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前編

 冬の空は重く、雪は舞わぬまま、ただ凍りついたように灰色に沈んでいた。

 グランディア王国の王城。その大広間は、きらびやかな金銀の装飾と光の海に包まれていた。

 星を模した白光石のシャンデリアが天井から降り注ぎ、絹のドレスが波のように揺れ、貴族たちの笑い声と楽器の音色が、夢のように響いていた。


 宮廷楽士が奏でる序曲に乗せて、王太子アリステアとレイナ・エルヴァン公爵令嬢は大広間に姿を現した。灯火に浮かび上がったふたりの姿に、会場の誰もが一瞬、目を奪われた。


「エルヴァン公爵令嬢……なんと、気品に満ちたお姿だ」


 会場の一角から、そんなつぶやきが聞こえた。


 その夜、レイナは誰よりも美しく、そして――誰にも媚びぬ気高さを纏って、そこに立っていた。


 艶やかな銀青のドレス。王家の象徴色に合わせて誂えたもので、胸元にはエルヴァン家の紋章を象った銀のブローチが輝く。

 髪は淡い金に近い栗色を優雅に結い上げ、母が特注した水晶の髪飾りがその中で静かに揺れていた。

 そして――長い睫毛の奥から覗くのは、透き通るような灰青色の瞳。

 氷のように静かで、どこまでも深いその色は、冷たい夜を超えてなお、誇りを失わぬ者の眼差しだった。


 レイナは王太子の隣に立ちながら、内心の緊張を悟られぬよう微笑みを浮かべていた。

 自分の姿が、今この瞬間、会場全体の視線を集めているのを肌で感じていた。

 会場の貴族たちが彼女を賞賛の眼差しで見つめ、軽くうなずき、ひそひそと祝福の声を交わしているのが耳に届く。

 十年という歳月をかけて磨いてきた礼節と品位、王太子妃にふさわしい振る舞いをすべてこの場に注ぎ込んで、彼女は堂々と立っていた。

 この夜こそが、自らの努力の結晶であり、未来を約束される“頂点”となるはずだった。


 宮廷楽士が奏でる優雅なワルツに乗せて、ふたりはゆっくりと舞踏を始めた。 

 一曲目の舞。レイナの足さばきも、指先の伸びも、十年かけて身体に叩き込んできた王太子妃教育の結晶。


「美しい……王となられる方と、そのお傍にふさわしいお方だ」


 そんな囁きが、会場の端々から微かに漏れる中、レイナは舞の流れに身を委ねながら、視線だけを静かに上げた。


 ――これでようやく、努力が報われる。

 そう信じていたのだ。

 その直後に、すべてが崩れ去るとも知らずに。


 彼女の動きは、まさに教本の理想を体現するものだった。目を見開いた令嬢たちが小さく息を呑み、隣の侯爵夫人が「まあ、なんて絵になるお二人……」と囁いた声が、静寂の中に溶けた。

 舞曲が締めくくられると、ふたりはまるで一幅の肖像画のように静かに向かい合ったまま、微動だにせず立っていた。

 その光景に、広間のあちこちから拍手が沸き起こる。


 ワルツの調べが静かに収束し、会場の空気が一度、柔らかく弛んだその瞬間だった。


「――本日、皆に重大な発表がある」


 高らかな声が響いた。

 王太子アリステア・ド・グランディア。その声に、場がぴたりと静まり返る。


「……アリステア様?」


 レイナは目線を上げた。

 彼は微笑んでもいなければ、優しげな表情でもなかった。ただ、無表情に、冷ややかに彼女の手をすっと振りほどいた。


 その仕草には、わずかなためらいもなかった。


 周囲からはまたざわつきが起きた。

 貴族たちの間で視線が交錯する。楽団の奏者すら、次の曲へ進む手を止めている。


 レイナの鼓動が、ずっと遠くで響いているように感じた。


「……何を、仰るの……?」


 乾いた声が、彼女の唇からこぼれた。


 アリステアはすっと一歩前へ出て、儀式の舞台のように広がる赤い絨毯の中央に立った。

 片手をゆるやかに上げ、すべての視線が集中したのを見計らって、はっきりと言い放つ。


「私はこの場を借りて、エルヴァン公爵令嬢レイナとの婚約を、ここに破棄する」


 その瞬間、大広間は時が止まったように静まり返った。


 貴婦人たちは口元に扇を当てたまま動かず、若い令嬢たちは視線を交わすことも忘れて固まっていた。令息たちは、その場の異様な気配に気圧され、息を潜めてその場を見つめていた。


