10. 兄との衝突
それからというもの、リリアーナとテオは度々屋敷を抜け出し、テオの母のいる家へと向かうようになった。夜の闇に紛れ、リリアーナがテオの手を引いて屋敷の裏口を抜け、村の外れの家へ向かう道ではテオがリリアーナの手を引いて走った。テオは小さな家に入り、母と短い時間を過ごした。抱き合い、笑い合い、互いを気遣う母子の姿を、リリアーナは家の外からただ見つめた。その光景は彼女にとって酷く羨ましく、胸を締め付けるものだった。彼女は手を握りしめ、じっとその温もりを眺め続けた。
しかし、そんな日々が続くにつれ、リリアーナの行動が屋敷の中で噂となり始めた。使用人たちはしばしばリリアーナの不在に気づいていた。やがてその噂が彼女の兄たちーー長男のエドガーと次男のクラウスーーに届いた。リリアーナが自室に戻る途中、廊下で2人の兄に呼び止められた。
「お前、屋敷を抜け出しているらしいな」
エドガーの声は低く、刺々しかった。クラウスが軽蔑を込めて続けた。
「公爵家の恥晒しが。迷惑だけはかけるな。いっそ何もしないでくれよ」
2人の目は冷たく、リリアーナをまるで汚物のように見下していた。クラウスがさらに言葉を重ねた。
「どうしてお前なんかが生きていて…」
その先は言わなかったが、リリアーナには兄たちが何を言いたいのか痛いほど分かっていた。
「母上ではなくお前が死ねばよかったのに」
幼い頃から何度も浴びせられた言葉が、言わずともその視線に宿っていた。
ただ、テオが同行していることや、彼の母に会いに行っていることは知らないようだった。リリアーナは心の中でほっと息をついた。あの大切な時間が壊されたくなかった。母子の愛を遠くから眺めるあの時間が、彼女にとって唯一の安らぎだった。
彼女はいつものように兄たちに悪態をついた。
「お兄様たちが恥をかいたとて私には何の関係もないわ」
彼女は唇を歪め、挑発するように続けた。
「ねえお兄様たち、貴方たちがどれだけ私を蔑もうと、私と貴方たちは血が繋がった最も近しい人間だってこと、忘れないで?」
そして、最後に一線を越えた言葉を吐いた。
「ああそれと、妹には優しくね?貴方たちの愛する天国の母上がきっと泣いているわ」
その瞬間、兄たちの逆鱗に触れた。エドガーの手が素早く動き、リリアーナの頬に鋭い音と共に平手打ちが響いた。彼女は頬を押さえ、よろめきながらも顔を上げた。そして、狂喜的な笑みを浮かべた。
「やっと私のことを見てくれたわね?」
その声は異常に明るく、瞳には奇妙な光が宿っていた。エドガーとクラウスはそんなリリアーナの様子に耐えきれず、顔を歪めてその場を去った。残されたリリアーナはしばらくその場に立ち、甲高い笑い声を上げ続けた。だが、その笑いにはどこか寂しさが混じり、屋敷の廊下に虚しく響いた。
その一連のやり取りを、テオは物陰に隠れて見ていた。彼はリリアーナを探して彼女の部屋に近づいた時、偶然この場面に居合わせたのだ。注意というにはあまりにも刺々しい兄たちの言葉を受ける彼女の姿や、楽しそうに、そして苦しそうに兄たちを挑発する彼女の姿、その後の狂ったような、泣いているような笑い声に、彼の胸が締め付けられた。彼女の歪んだ強がりと、その裏に隠れた孤独が、テオの目に映っていた。しかし、彼は何も言わず、ただ静かにその場を離れた。
リリアーナの笑い声が止んだ後、彼女は頬を押さえたまま立ち尽くしていた。兄たちの言葉と平手打ちが、彼女の心に新たな傷を刻んだ。しかし、それでも彼女はテオと母親の時間を守りたいと願った。その夜、彼女はまたテオの手を引いて屋敷を抜け出すのだろう。そして、遠くから母子の愛を見つめるのだろう。彼女の心は、愛と憎しみ、孤独と羨望の間で揺れ続けていた。




