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中編

 リュクス王国、王都ユスティナ。

 その中心にそびえる王城の迎賓棟には、王国間の条約交渉のために設えられた重厚な大広間があった。


 天を突くような列柱のあいだ、淡い魔導光が壁面の精緻な彫刻を静かに照らしていた。リュクス王国とグランディア王国の高官たちは、互いに一言も発することなく席に着いていた。

 衣擦れと紙を捲る音だけが空気を震わせる中、リュクス王国第二王子セドリックと、その婚約者レイナが、並んで入場した。


 すっと整った足取りで進むふたりに、場内の視線が集まる。

 特にレイナの姿に対しては、いくつもの“視線”が、言葉にならぬざわめきと共に集中していた。


 ――グランディア王国の使節団。

 王国の未来を担う代表として席に着いていたのは、王太子アリステア。

 その隣には、艶やかな紅色のドレスを身にまとったアンネローゼ。

 さらにその傍らには、かつての栄華を纏いながらもどこか影を落とした顔――レイナの父、エルヴァン公爵の姿があった。


 その三人が、ほぼ同時に彼女を認めた。

 アリステアは、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、顔から血の気が引いていた。

 アンネローゼは驚愕に息を呑み、手にしていた扇を取り落としそうになった。

 エルヴァン公爵の視線は、一瞬だけ娘の名残を求めたように揺れ、だが次の瞬間には、それを打ち消すように目を伏せ、顔には苛立ちと動揺が走った。


「まさか……ありえない……」


 誰かが小さく息を呑み、誰かが椅子を軋ませた。

 その視線の中心にいたレイナは、表情一つ変えずにセドリックとともに席に着いた。


 レイナ――かつてグランディア王国王太子アリステアの婚約者として、十年にわたる王太子妃教育を受けてきた女性。

 国内の法律、外交儀礼、経済構造、政略結婚の系譜まで、徹底的に叩き込まれた知識を持つ彼女は、単なる外交顧問ではなかった。

 その頭脳と経験は、今やリュクス王国にとって最大の武器であり、グランディア王国にとっては“もっとも不都合な証人”でもあった。


 しかも今、彼女は――リュクス王国第二王子の婚約者として、外交顧問として、この場に“正当に”席を持っていた。

 まさに“予想もしなかった障害”であった。


 その一事だけで、会場の空気が確かに変わった。


 開会の挨拶が終わると、場の空気はいっそう引き締まった。

 先に口火を切ったのは、リュクス側の主席官僚であり、今回の進行を務める参謀官だった。


「本会議は、帝国語にて進行いたします。これは、国際的な慣例に則った措置でございます。ご了承願います」


 それは外交の場ではごく常識的な通達だった。

 しかし次の瞬間、グランディア側の席が明らかにざわめいた。

 アリステア王太子の顔色が、みるみるうちに蒼白に変わる。


「……帝国語? そんな話、聞いていないぞ……!」


 隣に座るアンネローゼが呆然としたまま周囲を見回し、不満げに眉をひそめてつぶやいた。


「なにそれ? 私、全然わからないんだけど……」


 その様子に、使節団の列も一瞬ざわつく。

 レイナの父であるエルヴァン公爵もまた、言葉を失い、使節の一人に身を寄せて焦った様子で何事かを早口で囁きかけた。


 だが――

 急きょ手配された通訳官は全て遠方へ出払っており、会議には到底間に合わない状況だった。

 本来、王太子を補佐すべき立場にある随行官たちも、まさかアリステア王太子が帝国語を習得していないとは思いもよらなかった。


 そして、場の空気が沈黙に包まれる中――

 その静けさを破ったのは、レイナの落ち着いた声だった。


