9. 夜の逃避と母子の再会
ある日の夜、屋敷は深い静寂に包まれていた。テオは倉庫の隅で眠りに落ちていたが、突然肩を揺さぶられて目を覚ました。目の前に立っていたのはリリアーナだった。彼女は無言でテオの手を掴み、彼を強引に立ち上がらせた。そして、そのまま彼の手を引いて公爵家の屋敷を抜け出した。暗い廊下を抜け、裏口から外へ。冷たい夜風が2人の頬を撫でた。
テオは驚きに目を見開いたが、状況を理解するより先に口を開いた。
「頼む…!少しの間でいいから家に帰らせてくれ。必ず戻るから」
彼の声は切実で、赤い瞳に懇願の色が宿っていた。リリアーナは立ち止まり、テオをじっと見つめた。そして、静かに答えた。
「いいわ。ただ、一つ条件がある。私も連れて行って」
その言葉に、テオは不審げな目を向けた。彼女が何を企んでいるのか分からなかったが、母に会えるチャンスを逃すわけにはいかない。彼は迷った末にリリアーナの手を握り返し、夜の闇の中を走り出した。
2人は村の外れを目指して走った。テオの足取りは確かで、リリアーナは彼に引っ張られるようにしてついて行った。やがて小さな家が見えてきた。粗末な木造の小屋だったが、窓から漏れる灯りが温かく感じられた。テオは息を切らしながら扉を開け、家の中に飛び込んだ。
「母さん!」
彼の声が響き、奥から現れた女性が驚いた顔でテオを見た。やつれた顔に深い愛情が浮かび、母は涙を流しながらテオを抱き締めた。
「テオ…!無事だったのね…!」
母子はお互いを求め合うように抱き合い、涙を流しながら互いを心配し合った。母親はテオの髪を愛おしそうに撫で、優しい目で彼を見つめた。
リリアーナはその光景を家の外から見つめていた。彼女は一歩も中に入らず、ただ静かに立ち尽くしていた。母子の再会を目の当たりにした彼女の胸に、複雑な感情が渦巻いた。泣きたくなるような温かさと柔らかさ。そして、それとは裏腹に、自身の孤独と寂しさが一層深まり、心に鋭い痛みが走った。母の愛を知らないリリアーナにとって、テオと母の絆は眩しく、遠く、手の届かないものだった。しかし、彼女はその光景から目を逸らすことができなかった。
しばらくして、テオが名残惜しそうに母親と別れ、家から出てきた。彼はリリアーナに近づき、小さな声で言った。
「帰ろう」
そして彼女の手を引いた。リリアーナは黙ってその手を握り返し、かすれた声で答えた。
「……うん」
2人は再び夜の闇の中を歩き出し、公爵家の屋敷へと戻った。帰り道、リリアーナの心は重く、テオの母の優しい目が頭から離れなかった。彼女の手はテオの手を握ったまま震えていたが、テオはそれに気づかず、ただ前を向いて歩き続けた。屋敷に着く頃には、空が薄明るくなり始めていた。
リリアーナの心に、母子の愛が刻み込まれた夜だった。それは彼女を癒すものであり、同時に新たな傷を残すものであった。