愛娘
愛娘
「アオイちゃん、もうすぐパパが帰って来るから、玄関で待っていたら」
ママはテレビの前に陣取っているアオイちゃんに話しかけた。しかし、アオイちゃんはママの言葉など聞こえなかったようにテレビに夢中になっている。大好きな『名犬ベル』のテレビ番組が始まったのだ。3か月ほど前、パパがテレビのスイッチをONにした時に映し出されたシュナウザー犬が主人公のテレビ番組『名犬ベル』をアオイちゃんが気に入ったようで、テレビの前に座り無心に見だした。それ以来、アオイちゃんはこのドラマを一声も発することなく見続けている。アオイちゃんは、今日もいつもと変わらぬ姿でテレビにしがみ付いている。ママはアオイちゃんのこの様子がかわいらしく思え、鼻歌交じりで夕ご飯の準備をする。アオイちゃんは、ドラマで流れる音楽に合わせ首をふりふりし、いかにも踊っているように見える。ママはそれを見て、
「アオイちゃんは将来ダンサーになるかもね」
と幸せに満ちた夢を巡らす。
ママがパパと出会い結婚してからもう12年になる。31歳の時に結婚したからアオイちゃんは遅い子供だ。実は、これには訳がある。
ママはパパと結婚して直ぐにでも子供が欲しかった。ママの記憶に残る子供のころ、ママのお母さんと毎日のように家の近くにある公園を散歩していた。お母さんの手に引かれながら、遠くに丹沢の山並みが見える散歩道をほんわかとした気持ちになって歩いていた姿が目に焼き付いている。小学生のころに、ママは、
「大人になったら自分の子どもを連れて、あの時の様な散歩をしたい」
という思いがつのり、それが憧れの一つになっていた。
しかし、現実は厳しかった。中々子供が授からなかったのだ。ママが39歳の時だったと思う。子供が欲しいという思いは時間が経過するとともに増していき、それと相反するように、
「私は子供を産めないかもしれない」
と思いはじめた。ちょうどそのころ、高校時代の親友が不妊治療を受け子供を授かったという情報を耳にし、ママはいてもたってもいられず、パパに相談しママも不妊治療を受けることにしたのだ。
大学病院での検査の結果、ママの女性ホルモンが健康な女性に比べ少ないのが不妊の原因らしいということがわかり、人工授精の治療法で進めることになった。しかし、子供を授かることはなかった。
「私は子供を産めない体なんだ」
と思うと、元気がとり得だったママは、病人のようにリビングのソファに横になって過ごすことが多くなった。そんなある日、ママがぼんやりしながらテレビを見ていると、お昼の情報番組の中で里親制度の特集をやっているのが目に入った。すると、小さなかわいい子を抱っこしてインタビューに答えている女性の姿が映し出され、
「私は子供が欲しくて、不妊治療を含めいろいろとトライしたが成功しなかった。そんな時、里親という制度があることを知り、今はこのように可愛い子の里親となり充実した毎日を送っている」
という内容の話をしていたのだ。ママは目の前が急に明るくなったよう気がし、
「私も里親になりやい」
とソファに座りなおして言葉にした。
その日、パパが帰宅すると、里親になりたいことをパパに話したが、
「気持ちは良くわかるけれども、里親のことは冷静になって考えた方が良いよ」
と暗に否定するような返答だった。しかし、ママの意思はもう固まっていた。次の日からママは里親制度の情報をインターネットや図書館に立ち寄るなどして、次から次へと集め、1週間後には里親制度の専門家にでもなったようにパパを説得したのだ。ママの行動に感心したパパは、
「それじゃ、里親のこと考えてみるか」
と、賛成したのだった。
ママは早速、里親制度を運営する団体に連絡し、土曜日の午後にパパと一緒に面接に出かけた。里親制度の団体が入るビルの入り口で、ママは大きく深呼吸し、
「よし!」
と両肘に力を込めて引くしぐさをし、勇んで中に入っていった。パパは、
「そんなに緊張しなくていいよ」
と声かけしものの、ママの耳には入らなかった。そして面接の部屋の扉を勢いよく開け、大きな声で、
「失礼します!」
