公園にて
街の真ん中にあるこの公園で毎日、一人のおばあさんと一匹の黒猫が楽しそうに遊んでいることを、近所に住む人々なら誰でも、よく知っていた。ふたりは入り口近くにある小さなベンチに並んで座り、日が暮れるまで一緒にいた。ふたりはとても仲良しだった。
ある日、突然おばあさんは公園に姿を見せなくなった。そして黒猫も公園から姿を消した。公園のベンチに座る人は、誰もいなくなった。そして二週間が過ぎた。
「あの、すみません」
街の真ん中にある公園の、入り口近くの小さなベンチに座っている青年に声をかけたのは、小学生になったばかりというような、幼い少年だった。外見に似ず、意志の強い瞳をした、きれいな黒い髪のその少年は、ひどく切実な、そして不安げな表情を浮かべて、青年の顔をじっと見つめる。
「はい、なんでしょう?」
少年にそう答えた青年は、しかし少年とは対照的に、ゆったりとベンチに腰掛けていた。チューリップハットを被り、着物姿にブーツを履いた、おおよそ現れる時代を間違えたような格好のその青年は、見るものを安心させるような穏やかな笑みで、少年の視線をやわらかく受け止める。青年のその様子に少年はほっと表情を和らげると、とても真剣な声音で青年に言った。
「おばあさんを知りませんか? 二週間ほど前まで、毎日そのベンチに座って黒い猫と遊んでいたおばあさんが今、どこにいるのかを」
「……おばあさん、ですか?」
すがるように青年を見る少年に、青年は何か言いたげな、少し考えるような表情を返すと、すぐに笑顔に戻って、自分の座る隣の場所を指差した。
「座りませんか? 見たところ、あなたは少し、お疲れのようだ」
「え? あの、でも……」
おばあさんをさがさなきゃ、と言いかけて、少年は口をつぐんだ。ただニコニコと笑っているだけなのに、青年の言葉にはなぜか逆らいがたい雰囲気があった。少年はしぶしぶ青年の隣に腰を下ろす。青年は満足げにうなずくと、ベンチの背もたれに背中を預けて、ゆっくりと空を見上げた。
「あの、それで、おばあさんは」
「今日はいい天気ですね。風も、とても気持ちがいい」
あせるように言った少年の言葉をさえぎって、青年はそんなことを言った。青年は何も教える気はないのだと悟って、少年は深くうつむいた。青年は、そんな少年の様子に気が付かないとでも言うように、空や、公園の木々や、行きかう人々を楽しそうに眺めていた。しばらくの間、二人は無言でベンチに座っていた。
どれだけの時間が経っただろうか。不意に、少年が口を開いた。
「……おばあさんは本当に、やさしい人だった。いつも頭をなでてくれて、たくさんお話をしてくれて」
うつむいたまま、独り言のように、少年はぽつり、ぽつりと話を続ける。
「でも僕は、おばあさんの言葉が何一つわからなかった。少しでも理解できたらって、ずっと、願って、やっと……願いがかなったって、思ったのに」
少年は深く息をつくと、力なく首を振った。
「……二週間、さがした……もう、会えないのかな……?」
少年は空を見上げた。おばあさんが大好きだった。もう一度会いたくて、必死におばあさんの姿を探し回った。でも、どこにもいない。おばあさんがいない。
「……少し、つかれたな」
背もたれに身体を預けて、ぼんやりと流れる雲を見た。張り詰めていたものが急に切れてしまった。そして少年は、いつの間にか空があかね色に染まっていることに気付いた。
「……ああ。知らなかったな」
まぶしそうに目を細めて、少年はつぶやいた。
「人の見る空は、こんなにも、近い」
空を仰ぐ少年を、いつの間にか青年は穏やかに見守っていた。そして、始めからずっとひざの上に抱いていた、年とった黒猫の背中をなでた。すると黒猫は、青年のひざからひょいと飛び降りて、少年のひざにのぼり、話しかけるように「にゃあ」と鳴いた。突然あらわれた重さに、少年はびっくりして視線を落とした。黒猫はとてもやさしい目で少年を見つめていた。その瞳は、とてもなつかしい……
「……そうか。僕は、おばあさんの姿だけをさがして、他の何も見てはいなかった」
少年がおばあさんを想っていたように、おばあさんも少年を想っていた。そう気付いて、少年はすべてを理解した。少年は黒猫を、その小さな腕でそっと抱きしめると、目に涙をいっぱいにためて、
「やっと会えた」
少しかすれた声で、そう言った。黒猫は少年の顔にほおを寄せると、いとおしむように目を細めた。
夕日が、沈もうとしていた。
少年と黒猫の身体が淡い光に包まれ始めて、少年は終わりの時が近いことを知った。少年はベンチから立ち上がると、青年に向かって初めて、笑顔を向けた。
「ありがとう」
青年は穏やかな笑顔のまま、軽く首を横に振った。少年たちを包む光はいよいよ強さを増し、やがてふたりは光の粒になって空に消えた。美しい、光景だった。
薄闇の中、青年は一人、空を見上げた。雲ひとつない、澄んだ空だった。青年は嬉しそうに、こうつぶやいた。
「今日はきっと、星がきれいだ」