 「……グランディア王国の代表団の中には、帝国語を習得されていない方が一部いらっしゃるということで、相違ございませんか?」


 完璧な発音で放たれたその一言に、リュクス側の列席者たちの間から、ごくわずかな嘲笑が漏れた。

 侮蔑というより、驚愕の入り混じった――「まさか本当に準備なしで来たのか」とでも言いたげな空気。


 アリステアは赤くなった顔をさらに赤らめ、苛立ったように声を張り上げる。


「通訳を呼んでいる! もう少しすれば来るはずだ!」


 それに応じたのは、セドリックの低く静かな声だった。


「外交というのは、誠意と準備によって成り立つものです。……まさかその両方を欠いておられるとは、思ってもみませんでした」


 その皮肉を含んだ言葉に、アリステアの肩がびくりと揺れる。


 しばしの沈黙。だが次の瞬間、グランディア側の列から苛立ちを隠しきれぬ声が上がった。


「……ええい、このまま進めろ。無駄な時間を使っている余裕などない」


 発したのは、グランディア王国の重鎮の一人。年配の高官であり、かつて複数の国で大使を務めた経験を持つ外交の古参だった。

 彼は椅子を引いて王太子の横に腰を下ろすと、眉間に皺を寄せたまま前を睨みつけ、ぶっきらぼうに通訳を始めた。


「……王太子殿下は、貴国の要望に対し、善意と誠意を持って対応する意向です」


 その言葉の端々には、苛立ちを押し殺したような硬さがあった。

 無理に繕った“丁寧な言葉遣い”の下に、明らかに不満と動揺が滲んでいた。


 リュクス側の参謀官は表情ひとつ動かさず、淡々と頷く。


「それでは――双方の最大の争点となっております『優遇関税条約の更新』について、ここで協議を開始いたします」


 議場の空気が、再び張り詰める。


 リュクス側の要求は明確だった。

 ――これまで一方的にグランディアが享受していた輸出優遇を撤廃し、対等な新条項へと改定すること。


 だが、エルヴァン公爵は声を荒げて反論した。


「リュクス王国が受けた利益も決して少なくないはず! 我々は十分に代価を支払ってきた。要求に応じかねる!」


 それは、かつてなら通用したかもしれない――身分と威圧で相手をねじ伏せようとする、強引に相手を黙らせるような“旧来の外交手法”だった。

 だが、だが今や、そんな時代錯誤の交渉は通らない。


 レイナが静かに手を挙げ、視線を集める。


「――では、その代価とやらを、数値でご説明いただけますか?」


 彼女の指先には一枚の文書。

 それはリュクス王国がまとめた「過去五年間の貿易収支報告書」だった。


「こちらが、五年間におけるグランディアからの輸入品の額。そして、我が国からの輸出品にかけられていた関税率の推移です」


 レイナの口調は淡々としていたが、論理は冷徹だった。


「この数字をご覧ください。貴国が得た利益は、同盟諸国中でも飛び抜けて高い。にもかかわらず、我が国製品に対する関税は平均で21%。貴国製品に対する我が国の関税率は、わずか4%です。これはもはや“優遇”ではなく、一方的な“搾取”の構造です。これを“友好関係”と呼ぶのは、いささか不公平ではありませんか?」


 エルヴァン公爵は口を開きかけ――しかし、何も言えなかった。

 声が出ないのではない。言えるだけの根拠が、なかった。


 アリステアは思わず身を乗り出しかけたが、すぐにその動きを止めた。

 言葉が通じず、何が話されているのか見当もつかない――その現実が、焦りと困惑を募らせていく。視線は宙をさまよい、次第に顔が紅潮していくのが隠せなかった。


 その隣で、アンネローゼはぷいと顔を背けて腕を組んでいた。

 周囲の会話が理解できないまま、彼女の表情には不機嫌さと不安が混ざっている。ときおり「何を言ってるの?」と小声で尋ねるものの、周囲はろくに取り合ってくれず、ますます唇を尖らせた。