 レイナの心臓が、何かに掴まれたようにぎゅっと締めつけられる。


「……そんな……冗談でしょう?」


 彼女の声は誰にも届かないほど小さかった。

 だが、アリステアは残酷な静寂の中に、さらに追い打ちをかけた。


「彼女は、私の信頼する侍女――アンネローゼ嬢を、嫉妬のあまり毒殺しようとした。証拠もある」


 その名が出た瞬間、空気が再び一変する。


 アンネローゼ・クラリモンド。

 王宮に仕える平民出身の侍女でありながら、その整った顔立ちと聡明さ、そして王太子の寵愛を受けているという噂で、貴族社会の話題をさらっていた女。


「アンネローゼ嬢って……あの……?」

「平民の……? でも王太子殿下のお気に入りとか……」


 会場の片隅で交わされる声が、レイナの耳に鋭く突き刺さった。


「わたくしが? そんなこと、するはずがありません!」


 レイナは声を張り上げた。

 

「これは罠です。誰かが私を陥れようとしている! 毒なんて、見たこともありません!」


 その必死の訴えをさえぎるように、ひとりの侍女がアリステアの背後から進み出る。まだ若く、俯き加減のその女は、どこかで見覚えのある顔だった。


「……王太子殿下のご命令により、エルヴァン公爵令嬢の部屋を捜索いたしました」


 会場の空気が息を呑む。


「引き出しの奥から、毒物らしき小瓶が見つかりました。侍女長が確認し、王室薬師にも提出済みです」


 嘘。そんなもの、あるはずがない。

 レイナの頭の中で、なにかがガラガラと崩れ落ちていく。


 ――誰が? いつ? 私の部屋に、そんなものを?


「でっち上げよ……そんなもの、私は……知らない……!」


 声はもはや、悲鳴に近かった。

 だが、貴族たちの顔に浮かぶのは、理解でも同情でもなかった。


 不快げに眉をひそめる者。

 冷笑を浮かべる者。

 遠巻きに距離を取る者。


 令嬢たちの間に、ざわりと風のようなざわめきが広がった。

 彩り豊かなドレスの陰で、若い貴族令嬢の一人が手扇を胸元に当て、青ざめた顔で隣の女友達に囁く。


「うそ……エルヴァン公爵令嬢が、毒なんて……」

「だって、あんな誇り高い方が……信じられない……」


 まるで何か異常なことが起きたかのように、人々は言葉を失い、周囲の空気が凍りついていた。

 信じる者もいれば、疑いの目で見つめる者もいた。

 だが、誰ひとりとして、はっきりとレイナの潔白を声に出してくれる者はいなかった。


 レイナの肩がわずかに震える。

 気丈に立とうとするも、全身から力が抜けていく。

 喉の奥がひどく渇き、言葉が――声が――出てこない。

 目の前の世界がぐにゃりと歪み始める。


 これが、夢であればどれほどよかったか――

 けれど、その場にいた誰もが、これは”現実”だと知っていた。


 すると、アリステアは再び口を開いた。


 その横には、侍女姿のアンネローゼが静かに歩み寄っていた。

 王宮付きの侍女がまとう深緑のドレスは、質素なはずなのに、彼女が着るとなぜか艶やかに映る。胸元で揺れる真珠の飾りは、控えめを装いつつも、しっかりと視線を誘う位置にあしらわれていた。

