“ゴールドラッシュでつるはしが売れる”のなら、“婚約破棄ブームではハンカチが売れる”んじゃないかしら!
子爵家の令嬢メルラ・フェールは非常に商魂たくましい令嬢であった。
フェール家は源流が商人だったこともあり、『金を稼ぐことは悪いことではない。ビジネスチャンスを逃すな』という家訓があった。そのため、様々な事業に着手してきた歴史があり、子爵家でありながらその財力は侮れない。
メルラも父や兄からそういった教育を受け、ビジネスチャンスを逃さない娘になるのは当然のことであった。
16歳となったメルラは、社交の一環として数多くの夜会に参加していた。
温かみのある栗色が波打つセミロングの髪を持ち、クリームイエローのドレスで着飾り、常に明るく向日葵のような笑顔を見せる彼女は、こうした社交の場でも目を引く存在である。
ところが、ある令息との会話の最中――
「あ、腕のところ、ほつれてますね」
「本当だ! 参ったな、みっともない……」
「よかったら直しましょうか?」
「いいのかい? 頼むよ!」
メルラは裁縫セットを携帯しており、袖のほつれをすぐに直してしまう。
そして、満面の笑みで右手を差し出す。
「じゃあ、10リルください」
「え、お金取るの!?」
「それはもちろんです! その代わり、そのほつれの直しが不十分だったら、『メルラの裁縫の腕はイマイチだ』と言いふらしてかまいません。そのぐらいのリスクは負います!」
「な、なるほど……」
がめついというべきか、律儀というべきか。メルラはきっちり主張する。
相手もそのあたりには感心するのだが、これではメルラにときめいてしまう、とはなかなかならないというのが人情である。
コインを受け取り、この令息とは程々に会話をした後別れ、メルラは一仕事したわとチーズケーキを頬張るのだった。
……
領内の町で、露店のジュース屋にアドバイスすることもあった。
「どうかな? ウチのジュースは……」
メルラはジュースを一口飲む。
「うーん、甘すぎる!」
「え、そんなに甘いかい?」
「ええ。きっと砂糖を入れすぎね。ジュースってのは甘ければいいってもんじゃないの。程よい甘味こそが、脳に喜びを与え、体に活力を溢れさせてくれるのよ!」
「な、なるほど……」
「あと、ジュースは色んなサイズで売った方がいいわね。そうすれば、少しだけ飲みたいって人のニーズにも応えられるし……」
様々な忠告をし、店主に告げる。
「それじゃ、一ヶ月後にまた来るから。売り上げが伸びてたら、アドバイス料を頂くわよ」
「ああ、どうもありがとう!」
メルラは砂糖の量を程々にしたジュースを飲み、「これなら売れる」とうなずいた。
……
「安いよ、安いよー!」
街中にメルラの快活な声が響き渡る。
「今日の売り物はこのリンゴ! どうです、この真っ赤な皮! まるで恋をしてる時の私みたい!」
周囲から笑いが沸く。
「こんなリンゴを一皮むいてやればあら不思議! あま~い実が出てくるよ! これは食べない手はないねえ、皆さん!」
メルラは果物の叩き売りも行う。
農家から果物を仕入れ、それを売りさばくのである。
この叩き売りにはファンも多く、市民たちはこぞって買っていく。
「一つおくれ!」
「あたしも!」
「じゃあ、買おうかな」
「毎度あり~!」
メルラは笑顔を見せる。
メルラの父はそんな彼女を見て、「ちょっと家訓の解釈を間違えてる気もするが……まあいいか」と温かい目で見守るのだった。
***
メルラには楽しみがあった。
それは週に一度、伯爵家の令息アリウス・グリオッシュとティータイムを楽しむこと。
フェール家とグリオッシュ家は領地が隣り合っていることもあり、親交が厚く、メルラも幼い頃にアリウスと知り合い、仲良くなっていった。
今日はグリオッシュ家邸宅のテラスにて、二人は紅茶を嗜んでいた。
「――というわけで、叩き売りでたくさん果物が売れて! 楽しかったです~!」
ジェスチャーを交え意気揚々と話すメルラに、話し相手のアリウスも微笑む。
アリウスはメルラより一つ年上の17歳。
日に照った新雪を思わせる美しい銀髪で、湖のような青い瞳を持つ。愛用の黒い紳士服がそのクールな雰囲気を鮮やかに引き立てる。そして彼自身、その見た目に違わぬ物静かで落ち着いた性格の持ち主である。