 二人の戸惑いは、グランディアの席の中でもひときわ異彩を放っていた。

 場の流れに乗れず、発言の意図すら掴めないまま、ただ置き去りにされていく感覚だけが強くなっていた。


 セドリックが重々しく口を開いた。


「本条約は、貴国側が対等な立場と意志を持って望まない限り、見直しは困難です。――我々リュクス王国としては、これ以上、非対称な関係を続けるつもりはありません」


 そして、決定は下された。


 条約は――更新されず。

 リュクス王国は、優遇関税措置を即時撤廃とする通告を行い、会議は終わりを迎えた。


 グランディア王国の使節団席には、冷たい沈黙が漂っていた。


 アリステアは蒼白な顔でテーブルに手をつき、指先を震わせていた。

 アンネローゼはうつむいたまま何も言えず、扇をぎゅっと握り締めている。

 エルヴァン公爵は膝に置いた手が小刻みに震え、顔を背けたままだった。


 ――終わった。


 グランディア側の席には、冷たい沈黙が落ちていた。

 皆がそれぞれの立場で、失策の重みと失った威信の大きさを理解していた。


 そしてなにより、

 “かつて見下した一人の令嬢に、完膚なきまで叩き伏せられた”という事実が――誰よりも、彼らの誇りを深く傷つけていた。


 ◇


 リュクス王国との外交交渉が完全に決裂したその夜。

 本来ならば、城の大広間では「両国の親交を深める晩餐と舞踏の夕べ」が華やかに開かれるはずだった。


 だが、グランディア王国使節団が“早急な帰国報告”を理由に、舞踏会への出席を辞退。

 リュクス王国側は形式上、「急な帰国の事情は理解した」と受け入れた。

 だがその裏では、もはやこれ以上のもてなしをする価値はない、という冷ややかな判断が下されていた。


 用意されていた楽団は解散させられ、卓上の花々は片付けられ、金糸の垂れ幕すら撤去されていった。

 誰も、彼らの帰り際に声をかける者はいなかった。


 ◇


 帰国の途に揺れる馬車の中――

 アリステア王太子は、睨むように窓外を見つめながら低く呻いた。


「……どういうことだ。なぜ、我々が舞踏会にすら出られなかった……?」


 アンネローゼは苛立ちを隠そうともせず、ドレスの裾を握りしめた。


「私のドレス、王妃に準じた装飾で特注したのよ。宝飾師を三人も呼んで……それが一度も袖を通さずに帰国ですって? 冗談じゃないわ!」


 エルヴァン公爵は座席の端で顔を伏せていたが、ついに耐えきれず唸るように言った。


「本来なら、あの会談の場こそが、我が家の影響力を知らしめる舞台だったのに……。領地の拡大も確約されていたのだ。それが……!」


アリステアは唇を噛んだまま、天井を睨む。


「あの女さえ、いなければ……」


「レイナさえ……レイナさえいなければ……」


 アンネローゼが苛立ったようにドレスの裾を握りしめる。


「そうよ、全部あの女のせいよ。あの夜、王宮を追い出してやったのに……何を今さら、あんな場所で主役気取りしてるのよ!あの王子に擦り寄ったに決まってる。色仕掛けか、被害者ぶって取り入ったんだわ。最低な女……!」