 はちみつ色の髪は緩やかに結い上げられ、潤んだ瞳は伏せがちに揺れていた。


 まるで“傷ついた清らかな侍女”を演じるように、彼女はそっと王太子の胸元に身を寄せた。

 絵画のように美しく、無垢さすら感じさせる光景――だが、その裏にある意図を見抜ける者は、まだ少なかった。


「レイナ、お前は――嫉妬に狂い、己を見失った哀れな娘だ。私はアンネローゼを、次の妃に迎える。今宵ここにて、皆の前で正式に発表しよう」


 アリステアは堂々と前を見据えたまま、冷たく言い放つ。


「彼女は平民の出だが、お前と違い、民に寄り添う優しさと気品を持っている。王妃となるにふさわしい女性だ」


 言葉の一つ一つが、ナイフのようにレイナの胸を切り裂いていく。

 視界がぐらりと傾いた。


 心臓が痛い。

 呼吸が、できない。


 まるで世界が、音も色も、すべてを失っていくようだった。騒がしさに満ちていたはずの舞踏会の大広間は、息を呑むような沈黙に包まれたまま。


 誰も言葉を発せず、誰も動かない。ただレイナだけが、その場に立ち尽くしていた。


 足元から崩れていきそうな感覚。冷たい床に膝をつきそうになる自分を、必死に支えていた。


 そのとき、視界の端に父と母、そして兄の姿が入った。自然と足がそちらを向きかけ――しかし、すぐにレイナは立ち止まった。

 彼らの顔にあったのは、助けようとする気配でも、心配でもなかった。

 そこにあったのは、怒りと軽蔑。


「なんてことを……恥を晒して……」

「まさか、こんな場で醜態をさらすとはね……」


 その声は、凍るように冷たかった。“被害者”であるはずの娘を責める、親とは思えないほど冷酷な言葉。


 エルヴァン公爵――レイナの父が、一歩前に出る。

 そして何のためらいもなく、娘の頬を平手で打った。


 乾いた音が、大広間に響いた。誰かが息を呑む気配があった。

 しかし、誰ひとりとして止めようとはしなかった。


「お前は、王家の信頼を裏切り、公爵家に泥を塗った。我が家の名に、取り返しのつかぬ汚点を刻んだのだ」


 それは、裁きの宣告だった。

 父の目にあるのは、怒りではなく、“処分”としての冷酷な光。


「お前との親子の縁は、ここで断つ。これより先、エルヴァンの名を語ることも許さぬ」


 足元から崩れ落ちていく何かを、レイナは確かに感じた。

 けれど、誰もその震えを受け止めなかった。


「今この瞬間より、我が家の敷居は二度とまたがせない」


 その言葉に、一片の迷いもなかった。


 母は何も言わなかった。ただ、静かにうなずき、まるで“当然の結果”とでも言いたげに目を逸らした。

 兄は一瞬だけ、冷たい目でレイナを見た。その瞳には哀れみも怒りもなく、ただ“見下すような無感情”が宿っていた。そして彼は、背を向けた。レイナの名を口にすることもなく、人ごみに紛れ、そのまま消えていった。


 レイナは気づけば、誰の輪にも属していなかった。


 あれほどまでに笑いと音楽に満ちていた広間の中で――

 その中心にいたはずの彼女だけが、すっぽりと抜き取られたように、ぽつりと取り残されていた。


 赤い絨毯の上、光に照らされながら、たった一人で立ち尽くしていた。


 舞踏会の空気は、何事もなかったかのように流れを戻し始めていた。

 少し離れた場所では、楽団が次の舞曲を奏でようとしており、令嬢たちはパートナーと談笑を再開していた。

 見なかったことにする者。

 目を合わせぬよう遠ざかる者。


 レイナの存在だけが、空間から抜け落ちたかのように、完全に“無かったもの”にされていく。


 まるで最初からそこにいなかったかのように。


 ――違う、私はここにいたのに。王太子妃として、選ばれたはずだったのに。


 レイナの喉が焼けるように熱い。

 だが、涙は出ない。

 ただ、胸の奥がごりごりと削れていくような痛みが、言葉も声もすべて呑み込んでいった。


 王太子妃教育を受け、毎日礼儀作法と宮廷政治を学び、王太子の隣に立つことだけを目指してきた。


 その十年。王家に尽くし、身も心も捧げてきた時間。

 家族の誇りとなるべく、感情すら抑えて努力し続けてきた日々。


 それらすべてが――

 一夜にして、誰にも惜しまれることなく、無言のうちに崩れ落ちた。


 言い訳も、弁明も、悔しさすらも口にできないまま。

 王太子妃の肩書きをまとった“余所者”として、ただ一人、この広間から放逐されていく。

 