「叩き売りか……。僕も一度やってみたいな、と思ってるんだよね」
「アリウス様が!? あ、でもアリウス様がやってくれたら、女性客がいっぱい集まるかも!」
「そうなったら嬉しいけどね」
よく喋り快活なメルラと常に冷静沈着なアリウス。
まるで太陽と月のような対照的な二人であるが、不思議と相性はよく、いつまでも話し続けることができた。
その最中、テラスに蜂が飛んできた。
「きゃっ!」驚くメルラ。
アリウスは自分が囮になるように腕を動かし、蜂を上手く近くにあった花壇に誘導し、事なきを得た。
だが、ティーカップを持ったままだったので、紅茶が白いシャツについてしまった。
「しまった。染みにならなきゃいいけど……」
すると、メルラが――
「私にお任せを!」
懐からハンカチと、薬液の入った小さなボトルを取り出す。
薬液をシャツにつけ、ハンカチを当てると、紅茶の赤みがすっかり消えてしまった。
「ありがとう、メルラ」
「どういたしまして!」
礼を言うアリウスに、メルラもにっこり笑って返す。
「ああ、そうだ。染みを抜いてくれたお礼をしないとね。代金はいかほど?」
メルラのことをよく知っているアリウスは代金を払おうとするが、メルラは拒否するように右手を出した。
「いりません。今助けてもらったのは私ですし、それにアリウス様からお金は受け取れませんよ!」
アリウスはこの返事にきょとんとする。
「どうして?」
「だってアリウス様は私にとって……特別な人ですから!」
「……ありがとう」
アリウスは顔をほころばせる。
そして、「“特別な人”というのはどういう意味で?」と聞きたかったが――それを聞くことはできなかった。
***
時を同じくして、この王国の社交界において妙なブームが起きつつあった。
そのブームに名前を付けるとするなら、“婚約破棄ブーム”。
他国のとある貴公子が貴族令嬢との婚約を破棄し、その後王女と結ばれるという出来事があった。
この件そのものは極めて高度な政治的調整が背景にあるとされ、貴公子はもちろん、婚約破棄を受けた令嬢サイドにも相応のメリットがある、まさに“政略”といえる婚約破棄劇であった。
だが、噂というものはえてして歪んで伝わるものである。
『婚約破棄をした貴族男子が、よりよい相手に巡り合う』というセンセーショナルな部分だけ、やたらと広まることになってしまう。
それはこの国にも広まり、すでに婚約を交わしていた貴族令息が、一方的に婚約を破棄し、より条件のいい令嬢を求めるという事例が急増してしまう。
むろん、貴族同士の婚姻は家同士の契約であり、むやみな婚約破棄など許されるものではない。
だが、この王国では女子は男子に付き従うべきという価値観が根強く残っており、令嬢サイドから抗議をすることは「はしたない」「みっともない」とされ、それこそ次の結婚相手が見つからないような事態にもなりえた。
結果、泣き寝入りする令嬢が多く、それがますますブームを加速させていった。
メルラとアリウスのティータイムでも、このブームのことは当然話題になる。
フェール家の一室で、アリウスが紅茶を飲みながらつぶやく。
「まったく嘆かわしいよ。婚約破棄がブームになってしまうなんて」
一方のメルラは――
「だけど、これはビジネスチャンスだとも思うんです!」
「え?」
アリウスが顔を覗くと、メルラの顔つきは商売人のものになっていた。
「昔、父からこんな話を聞いたことがあるんです。ある国で金鉱が発掘され、そこにみんなが群がる“ゴールドラッシュ”という出来事が起こったんです。ですが、そこで最も儲けたのは金の採掘者ではなく、つるはしを売った人だった……」
アリウスはうなずく。
「うん、聞いたことはあるね。でも、それが今の婚約破棄ブームとなんの関係が?」
「婚約破棄をされた人は悲しくて、泣きますよね」
「きっとそうだろうね」
「そこにハンカチを売り込むんです! 涙をよく吸ってくれるハンカチを!」
「……!」
あまりのアイディアに、アリウスはカップを持ったまま固まってしまう。
「水をよく吸い込む材質の布でハンカチを作って、婚約破棄されて泣いている女の子に売る! これで私は大儲けできるはずです! いかがですか、このアイディア?」
