ではなく――“再生”。
新たな名と共に歩む未来。
王子の隣に立つ者として、ひとりの人間として、誇りを持って生きるために掴み取った、真の帰還だった。
◇
王族評議会での出来事は、翌朝には王都中の話題となっていた。
《ユスティナ時報》の朝刊一面には、こう大きく見出しが打たれた。
『王子の婚約者、誇りの誓い――再生の言葉に、王が応えた日』
記事には、レイナが議場で語ったすべてが丁寧に記されていた。
グランディア王国での追放。名誉の喪失。再起の誓い。
そして、復讐ではなく“誇り”を取り戻すために歩んだ日々。
それを正面から語った彼女に、国王が「第二王子妃」としての地位を与え、明確に支持を表明したことが、はっきりと書かれていた。
それを読んだ王都の市民たちは、広場や店先で涙をぬぐいながら、口々に言った。
「……立ち上がることは、誰にでもできることじゃない」
「真実を語ること、それがどれだけ勇気のいることか」
「彼女は、“勝った”んじゃない。“赦した”んだよ」
そう語る声が街に広がり、やがてそれは、王宮の中にまで届いていった。
レイナを批判し続けていた反対派の貴族たちも、国王の裁可と国民からの強い支持に押される形で発言を控えるようになり、
“セドリック第二王子の王位継承権の再検討”という声も立ち消えとなった。
そして数日後、王宮から公式の発表があった。
「セドリック王子とその婚約者レイナ嬢の結婚を、王室として正式に承認する」
同時に――王太子からも、自らの言葉でふたりへの祝福が贈られた。
「彼女は、我らがリュクス王国の未来にふさわしい気高さを持つ方だ。すべての者がその誠意に報いるべきである」
この言葉が出たことで、王太子に忠誠を誓っていた一部の派閥も矛を収め、以後、セドリックとレイナに対する公然たる批判は見られなくなった。
冷たい風のようだった不信と中傷は、ようやく、穏やかで温かな兆しへと変わっていった。
そして、人々の間でレイナの名が語られるとき――それはもはや、「追放された令嬢」でも「復讐の女」でもなく、「王子と並び立つ、再生の象徴」としての姿だった。
◇
離宮の南庭。
まだ人の少ない朝の光が、芝生の上を柔らかく照らしていた。小さな噴水のほとりに咲き誇る白い花々が、そよ風に揺れている。水音と鳥のさえずりが、穏やかに時を刻む。
そこは、セドリックがレイナに婚姻の申し込みをした場所。離宮の奥まった一角にある、誰にも邪魔されない静謐な空間だった。
「……風が、涼しいわね」
レイナはそっと目を閉じて、胸いっぱいに秋の空気を吸い込んだ。
半年以上前、雪の中で倒れていた日とはまるで違う――けれど、心の奥には今も、あの冷たさの記憶が確かに残っていた。
「季節は巡っても、心の痛みって、不意に蘇るのね」
小さく呟いたその声に、隣に立つセドリックが静かに応えた。
「痛みは、簡単に癒えるものじゃない。でも……」
彼は、そっと彼女の手を取った。
「君が、その痛みと向き合いながら、乗り越えようと歩いてきたことを――俺は、心から誇りに思ってる」
レイナは少し目を伏せたあと、ゆっくりと口を開いた。
「……あのとき私は、確かに“ざまぁ”と思った。怒りや悔しさに胸が焼けて、あの人たちに報いを与えたいと――怒りに飲まれそうになったのも、事実よ」
言葉を置き、ひと呼吸の沈黙が落ちた。
「あの瞬間、確かに私の中にあった痛みや憤り――それらを、なかったことにはできない。見て見ぬふりをしてしまったら、自分の気持ちにも、過去にも嘘をつくことになる気がして……。それはきっと、私が私でなくなるってことなの」
セドリックは、迷わず言葉を紡いだ。
「それでいいんだ。怒りも悲しみも、君がここまで歩いてきた証だよ。大切なのは、それらの感情を“未来へつなぐ力”に変えていくことだと思う」
その声には、迷いのない穏やかさがあった。
レイナは静かに頷き、彼の手を握り返す。そして、ぽつりと呟くように言った。
「……“ざまぁ”は、誰かを不幸にする。そして、いつか自分にも、形を変えて還ってくる」
そう言って、小さく息を吸い、遠くを見つめる。
「誰かを傷つければ、自分もまた、どこかで傷を負うかもしれない。だからといって、何もせず、ただ閉じこもっていたら――私は、もう二度と歩き出せなかったと思うの」
彼女はセドリックの手にそっともう片方の手を重ねるようにして、静かに続けた。
「だから私は、この想いを“歩く力”に変えていきたい。怒りも、憎しみも、悔しさも……すべてを抱えたままでも、前に進めると信じたいの。あなたと一緒なら……きっと、できるから」
その瞳には、かつての迷いはなかった。過去を否定することなく、そのすべてを受け入れた先に、未来を見据える光が、静かに灯っていた。
セドリックは微笑みながら、彼女の手をそっと包み込む。
「君が傍にいてくれる限り、どんな嵐にも立ち向かえる。これからも共に歩こう。過去を抱えてでも、それでも俺たちなら――必ず、前へ進める」
レイナは深く息を吸い、小さく、それでも力強く頷いた。
ふたりの影が、やわらかな日差しの中に寄り添うように伸びていく。
苦しみも、怒りも、喪失も。
それらすべてを超えて――いま、ふたりの足元には確かに、新しい“未来”が広がっていた。
それは、”ざまぁ”の果てに残された、ただひとつの真実。
痛みと向き合いながらも、人は、前に進める。
手を取り合い、共に歩む限り――。
<完>