 レイナの居場所は――もう、どこにもなかった。


 喉の奥には、もう声ひとつ残っていなかった。

 胸の内には、ひたひたと満ちていく暗い沈黙――どす黒い絶望と、ひどく冷えた空虚さが、静かに降り積もっていく。


 ――すべて、失ったのだ。


 ただ、何もない――それが何よりも恐ろしかった。


 だがその恐ろしさは、やがて静かに形を変えていく。

 空虚であることへの嫌悪。踏みつけられた記憶への疼き。

 このまま壊れて消えていくことへの――拒絶。


 胸の奥で、何かが静かに芽吹こうとしていた。

 それは叫ぶためでも、泣くためでもなく――

 ただ、「まだ終わりたくない」と願う、暗闇の底で灯る淡い火のようなもの。


 小さく、かすかでありながら、確かな“意志”だった。


 ◇


 舞踏会の陰で、ひとりの男が、沈黙の中に立っていた。


 リュクス王国第二王子、セドリック・ド・リュクス。


 この夜、彼は“文化交流使節団の一員”として招かれていた。王子という立場は伏せられていたが、その洗練された振る舞いと気配に、ただの貴族ではないと察する者は少なくなかった。


 背は高く、広い肩に黒の礼装が端然と映える。

 黄金色の髪は夜の灯りにやわらかくきらめき、整えられた前髪の奥から覗くのは、鋭さと静謐を併せ持つ金の瞳――まさにリュクス王家の象徴とも言える光を宿していた。


 彼は、舞踏会の華やぎの向こう側で、ただ一人、じっとすべてを見ていた。


 ――まるで処刑場だな。


 レイナ・エルヴァン。

 王太子妃候補として幼い頃から教育され、外交や礼節、宮廷のしきたりを熟知した公爵家の令嬢。


 セドリックは、彼女の存在を以前から知っていた。

 度々、王太子に代わって外交の場に姿を見せ、その端麗な容姿と理知的な振る舞いで、隣国でも知られる存在だった。


 無能とまではいかずとも、能力に難のある王太子アリステアに代わって、政務や式典の場を支えてきた――それが、レイナという女性だった。


 そんな彼女が、王太子の一言で断罪され、全てを失ったのだ。


 毒。嫉妬。平民出の侍女。

 仕組まれたように揃った証言と“証拠”。


 だが、セドリックの目に映ったのは、それらの筋書きではなかった。


 ――レイナの瞳。

 それが、何より印象に残った。


 侮辱され、裏切られ、家族にさえ見捨てられたというのに、彼女の瞳はまだ、砕けていなかった。

 震えながらも、冷たく、深く、何かを宿していた。

 その光が、理由もなく彼の心をざわつかせた。


「……愚かな芝居だ」


 舞踏会場を一度見渡す。だが誰も、何も、疑問を口にしなかった。まるで最初から、何事も起きていなかったかのように――。

 そしてふと、絹の衣擦れに混じって、貴婦人たちの小さな囁き声が耳に届く。


 ――「見た? お父上に平手打ちされたのよ、皆の前で!」

 ――「出て行く時、誰も声をかけなかったわ。まるで罪人みたい」

 ――「ほんの数分前まで、王太子妃になるはずだったのに……」


 それは哀れみではなく、好奇心と冷笑に彩られた声だった。

 彼女の努力も、誇りも、あっけなく踏みにじられたというのに――誰もがそれを“娯楽”のように消費している。

 セドリックはグラスを無言で置いた。その瞳には、もはや迷いはなかった。

 “静観”という選択肢は、完全に彼の中から消えていた。


 そして彼は、ひとつ深く息を吐き、静かに大広間を後にした。


 外に出ると、空気が鋭く肌を刺した。

 夜はすでに深く、天からはちらちらと小さな白が降りはじめている。

 セドリックは厩舎から馬を引き出すと、迷いなく王宮の裏門を抜けて、城壁近くの石造りの細道を進んだ。


 降り出したばかりの雪が、城下の石畳を静かに濡らしていく。


 もし今、彼女が放り出されたのなら、向かう先は限られている。

 衛兵たちの目を避け、きらびやかなドレスを狙う不届き者からも身を隠し――そしてなにより、暗くても雪のかからない場所。少しでも風をしのぎ、わずかな暖を取れる、“逃げ場”。