「え、あ……悪くはないんじゃないかな? うん」
アリウスは苦笑いしつつ答える。
「よーし、私はやりますよ! アリウス様、婚約破棄をしそうなご令息がいたら、よかったら教えて頂けますか?」
伯爵家の長男であるアリウスはメルラ以上に社交界に明るく、すぐに幾人かの名前を挙げた。
さらに、彼らが“婚約破棄しそうな舞台”も予測してみせる。
「今度、王都のホテルで開かれる夜会で、婚約破棄があると僕は睨んでる」
「ありがとうございます! 私、そこへ行って、ハンカチを売ってみせます!」
新たな商売に燃えるメルラに、アリウスは「頑張って」と声をかけるしかなかった。
***
「……お前との婚約を破棄する!」
アリウスの予測は的中した。
ある貴族令息が、令嬢に向かって婚約破棄を宣言。
令嬢は逃げるように立ち去っていった。
なにしろ今は婚約破棄ブームの真っ最中。宣言した令息は得意満面。周囲の夜会出席者からも感嘆の声が上がる。
「あいつ、とうとうやったなぁ」
「男子たる者、一度ぐらい婚約破棄しないとな」
「一人の女性をずっと好きでいる時代は終わったのさ」
メルラはもちろんこの夜会に参加していた。
婚約破棄を見届けると、さっそく立ち去った令嬢を追いかける。
ところが――
「うっ、ううっ……うっ……!」
通路の目立たない一角で令嬢は泣いていた。メルラの期待通りの展開である。
だが――これを見て、メルラの胸も痛む。
右手には、涙をよく吸うハンカチを持っているが――
(彼女にハンカチを売りつける……? そんなこと、私には……)
メルラはうつむき、首を左右に振る。
(できない!)
そのまま泣いている令嬢に話しかける。
「あ、あのっ!」
「……何か?」泣いていた令嬢が振り向く。
「このハンカチ、使って下さい」
令嬢はわずかに笑んで、ハンカチを受け取る。
「……ありがとう。自分のハンカチもあったけど、もうすっかり濡れてしまって」
流した涙の量を想像できてしまう言葉だった。
メルラの胸がまたもズキリとする。
令嬢が涙を拭くと、メルラのハンカチは驚くほど早く涙を吸い、そして乾いていく。
「まあ、すごい。こんな上質なハンカチがあるなんて。よろしかったら欲しいのですけど、おいくら? 言い値で買います」
はからずも相手から「このハンカチを売って欲しい」と言ってきた。しかも言い値で。
フェール家の家訓は『金を稼ぐことは悪いことではない。ビジネスチャンスを逃すな』である。
商売人からすれば、“吹っ掛けるべき”局面であるが――
「いえ、それ差し上げます!」
「よろしいの?」
「はいっ! それと……あまり落ち込まないで下さいね。必ずいいことがありますから! 絶対に!」
メルラの精一杯の励ましに令嬢はフッと微笑む。
「ありがとう」
メルラも笑顔を返すと、そのまま来た道を戻った。その顔からはすでに笑みは消えている。
そして――このやり切れない思いを自分の中で処理することができず、たまらずアリウスと連絡を取った。
***
次の日の午後には、メルラはあるカフェでアリウスと会っていた。
そして、アリウスに一部始終を打ち明ける。
「ハンカチを売ることはできませんでした……」
「そうか……」
メルラは続ける。
「私、婚約破棄の現場を見るのは実は初めてだったんです。話で聞く分には、ただ結婚を誓った二人の男女が別れてしまう、というイメージだったんですが、実際にはそうではありませんでした」
「どう違った?」
「なんていうか、破棄された側はまるで自分の全てを否定されてしまうようなんだな、と感じました。あれは単なる別れの場ではなく、相手の存在そのものを侮辱する行為です。だから婚約破棄されてしまった彼女が可哀想で、ハンカチを売れなくなってしまったんです」
アリウスは黙ってうなずく。
そうすることで、メルラの考えがまとまるのを待っているようにも見える。
「アリウス様、私、この婚約破棄ブームを何とかできないかなって思うんです。このままじゃ、泣かされる女の子はどんどん増え続けるし、“婚約破棄をすれば一人前”のような風潮は、男性にとってもよくないと思うんです」
アリウスは神妙な顔つきになる。