「しかもあの態度……どれだけ我々を馬鹿にしたと思っている!」


 アリステアは拳を握りしめ、震える声で叫ぶ。


「あいつがいなければ、すべてうまくいっていたんだ! 交渉も、条約も、俺の立場も!」


「……まさか、あの女が王子と婚約してるなんて……まるで私たちを出し抜いたみたいに……!」


 アンネローゼは爪を噛みながら吐き捨てる。


「恩知らずにもほどがある……あれほど面倒を見てやったのに!」


 エルヴァン公爵の顔が歪む。自らの手で切り捨てたことなど忘れたような物言いだった。


 けれど三人とも、結局のところ口にする言葉は同じだった。


「あの女さえいなければ」


 失敗の責任を自分の中に探す者は誰ひとりとしていなかった。

 三人は互いに目も合わせず、けれど口々に、憎悪の矛先をただ一人に集中させていた。


 “レイナ”――その名に集まる怒りと悔しさと、己の愚かさから目を背ける声だけが、冷たい馬車の中にいつまでも反響していた。


 ◇


 王都に戻った使節団を迎えたのは、祝福でも労いでもなかった。

 重く沈んだ空気の中、玉座の間には王と重臣たちが並び、白銀の王座に座する国王は一切の歓待を拒んでいた。目は冷たく細められ、声は乾いた氷のようだった。


「報告は受けた。……まずはお前からだ、アリステア」


 名を呼ばれた王太子は、反射的に背筋を伸ばしたが、その姿にはすでに威厳の欠片もなかった。旅装のまま、埃をかぶった裾、乱れた髪。自らが“王子”であるという誇りすら、とうにどこかに落としてきたような有様だった。


「リュクスの王子とその婚約者に、会議の場で完膚なきまでに叩きのめされたと聞いた」


王の声には、怒りよりも底の見えない冷笑だけが滲んでいた。


「言葉も理解できず、通訳も用意できず、資料にも目を通さず、外交の席で沈黙するばかり。貴様のような者に、王太子の資格などあると思っているのか?」


 アリステアは、こわばった唇を動かし、搾り出すように呟いた。


「……あれは……レイナが……すべて、あの女が……」


 その瞬間、王の表情がわずかに歪んだ。


「黙れ」


 その一言は、王子ではなく“無能な男”への宣告だった。


「未練がましい。女一人に屈した男が、王位を継ぐ資格などない」


 その言葉とともに、王は片手をあげ、静かに宣言する。


「この場をもって、アリステア・ド・グランディア。貴様の王太子としての資格を、正式に剥奪する」


 アリステアの顔から血の気が引き、崩れるように手をついた。


「っ……父上……お願いです、私は……私はまだ……!」


「城の北塔に幽閉せよ。外部との接触は一切禁じる。二度と王宮の敷居をまたがせるな」


 近づく衛兵の足音に、アリステアは反射的に身をよじった。だがそれは威厳ある王子の姿ではなかった。まるで罪状を突きつけられた罪人のように、みっともなく床を這い、涙混じりに叫ぶ。


「レイナァァッ! 貴様が、すべてを壊したんだあああ!」


 その声は、虚しく天井へ吸い込まれていき、誰の耳にも届かなかった。


「次は……侍女上がりの貴様か」


 玉座からの言葉に、アンネローゼはぎこちなく頭を下げた。だが、その姿には王妃候補としての気品も威厳もない。着崩れたドレス、焦りで揺れる視線、指先は微かに震えていた。