と言いながら中に入った。すると、そこには係の人に抱っこされたアオイちゃんがいたのだ。ママの勢いはそこまでだった。アオイちゃんの愛くるしいその姿を見た途端、ママはへなへなとなってしまい、倒れる寸前でパパに抱きかかえられた。アオイちゃんはママとパパを見るなり不安そうな目つきになったが、そのくりくりした眼、付けまつげでも付けているような長いまつ毛、ボタンを張り付けたような小さなお鼻や大きめのお耳、そして、柔らかそうな小さな手足にママは魅了されてしまった。係の人が何を話したのか、ママは記憶にない。ママの目にアオイちゃんのほんわかとしたその姿が焼き付いてしまったのだ。係の人が話す説明は、パパが聞き役となって対応してくれた。面接が終わり帰るころには、ママの目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。
その日、マンションに帰ってからも、ママはボーっとしたままだったが、パパからお水をもらい少しずつではあるが正気を取り戻していった。パパから面接での事務的な内容を聞き、アオイちゃんの出生や里親の施設に来た理由などの説明を受けたが、そんなことなどママにはどうでもいいことだった。パパの話が終わるや否や、
「あの子を引き取りたい!」
とだけ、ママは言葉にした。今日のママの様子を見ていたパパも、
「かわいかったな!」
ポツリと返事した。これで決まりだ。
次の日から、ママとパパはアオイちゃんを引き取る手続きに奔走した。関係する役所での手続きを済ませ、アオイちゃんのお洋服、小さなベット付きのお家などなど至れり尽くせりの準備をし、出会って1週間後にはアイオちゃんを迎え入れたのだ。
アオイちゃんが里親施設の係の人に連れられてパパとママが住むマンションに来た時、不安そうに眼をキョロキョロさせ、係の人に抱っこしたまましがみついていた。係の人が帰った後は、リビングのソファの上で泣いてばかりだった。
それが今ではこの通りだ。
「アオイちゃん、いい加減にしたら。そんなにテレビに近づいて見ていたら、目を悪くするよ」
とママはキッチンから声を掛けたが、アオイちゃんはそれに返事することもなく、『名犬ベル』に見入ったままだ。
このマンションにはアオイちゃんと同じ様な年ごろの子がいる。特に山田さん家のハナちゃんと鈴木さん家のレイナちゃんとは大の仲良しだ。時々、奥さんたちとアオイちゃん、ハナちゃん、レイナちゃんと連れ立って近くの公園に遊びに出掛けることがあるが、もう大変。砂場なんかで遊ぼうものなら、帰るときにはお洋服だけではなくお口の周りも砂だらけ。その上、お漏らしまでする子がいるから奥さんたちは目が離せない。この前なんか初めて会った大きなお友達とレイナちゃんがけんかとなり、それにハナちゃん、アオイちゃんが加わり、ママたちが止めるのに一苦労だった。
先週の水曜日、ママとアオイちゃんがリビングのソファでくつろいでいる時だった。半分寝ぼけていたアオイちゃんが、ママの胸あたりでお口をくちゅくちゅとおっぱいに吸い付くようなしぐさをしたのだ。ママははじめビックリしたが、
「そうか、アオイちゃんは本当のお母さんの夢でも見ているのかしら」
と思い、ママ自身のおっぱいをアオイちゃんの唇に近付けてみた。するとアオイちゃんは大きな目をぱっちり開けて、顔を背けてしまったのだった。ママは、
「本当のお母さんじゃないものね」
とがっかりしたが、アオイちゃんに対する愛おしさは前にも増してつのった。
また、アオイちゃんはお風呂がきらいで、ママと入るときは必ずと言っていいほど逃げ出す。その為、最近お風呂は週1回ほどとし、その代り毎日寝る前にお湯で濡らした暖かいタオルで全身を拭いてあげる。これが気持ちいいのか、体をくねくねさせて「まだ止めないで」という仕草をする。この可愛さといったら、アオイちゃんを里子として受け入れて本当に良かったとママの顔がほころぶ。
そうそう、この前散歩の帰り、アオイちゃんを真ん中にしてパパと一緒にマンションの前まで来た時だった。アオイちゃんのお尻から
「プー、プー!」
と2回おならの音が聞こえたのだ。アオイちゃんはビックリして自分のお尻を振り返って見ていたが、その後は何事もなかったようにまた歩きだした。パパとママは顔を見合わせて大笑いした。
『名犬ベル』が終わりに近づき、エンディング曲が流れだした。
「アオイちゃん、『ベル』そろそろ終わるから、テレビから離れたら」
とママが言った時だった。玄関のペルが鳴り、ママが、
「ほら、アオイちゃん。パパが帰ってきたよ!」
と言うと、アオイちゃんはテレビの前から一目散に玄関まで走り出した。
「ワンワン、ワーン!」
完