「その通りだ。このブームを放っておけば、社交界のモラルはどんどん崩れていくだろう。それは民の模範である貴族という肩書きの崩壊を意味し、すなわち国家の危機にも直結する」
「そうですよね!」
アリウスから賛同を得ることができ、メルラの表情が明るくなる。
「だけど、一筋縄ではいかないよ。今の婚約破棄ブームの根底にあるのは“令嬢はおしとやかであるべき”“男子に付き従うべき”という価値観だ。これを打破しない限り、このブームを終わらせることはできない」
「……ですよね」
立ちはだかるのは、この王国の歴史といってもいい古く強固な価値観。
とてつもなく高い壁に、メルラも落ち込む。
「だけど、そんな価値観を破壊できるかもしれない策を、僕は一つ思いついた」
「えっ!?」
「密かに考えてたんだけどね。この作戦には君が不可欠だから、もし君に婚約破棄ブームを終わらせたい気持ちがあるなら、話そうと思ってたんだ」
メルラは乗り気になる。
「教えて下さい! ぜひ!」
テーブルに身を乗り出し、間近まで顔を近づけてきたメルラにやや上気しつつ、アリウスは答える。
「遠い南の果ての氷の大陸には“ペンギン”という飛べない鳥が住んでいるらしいんだけど、このペンギンは群れで行動するんだ」
「へえ~」
急に話題が変わったが、初めて聞く鳥の名にメルラは興味を示す。
「彼らが餌となる魚を取るためには海に飛び込まなきゃならない。だけど海には彼らの天敵も多く、みんななかなか飛び込めない。そんな中、ある一羽が最初に海に飛び込む。すると、不思議なことに他の仲間も次々海に飛び込むんだって」
「最初の一羽は、すごい勇気の持ち主ですね」メルラは感心する。
「その最初の一羽に、君がなればいい」
「私が……?」
きょとんとするメルラに、アリウスはうなずく。
「そうすれば、婚約破棄ブームを一気に終わらせることができるかもしれない」
アリウスの力強い言葉に、メルラも力強い眼差しを返す。
「やります! そして、気持ちよくハンカチを売ることができる世の中にしてみせます!」
あくまで商売を絡めてくるメルラに、アリウスはにっこり微笑む。
「それでこそメルラ・フェールだ」
***
およそ二週間後、アリウスは王都の式典場を貸し切り、大々的にパーティーを開いた。
グリオッシュ家は伯爵家の中においても特に名門とされ、その後継ぎに顔を売っておきたいと考える貴族は多い。
大勢の貴族令息、令嬢が集まり、用意された酒や食事を楽しむ。
場の盛り上がりも最高潮に達しつつある頃、アリウスが皆に話しかける。
「皆さん、今日は楽しい催しを一つ用意しました!」
周囲の若者たちはざわつく。
「私の婚約者をこちらへ」
グリオッシュ家の執事が、メルラを連れてくる。
「アリウス様、婚約してたのか……」
「確か、あの子はフェール家の……」
「へぇ~、知らなかった!」
会場中の注目が自分たちに集まるのを確認すると、アリウスはメルラに言い放った。
「メルラ・フェール、君との婚約を破棄する!」
なにしろ婚約破棄ブームの只中である。場が盛り上がる。
ついにアリウスも婚約破棄をやったか、という雰囲気が周囲を支配する。
ところが、ここから皆が予期せぬ事態が起こる。
「婚約を破棄されるのですか。でしたら、私は徹底的にアリウス様と戦います」
「なに?」
メルラの一言に、アリウスの顔が引きつる。
「私は決して泣き寝入りなどしません。婚約とは貴族同士の契約、しかるべきところに訴えれば、その賠償金額は1000万リル……いえそんなものでは済まないでしょうね。グリオッシュ家でも払うのに二の足を踏むくらいの額になるんじゃないかしら」
婚約破棄へのまさかの反撃。
メルラは毅然とした態度でアリウスを追い詰めていく。
その迫力に周囲の誰も口を出せない。
パーティーにはメルラを知っている者もいたが、彼女の意外な一面を見た心持ちだった。
「さらにどうせ婚約がなくなるのですから、婚約してた最中のあなたとの日々は、全て新聞社にでもぶちまけてしまおうかしら」
「な、なんだと……!?」
「あんなことやこんなこともされましたっけねえ。全て暴露されたら、アリウス様は果たして社交界に居場所が残るのでしょうか……」
メルラは首を傾げ、冷笑を浮かべる。