 王は一度も彼女を正面から見ようとしなかった。まるで目を合わせる価値すらないとでも言うように。


「王太子に取り入り、妃の座を夢見たというのなら……その夢は、ここで終わりだ。城に戻ってくる資格も理由も、もはや存在しない」


「陛下……どうか、お耳をお貸しください。私はただ、アリステア殿下に尽くしただけで……レイナが、あいつが私を陥れようと……!」


 震える声で縋ろうとするアンネローゼ。だが、王の顔色は微動だにしなかった。


「“舞踏会に出られなかった”と不満を述べたと聞く。まるで遊興のために使節団に同行したとでも言いたげな、浅はかで稚拙な訴えだな」


 彼女の顔が引きつった。


「王族の伴侶となるには、自覚と節度、そして知恵が必要だ。貴様のような軽薄な娘に、これ以上この宮廷の空気を吸わせるわけにはいかぬ」


 王がわずかに指を振ると、衛兵が左右に立つ。アンネローゼの顔から血の気が引いた。


「……待ってください、私は……! 私には、まだ……!」


「これより王政に連なるいかなる職責からも、貴様を永久に排除する。王宮への出入りを、今後一切禁ずるものとする」


 冷たく下された宣告に、アンネローゼの膝がわずかに崩れた。


「……いやよ……私は間違っていない……。全部、レイナが……全部、あいつが悪いのよ……!」


 だが、誰ひとり彼女の言葉に返す者はいなかった。

 誰の目も、彼女に向けられてはいなかった。


 まるで最初から、そこにいなかったかのように――。


「……最後に」


 王は、沈黙していたエルヴァン公爵に、ゆっくりと視線を向けた。


「貴様は、王国最高位の公爵として長らく国政に関わり、外交の重責も担ってきたはずだ。その立場にありながら、今回の使節団を率い、何を持ち帰ってきた?」


 その言葉は、低く静かだったが、その場に張り詰めた緊張を一層深めた。


「……面目次第もございません……」


 伏し目がちに絞り出された声には、かつて王宮を威圧していた気迫も、貴族らしい矜持も残っていなかった。ただひとりの“敗者”としての無力さだけが滲んでいた。


 王の声が、冷たく落ちる。


 「許す気などない。貴様の罪は、国益を損ねたこと以上に、自らの器量を見誤りながら、王政の中枢に居座っていた傲慢そのものだ」


 「陛下……せめて、我が家の名だけは……」


 「爵位は剥奪。領地の管理も王家に移譲させる。余は、貴様をもはや“臣下”とは認めぬ」


 その宣告を受け、エルヴァン公爵はついに地面に手をつき、肩を震わせた。その震えは、敗北の悔しさではなく、

 ――自分が何を失ったのか、最後まで真に理解できなかった者の末路だった。


 ◇


 ――王太子アリステアの末路

 

