表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

水嫁

作者: あい太郎

古の時代、殷と周が興亡を争っていた頃。

黄河の支流、汚澄おちょうの辺に「楽邑らくゆう」と呼ばれる小さな集落があった。そこは水運に恵まれ、人々は田を耕し、川と共に生きていた。


だが、ある年、川が濁り、魚が浮き、次第に人々が水に呑まれて死に始めた。水辺に近づいた者は、夜になると「誰か」に足を掴まれて溺れると噂され、村の者は水を忌み、祈りを捧げるようになった。


村の長である爺耆やきは、ある夜、村の古文書を開き、こう呟いた。


「やはり、水神が怒っておる……三百年前に交わされた“契”が破られたか……」


古文書にはこう記されていた。


『汚澄の主神は“允河女いんかじょ”なり。水にて与え、水にて奪うものなり。

契を忘れしとき、女は人を引きて川底のよばいに臨む』


爺耆は集落の者を集め、語った。


「この村は、水神に娘を差し出す契りを交わしておったのだ。三百年に一度。だが、前の代ではそれが忘れられた。水神は、花嫁を求めておる」


若者たちは信じず、村は分裂した。

だがその夜、爺耆の孫娘・花蓮かれんが忽然と姿を消した。


足跡は川岸で途切れていた。

水面には、白い婚衣のようなものが揺らめいていたという。


花蓮の婚約者であった若者・黎峯れいほうは、狂ったように川を探し回った。

やがて、古びた祠の奥で、水に濡れたまま眠る花蓮の姿を見つけた。


だが、彼女は人ではなかった。

目は虚ろに濁り、体はぬめりに包まれ、声は異様なほど澄んでいた。


「私……嫁いだの。水神様のもとへ。私だけじゃ、足りないの……」


その瞬間、祠の床が崩れ、黎峯は暗い地下水脈に落ちた。

流されながら見たのは、川底に立つ無数の“婚姻の間”。

水死体たちが正座し、口元を綻ばせながら並んでいた。


彼らは皆、花嫁の装いをしていた。

そして、その中央には、巨大な女の像──水神・允河女の姿があった。


眼は閉じられていたが、黎峯が近づくと、ゆっくりと開いた。

中から溢れる水は、記憶を洗い流すかのように彼の意識を攫った。


──


数日後。

花蓮が村に戻ってきた。

ただし彼女は、少しだけ変わっていた。


笑わぬ。眠らぬ。水に手を浸し続ける。


村人が問うと、彼女は言った。


「次の花嫁を選ばなくては。水は永遠に流れ続けるから」


その日から、毎年一人、村から若い娘が消えるようになった。

誰もが口を噤み、ただ祠の水鉢に白布を捧げるだけとなった。


汚澄の水は、再び澄んだ。


だが村には伝承として、こう語り継がれる。


水神の契は、忘れぬこと。忘れし時、水は人を呑む。

女は微笑み、水底で婚を続ける。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