自分の醜聞を暴露されてはたまらないと、アリウスからますます血の気が引いていく。
「や、やめろ……やめてくれ!」
「やめません。フェール家が商人の家系であることはご存じでしょう? 我が家の家訓は『金を稼ぐことは悪いことではない。ビジネスチャンスを逃すな』です。このビジネスチャンスで徹底的にあなたから絞り取ってみせましょう。覚悟なさって下さいましね」
「ぐ、ぐうう……っ!」
メルラの前に、アリウスは情けなく跪いた。
衝撃的な光景だった。
そして、メルラは会場にいる全員に呼びかける。
「皆さん、婚約破棄なんて所詮この程度のものです! 私たち貴族令嬢が勇気を出せば、こんなにも簡単に突き崩すことができる! この中にはすでに破棄をされてしまった方もいると思いますが、そんな方も決して泣き寝入りはしないで! 契約の不履行という観点から、賠償金や慰謝料を請求することは十分可能です! 受けた屈辱を抱えたままにするようなことはしないで!」
さらに続ける。
「貴族男子の皆さん、今の婚約破棄ブームが行きつく先はこういうものです! 女性は悲しみ、男性も大きなダメージを負う。誰も幸せにはなりません。もし、このブームに乗って、婚約破棄を敢行しようとしている人がいるなら、そんなバカなことはやめて下さい。はっきり言いましょう。正当な理由もなく婚約破棄をする人なんて、ただのバカです! 貴族ならバカになってはいけません! もっと賢く立ち回りましょう!」
普段から叩き売りをしているだけあって、彼女の声はよく通り、その声がより説得力を与えた。
反応は様々である。
メルラの行動に勇気をもらった者。
逆に、すでに婚約破棄をしてしまっていて、青ざめている者。
婚約破棄ブームそのものに無関係だが、その行動を称賛する者。
いずれにせよ、メルラのあまりに堂々とした態度に、「生意気なことを言うな」などと非難する者は一人もいなかった。
軽い気持ちで婚約破棄をして無様に打ち負かされたアリウス、婚約破棄を正々堂々打ち破ったメルラという光景は、皆の目に強く焼き付いた。
そしてこの雰囲気が覆されることはないまま、この日のパーティーは幕を下ろした。
***
それからというもの、各地で婚約破棄された令嬢たちの逆襲が起こった。
「泣き寝入りせず、正式に訴えます」
「慰謝料を請求させて頂きます」
「徹底的に争いますので、覚悟なさって下さい」
ブームに乗って浅はかな婚約破棄をした令息たちは、相応の報いを受け、場合によっては家から勘当されるなど、厳しい制裁を受けるはめになった。
その中にはメルラからハンカチを受け取った令嬢もおり――
「あなたに婚約破棄されたことにきっちり決着をつけ、私は次の人生を歩みますから、そのつもりで」
「待ってくれ……問題を大きくされたら、俺は……」
「調停の場を設けますので、第三者を交え、そこでしっかり話し合いましょう」
この令息は当主の座を受け継ぐ予定だったが、その資格なしと判断され、次期当主の座は弟に譲り渡すこととなった。
なお、令嬢は後日、無事別の貴公子と結婚することができた。
しばらく経ち、メルラとアリウスは連名で、“先の婚約破棄はフェイクであった”と暴露した。婚約破棄ブームを終わらせるための“最初の一羽”になるためにやったのだと。
中には「してもいない婚約を破棄し、大勢を騙した」と批判する声もあったが、昨今の婚約破棄ブームに内心辟易していた者も多かったのだろう。
むしろ「よくぞあの下らないブームを終わらせてくれた」と評価する人間が多勢を占め、二人のフェイク婚約破棄劇が問題視されることはなかった。
***
一連の騒動が落ち着いた頃、メルラはアリウスと恒例のティータイムを開いていた。
グリオッシュ邸のテラスは穏やかな空気が流れている。
「婚約破棄ブームは収まったようですね」
「うん。正直ここまで上手くいくとは思ってなかったよ」
発起人のアリウスも、この結果には驚いている様子であった。
二人は“フェイク婚約破棄”のことを思い返す。
「それにしてもアリウス様の演技は絶品でした! 私の言葉に引きつって青ざめて……。あれはどうやって演じていたんですか?」
「子供の頃、父上の大切にしていた花瓶を割ってしまったことがあってね。それを思い出していた」