 リュクスとの外交交渉の決裂、優遇関税の撤廃、そして友好条約の白紙化――

 それらは国の経済に致命的な打撃を与え、政界と市民の間に激しい動揺をもたらし、グランディア王国には重たい空気が垂れ込めた。


 《王太子アリステア、リュクス外交に失敗――損失数百万金貨超》

 《通訳不在、帝国語も話せず――外交無能の実態》


 新聞各紙が見出しを連ね、王宮前には連日、民衆が詰めかけた。


 「王国を売ったのは、あの愚かな王子と、侍女上がりの愛人だ」

 「帝国語すら話せぬ男が、我が国の“顔”だったとは!」

 「廃嫡を! 国の恥を払え!」


 かつての「期待の若き王太子」は、いまや“国家の恥辱”と呼ばれる存在となった。

 国王は正式な布告をもって、アリステアの王太子位を剥奪し、すべての政治的権限を停止。

 王太子府は閉鎖され、護衛と執政官は解任。政務記録のすべては没収され、彼個人の財産にも凍結がかけられた。


 彼に残されたのは、王城の北端の塔――“北塔”と呼ばれる、古くから罪を犯した王族が幽閉されるためだけに使われてきた、冷えびえとした石造りの塔だった。

 一度そこに送られた者は、二度と王宮に戻ることはない。

 その生涯を、外界から隔絶されたまま、静かに終える場所。


 アリステア・ド・グランディアもまた、例外ではなかった。


 窓は小さく、重い扉には常に外から鍵がかけられ、外との接触は固く禁じられていた。

 召使いはたった一人。彼ですら、必要最低限の言葉しか口にしなかった。

 王宮では既に「アリステア」の名を口にする者はなく、すでに「存在しなかった者」として処理を始めていた。


 だが、アリステアはその静寂の中でも、変わることはなかった。

 いや――変わろうとすらしなかった。


 日々を重ねるごとに、彼の部屋は沈黙に沈んでいった。

 だがその沈黙の中、ただひとつだけ、確かに響いていたのは――レイナの名だった。


 「レイナ……あいつが……!」

 「なぜだ……どうして、あの女が……!」

 「全部、レイナのせいだ……私が、王になるはずだったのに……!」


 その声には悔恨はなかった。あるのはただ、恨みと執着、そして自壊していく妄執だけだった。

 吐き捨てるようなその言葉は、朝に、昼に、夜に、誰もいない部屋の空気に投げつけられ続けた。

 召使いは一人残されたままだったが、もはや主の狂気に怯え、距離を置くようになっていた。


 アリステアは鏡の中の自分を見つめることさえできなかった。

 かつては王子として磨かれていた姿も、今や髪も髭も伸び放題で乱れ、衣服は皺だらけになり、肌は乾き、白く粉を吹き、指先には皺と垢が溜まっていた。

 歩き方は覚束なく、背筋は猫背気味に曲がり、目の焦点はどこか虚ろだった。


 それでも彼の思考は、すべてレイナへの憎悪に塗りつぶされていた。


 「俺のものだったくせに……俺を裏切って……っ」


 そう呟きながら、彼は今もなお“王太子”という幻影にしがみついていた。過去の栄光と彼がかつて踏みにじったはずの少女への執着だけが、彼の生きる理由だった。


 やがてアリステアは、王都の歴史から静かに姿を消す。もはや公の場にその名が語られることはなく、「かつて王太子だった男」として、忘却の闇に沈んでいった――


 ただひとつ、呪詛のように繰り返された「レイナ」の名だけを残して。


 ◇


 ――アンネローゼの末路


 アリステア王太子の失脚と共に、その傍らにいた“愛人”アンネローゼもまた、一夜にしてすべてを失った。


 かつては平民の出ながら、王太子の寵愛を受け、周囲の侍女たちを見下ろし、貴族婦人としての扱いを当然のように受けていた。自分こそが“選ばれた女”――そう信じて疑わなかった。


 だが、王宮からの追放が決まると、掌を返すように人々は彼女を遠ざけた。

 護衛も、侍女も、取り巻きの貴族たちも、蜘蛛の子を散らすように消えた。


 家族の元へ戻っても、そこに安息はなかった。

 実家の商家では、王の怒りを恐れた両親が彼女を表に出すことを拒み、屋敷の一室に鍵をかけて幽閉した。

 「出るな」「黙っていろ」「お前は恥だ」――父の声は冷たく、母は目を合わせようともしなかった。


 買い物も許されず、娯楽も剥奪され、窓すら開かない屋敷の一室。日が差さぬ寝室の鏡の前で、彼女が毎晩、囁くように呟いたのは――


「レイナさえ……いなければ……!」


 それは、ただひとつの呪いの言葉だった。


 アンネローゼにとって、レイナはすでに“敗北者”だった。かつて婚約を奪い、王太子妃の座を目前にしたあの夜。彼女は勝ったと思っていた。叩きのめしたはずだった。もう、二度と這い上がれないように踏みにじった――はずだった。確かに“終わった”と。


 だからこそ、理解できなかったのだ。


 どうして自分が、こうして地を這っている?

 どうしてあの女が、王子の隣に立っている?


 計算は合っていたはずなのに。

 駒は揃っていた。台詞も、涙のタイミングも、完璧だった。

 ……なのに、どうして?