 そして、その読みは、迷いなく的中した。


 王宮の北にある小さな川沿いの石橋。普段は物資の運搬に使われる地味な橋だったが、川の両岸は深い陰を落とし、誰の目にも触れにくい。

 その橋の下、雪がまだ積もらず乾いた土の片隅に、舞踏会で誰よりも輝いていたはずの少女が、身を縮めていた。


 セドリックは馬を下り、音を立てぬよう慎重に歩み寄る。

 銀青のドレスは濡れて重たく垂れ、指先は紫に染まり、肩は絶え間なく震えていた。


 それでも――顔を上げた彼女の瞳には、まだ光があった。

 先ほどの舞踏会で見た、あの冷たい鋼のような意思。涙に濡れながらも、ひたむきに燃え残る“灯”が、確かにそこにあった。


「……君は、そんなところで朽ち果てる女じゃないだろう」


 低く、静かな声が、冷え切った空気の中に滲んだ。

 レイナの視線が、ゆっくりとセドリックの姿を捉えた。次の瞬間、その瞳にかすかな警戒の色が浮かぶ。


「……どなた……ですの……?」


 かすれた声が、唇から零れる。セドリックは彼女の目の高さまでしゃがみ込んだ。


「……ただの通りがかりではない。リュクス王国第二王子、セドリック・ド・リュクスだ」


 その名に、レイナの目が大きく見開かれる。


「セドリック殿下……? どうして……どうして王子ともあろうお方が、こんな場所に……?」


「君を見ていた。あの舞踏会で何が“起きたか”、そして何が“仕組まれたか”も、な」


 彼はマントを脱ぎ、冷えきった彼女の肩に静かにかけた。そして、ためらうことなく、凍えた手を取る。


「君は、ここで終わるべきじゃない。……レイナ・エルヴァン。いや、今は……ただのレイナかもしれないが、それでも――君は君だ。私と来るか?」


 レイナの瞳が、わずかに揺れた。


「……どうして……私なんかを……?」


 その声は、細く、震えていた。


 誰にも信じてもらえなかった。

 誰からも手を伸ばされなかった。

 王宮から追われ、家族にまで見捨てられた――そんな自分に、なぜ。


 セドリックは、その問いに正面から応える。


「君の瞳が、まだ負けていなかったからだ」


 その一言が、静かに、レイナの胸に落ちた。


 動けなかった。肩にかけられたマントの温もりさえ、現実味がない。

 けれど、凍えた手のひらにじんわりと伝わる体温だけが、確かに“ここにいる”ことを教えてくれていた。


 ――なぜ、この人はここにいるの?


 あの大広間で、自分を見下した者は数え切れない。笑った者、黙って背を向けた者、顔すら見ようとしなかった家族たち――


 それでもこの人だけは、目を逸らさなかった。

 王子でありながら、泥にまみれた場所に来て、手を差し伸べてくれた。


 信じたい。

 でも、信じてもいいのだろうか――


 胸に湧き上がる迷いと疑いが交錯する。言葉にならない葛藤が、喉の奥を塞いでいた。


 それでも。


 もう、戻る場所はどこにもなかった。

 名も家も失い、居場所すら許されなかった。


 だからせめて――この手だけは、離したくなかった。


 レイナは、小さく息を吸い込み、ためらいながらも、そっとその手を握り返す。


「……行きます。あなたと」


 声は弱く、震えていたが、確かにそこには意思が宿っていた。

 セドリックは、その手を逃がさぬように包み直す。優しく、しかし揺るぎない力で。


「誓おう。君がもう一度、自分の足で歩き出せるようになるまで――私は傍にいる」


 それは、雪の夜に交わされた、ふたりの最初の“約束”だった。


 逃げ場のない夜。

 絶望の底に、かすかに灯った火。

 それはまだ小さな光だったが、確かに未来へ繋がる始まりだった。


 やがてこの誓いは、ふたりの人生だけでなく、国の運命すら変えていく――


 だが今はただ、降りしきる雪の中で。

 世界が眠るその静寂の中で、確かに結ばれたひとつの言葉が、ふたりを繋ぎ始めていた。


 ◇


 リュクス王国は、グランディアの南に位置する豊かな国であった。


 穏やかな気候に恵まれ、魔法と科学技術の融合が進んだこの国では、古き慣習に縛られることなく、才能ある者が平等に活躍できる社会が築かれていた。貴族の名声よりも、人としての資質が尊ばれる――レイナにとって、まさに“異世界”のような場所だった。