アリウスが笑うと、メルラもフフッと笑う。
「君こそ素晴らしい演技だった。よくあそこまで毅然とした令嬢を演じられたものだよ」
「“これは商談だ”と自分を言い聞かせてましたから。そうしたら自然とあんな態度を取れました」
「なるほど……。さすがはフェール家のご令嬢だ」
和やかに談笑は続き、アリウスが不意にささやく。
「こうして君といると、とても楽しいよ」
「私もです!」
メルラも元気よく返事をする。
「ところで、一度君に聞いてみたかったことがある」
「なんでしょう?」
「かつて君は僕のことを“特別な人”と言ってくれたが、あれはどういう意味だろう? 幼馴染という意味なのか、それとも……」
「あ……」
メルラは言葉に詰まる。
「あの、それは……そうですねえ……」
「いや……ちょっと待った。この物言いは意気地がなかった。やっぱり僕から言わせてくれ」
「は、はい!」
メルラは目を見開き、背筋を伸ばす。
「僕は君のことが好きだ」
あまりにも、まっすぐな言葉だった。
「ずっと好きで、大好きで、だけど言えなかった。これを言ってしまうと、今までの関係が何もかも壊れてしまって、こうしてティータイムを開くことをできなくなるかもしれない、と思ったから」
例えば仮にメルラが告白を断ってしまったら、お互いに気まずくなることは避けられない。恋人同士になれたとしても、様々なしがらみが生まれ“今までのように”とはいかなくなるかもしれない。
心地よかった幼馴染の関係が壊れてしまうのを恐れ、「男女の仲になろう」と切り出すことができなかったと告げる。
メルラは黙って聞いている。
「君とは週に一度は会える。その気になれば告白はいつでもできる。だから、焦る必要はない。そんな甘えが、僕に気持ちを打ち明けることを許さなかった」
「……」
「だけど、この間、君は婚約破棄をされた女の子にハンカチを売ることができなかったろう? あれを聞いて、僕は居ても立っても居られなくなってしまってね。やはり、将来伴侶にするならこの人しかいない、そんな思いが心の中で増幅されていった」
アリウスはメルラに向き直る。
「だから、メルラ・フェール。僕は一生君の“特別な人間”でいたい。僕と婚約を交わして欲しい」
メルラは目を細め、柔らかな笑みを浮かべた。
「喜んで」
「……!」
「私もずっと好きでした。毎週のティータイムが楽しみで仕方ありませんでした。だけど、だからこそそれを壊したくなくて、あなたに恋をすることができなかった。今の関係のまま、ずっといければいいな、と思っていました。そんなこと、できるわけないと分かっていたのに」
メルラも想いは同じだったと打ち明ける。
「でも、私も言わせて頂きます。私もあなたの“特別な存在”になりたい。あなたと……婚約します!」
かくして“幼馴染”だった二人は、“愛”という形で結ばれることとなった。
「それにしても私たち、婚約破棄をしてから婚約するって、なんだか順番がおかしいですよね!」
「……確かに」
メルラのあまりにもっともな指摘に、二人は笑った。
***
グリオッシュ家に嫁いだメルラは夫に愛され、さらには子宝にも恵まれ、幸せに暮らしている。
邸宅のリビングで、“アルロ”と名付けた男児を抱きながら、穏やかな笑みを浮かべるその姿は、すっかり貴族夫人の貫禄が漂っている。
そんな彼女に、アリウスが話しかける。
「アルロはすやすや眠っているね」
「ええ。とても幸せそうに……」
妻の胸の中で眠る我が子に若干の対抗心を抱いたのか、アリウスが告げる。
「幸せというなら、僕だって幸せだよ。君と結婚できたんだから」
「ありがとう、あなた。もちろん私も幸せよ」
そして――
「あ、そうだ! 『幸せ伯爵夫人の子育て生活』なんて本を出したら売れるんじゃないかしら!」
メルラの商魂たくましさは今も健在である。
「出してみたら? かなり売れるかもしれないよ」
「ええ、執筆してみる!」
両親の楽しそうな会話を夢うつつの中で聞いているのか、アルロは眠りながら小さく笑みを浮かべた。
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。




