水嫁
古の時代、殷と周が興亡を争っていた頃。
黄河の支流、汚澄の辺に「楽邑」と呼ばれる小さな集落があった。そこは水運に恵まれ、人々は田を耕し、川と共に生きていた。
だが、ある年、川が濁り、魚が浮き、次第に人々が水に呑まれて死に始めた。水辺に近づいた者は、夜になると「誰か」に足を掴まれて溺れると噂され、村の者は水を忌み、祈りを捧げるようになった。
村の長である爺耆は、ある夜、村の古文書を開き、こう呟いた。
「やはり、水神が怒っておる……三百年前に交わされた“契”が破られたか……」
古文書にはこう記されていた。
『汚澄の主神は“允河女”なり。水にて与え、水にて奪うものなり。
契を忘れしとき、女は人を引きて川底の婚に臨む』
爺耆は集落の者を集め、語った。
「この村は、水神に娘を差し出す契りを交わしておったのだ。三百年に一度。だが、前の代ではそれが忘れられた。水神は、花嫁を求めておる」
若者たちは信じず、村は分裂した。
だがその夜、爺耆の孫娘・花蓮が忽然と姿を消した。
足跡は川岸で途切れていた。
水面には、白い婚衣のようなものが揺らめいていたという。
花蓮の婚約者であった若者・黎峯は、狂ったように川を探し回った。
やがて、古びた祠の奥で、水に濡れたまま眠る花蓮の姿を見つけた。
だが、彼女は人ではなかった。
目は虚ろに濁り、体はぬめりに包まれ、声は異様なほど澄んでいた。
「私……嫁いだの。水神様のもとへ。私だけじゃ、足りないの……」
その瞬間、祠の床が崩れ、黎峯は暗い地下水脈に落ちた。
流されながら見たのは、川底に立つ無数の“婚姻の間”。
水死体たちが正座し、口元を綻ばせながら並んでいた。
彼らは皆、花嫁の装いをしていた。
そして、その中央には、巨大な女の像──水神・允河女の姿があった。
眼は閉じられていたが、黎峯が近づくと、ゆっくりと開いた。
中から溢れる水は、記憶を洗い流すかのように彼の意識を攫った。
──
数日後。
花蓮が村に戻ってきた。
ただし彼女は、少しだけ変わっていた。
笑わぬ。眠らぬ。水に手を浸し続ける。
村人が問うと、彼女は言った。
「次の花嫁を選ばなくては。水は永遠に流れ続けるから」
その日から、毎年一人、村から若い娘が消えるようになった。
誰もが口を噤み、ただ祠の水鉢に白布を捧げるだけとなった。
汚澄の水は、再び澄んだ。
だが村には伝承として、こう語り継がれる。
水神の契は、忘れぬこと。忘れし時、水は人を呑む。
女は微笑み、水底で婚を続ける。