 セドリック王子の手に引かれ、王都ユスティナにある、セドリックの離宮に迎えられたレイナは、しばしの療養と静養を与えられた。

 最初の数日は、食事を口に運ぶことすら億劫だった。夢を見てはうなされ、目が覚めれば涙が頬を伝う。

 あの舞踏会の夜。裏切りの瞬間。父の手の冷たさ――

 繰り返し胸をえぐるように蘇る記憶に、何度も心が折れそうになった。


 だが、そんな日々の中で――セドリックは、毎日のように顔を見せた。


「今日の花は、君の瞳とよく似ているな。凛として、美しい」

「レイナ、気にするな。今さら貴族の名がなくたって、君自身の価値は何も変わらない」

「生きてさえいれば、やり返すこともできる。君は“終わって”などいない」


 それは慰めではなかった。

 彼はレイナの痛みと絶望を理解し、その上で、それでも前を向いてほしいと願っていた。

 言葉ではなく、日々の姿勢で、彼はそう伝えていた。


 朝、声が聞こえないと落ち着かなかった。

 昼、庭園のベンチに座れば、自然と彼の足音を探していた。

 笑い声を聞けば、胸の奥に張りついていた冷たい膜が、ほんの少しだけ溶ける気がした。


 気づけば彼の存在が、沈んだ日々の中で唯一、心に明かりを灯すものになっていた。


 レイナは混乱した。

 愛など、信じられるはずがなかった。

 婚約者に裏切られ、家族に捨てられた心は、まだ深い傷を負ったままだ。

 それでも――彼がいてくれるという事実だけが、自分の世界を少しずつ変えていった。


「わたし……この人といると、呼吸ができる」


 そう気づいたとき、胸の奥に、知らぬ間に芽生えていた感情が、少しずつ輪郭を持ち始めた。


 それは恋というにはあまりにも静かで、

 けれど、誰よりも真っ直ぐな光を持って、彼女の心に灯っていた。


 やがて彼女は、少しずつ食事を取れるようになり、夜に眠れるようになった。庭園に出て、風に触れ、太陽の光を浴びる日も増えていった。


 数週間が過ぎたある朝。

 レイナは久しぶりに、鏡の前に自らの姿を映した。


 そこにいたのは、かつて王太子妃として着飾るだけの“人形”ではなかった。

 頬の色はまだ薄く、目元には疲労の影が残っていた。けれど、その瞳ははっきりと何かを見据えていた。


 ――私は、終わってなんかいない。


「……私は、私を取り戻す」


 そして、もうひとつ。彼の言葉に、手に、温かさに、私は何も返せていない。


 あの雪の夜に差し伸べられた手は、ただの好意ではなかった。傷に触れながら、それでも生きろと訴える、重い覚悟だった。


 ――ならば、今度は私が。


 この国で、彼の隣に立てる自分に変わっていくことで。その誠意に応える術を、自らの手で見つけ出すために。


 そう決めて、レイナはセドリックのもとを訪れた。


「お願いがあります。わたしに、この国の暮らしと政治の仕組みを教えてください。……できるなら、あなたのお役に立ちたいのです」


 セドリックは驚いたように一瞬まばたきをした。だがすぐに、唇の端に笑みを浮かべる。


「ようやく来たな、レイナ。――過去ではなく、これからの名を新たに刻む君へ、歓迎の言葉を贈ろう」


 それは、過去の名にすがらず、未来の名を共に紡ごうとする者だけが交わせる、静かな誓いのようだった。


 歴史、法律、外交、魔法理論、農業政策、そして国民の暮らし。

 かつて王太子妃となる者としての教養は一通り身につけていたが、それは“形式”に過ぎなかった。

 リュクス王国の教育は、実践に即していた。庶民の声を直接聞き、街を歩き、苦しんでいる者の現実を見る。彼女は、知識ではなく“生きた理解”を得ていった。


 そして、気づけば半年が過ぎていた。


 レイナの髪は丁寧に整えられ、動作の一つひとつに無駄がなく、背筋はまっすぐに伸びていた。服装は控えめながらも洗練されており、柔らかな色合いが彼女の静かな美しさを引き立てる。話しぶりにも角がなく、けれど芯の強さが滲むようで――その姿は、誰よりも静かに、凛としていた。