 その問いを、彼女は鏡の中の“誰か”に投げかけ続けた。

 やつれ果て、化粧も忘れ、焦点の合わぬ目で自分自身を見つめながら、毎晩のように同じ問いを繰り返す。

 けれど、鏡は何ひとつ答えなかった。

 そこに映るのは、もう“侍女上がりの愛人”ですらない、ただの“無力な女”だった。

 だから今日も、彼女は呟くのだ。


「レイナさえ……いなければ……!」

「レイナは……わたしの“勝ち”を、盗んだのよ……!」


 やがて彼女は、まともに言葉を発さなくなった。

 使用人の前でうわ言のように名前をつぶやくようになり、筆を握っては震える手で、誰に出すわけでもない手紙を何通も綴るようになった。


 そのすべての宛名には――「レイナ」とあった。


 謝罪の言葉は一つもなかった。

 綴られていたのは、ただ繰り返される問いと恨み。


 涙の痕がにじんだ便箋が、積み上げられたまま捨てられることもなく、埃をかぶって残されていた。


 その最期を看取る者はなく、彼女がいつ消えたのかを正確に記録する者もいなかった。



 ――エルヴァン公爵家の末路


 かつては「王家の盾」とまで称され、外交において長年手腕を振るってきた名門、エルヴァン公爵家。

 だがその名声は、グランディア王国とリュクス王国の交渉決裂という外交的失態によって、一夜にして地に堕ちた。


 王家からの裁可は容赦なかった。公爵位は剥奪。

 領地は全て接収され、家財・資産は国庫に没収。

 王家から下された名目は「国益を損ねたことへの懲罰」だったが、それは“完全な断罪”であることを誰もが理解していた。


 追放された公爵、公爵夫人、そして嫡男の三人は、かつての彼らの領地の片隅に建てられた古びた監視付きの離れ屋敷へと、“保護”という名のもとに送り込まれた。


 屋敷はすでに荒れ果て、壁は湿気で染みだらけ、屋根は苔に覆われ、夜には隙間風が枕元を冷やす。

 使用人はおらず、薪の運搬も井戸水の汲み上げも、すべて自分たちの手で行わねばならなかった。


 誇り高く着飾っていた日々は遠い過去。

 母が着ていたドレスは色褪せ、ほつれた裾が引きずられていた。嫡男の着る貴族服も擦り切れ、胸の飾章だけがむなしく光を失っていた。


 それでも、彼らの口からは反省の言葉は出なかった。

 昼は慣れぬ農作業に追われ、夜は空腹と寒さに震えながら眠る――それが、没落した貴族に与えられた“日常”だった。


 その生活の中でも、三人の口からは――


「レイナ……あれは家のため仕方のないことだったのだ……」

「家のために尽くすべきなのに……どうして裏切った……!」

「なぜ助けにこない……育ててやった恩も忘れたのか……」


 という言葉ばかりが漏れた。


 懺悔も反省もない。

 あるのは“裏切られた”という被害者意識と、自分たちは正しかったという歪んだ信念だけ。


 自分たちが見下していた平民の労働に手を染めながらも、その手が汚れていくのは「娘のせいだ」と信じて疑わなかった。


 だが、レイナは何一つ返さなかった。

 赦すことも、咎めることも、訪れることすらしなかった。


 静かな無視――返答も咎めもない“徹底した断絶”が、彼らにとって最大の罰となった。


 「見捨てられた」のではない。

 「記憶から消された」のだと、ようやく気づいた頃には――

 かつての公爵家の誇り高い背中は、もはや誰にも見向きされぬ貧民と変わらぬものになっていた。


 ◇


 かつては王宮に君臨し、誰よりも強く、誰よりも正しいと信じて疑わなかった者たち。

 彼らは、自らの手で積み上げた傲慢と欺瞞の塔の上で、己の行いの報いを受けることになった。


 王太子アリステアは、奪った未来の重さを理解することなく、幽閉という名の闇の中で朽ちた。

 アンネローゼは、手にしたつもりの愛に溺れ、自らが信じた幻想に囚われたまま、心を壊した。

 そしてエルヴァン公爵家は、すべてを失ったあとでようやく、自分たちが娘にとって“ただの過去”になったと知った。


 彼らの名を呼ぶ者は、もういない。

 レイナは、何もしなかった。

 ただ、静かに前を向き、彼らの存在すら顧みなかった。

 赦さず、咎めず、見下しもせず――ただ“無関心”という冷たい断罪をもって、その全てに終止符を打った。


 ――それこそが、レイナが選んだ、最も静かで、最も残酷な“ざまぁ”だった。


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