 侍女たちは彼女を「花のようなお方」と称え、街の民も「セドリック殿下の隣にふさわしい」と噂した。


 ふたりはすでに、日々をともに過ごし、政務の補佐や民の声を聴く中で、互いにとってかけがえのない存在となっていた。


 そんなある日、離宮――南庭の静かな一角で、セドリックは彼女の前にそっとひざをついた。


 庭木の影が揺れる午後の光が差し込む花の小径には、風の音しか聞こえない。

 その手には、小さな木箱があった。リュクス王家の紋章が刻まれた蓋を開けば、中には深い青の宝石、《夜明けの石》がひとつ、静かに光を宿していた。王族の婚約にのみ用いられる、由緒ある証だった。


「……レイナ。君がどんな名前を捨てようと、私は“君そのもの”を迎えたい。私の正妃として――未来を共に歩んでほしい」


 彼の瞳に宿る誠実な光は、何よりも確かな意志だった。

 レイナは一瞬だけ息を呑み、そっと目を閉じた。


 あの雪の夜に見捨てられた娘ではない。

 今ここにいるのは、自らの意志で選び、自らの足で立とうとする一人の女性だった。


「……はい。喜んで、お受けします」


 その返事は静かに、しかしはっきりと告げられた。

 ふたりの間に言葉は多くなかった。だが、その短い誓いの中には、痛みも、悔しさも、そして胸の奥に灯された微かな希望も、すべてが込められていた。


 今この時、確かに結ばれた“ふたりだけの約束”。

 それは、これから訪れる嵐を前にした、揺るがぬ支えだった。


 そして今、彼の隣に立つことが自然になった日々の中で、レイナはようやく笑顔を見せることができるようになっていた。

 微笑むことも、感謝を口にすることも、以前よりずっと自然にできる。


 ――けれど、それでもなお、胸の奥には消えない“何か”が残っていた。


 それは、あの夜の記憶だった。

 王太子に裏切られ、父に平手を受け、誰一人として手を差し伸べてくれなかった――あの、決して癒えぬ夜。


 穏やかな日々に包まれていても、

 幸せを手にした今でさえ、その痛みは完全に癒えることはなかった。


 心のどこかで――否、胸の奥の深い場所で、静かな怒りが、ずっと火種のように残っていた。


 かつて彼女を断罪した者たち。

 王太子アリステア。

 彼の傍らで勝ち誇ったアンネローゼ。

 そして、手を差し伸べるどころか、声一つかけず彼女を突き放した家族――父と母、そして兄。


 ――なぜ、私はあの夜、誰にも必要とされなかったのか。


 明確な復讐の意志ではなかった。けれど、あの夜の出来事は、確かに今の彼女を形作っていた。

 記憶の隅で燻るその怒りは、まだ小さな火種のまま、消えもせずに燻り続けていた。


 いずれ、風が吹けば炎を上げる――そんな予感が、彼女の中に確かにあった。


 そんなある日、セドリックが静かに告げた。


 「レイナ、来月――王国間会議の場が設けられる。グランディア王国の使節団が、正式にリュクスを訪れることになった」


 レイナの背筋が、無意識に強張る。故国の名が出ただけで、胸の奥に冷たいものが走るのを、まだ止められない。

 セドリックは、そんな彼女の沈黙を受け止めたうえで、ゆっくりと続けた。


 「その場に、君にも出てほしい。外交顧問として、私の補佐を務めてほしいんだ」


 一瞬、胸の奥がざわついた。

 驚き、そして――ほんのわずかに、怖れ。


 けれど同時に、彼が自分を“信じてくれた”という事実が、ゆっくりと沁み渡ってきた。


 「はい」


 レイナは、真っ直ぐに応えた。

 もう“過去の私”ではいられない。

 ただ傷つけられた娘ではなく、責任ある一人の人間として――

 いま、自分の言葉で、向き合う時が来たのだ。


 運命を、焼き尽くす風が吹くのを、レイナは確かに感じていた。

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