4.彼女と出会った日(1)
――ドォオオンッ!!
激しい音と共に窓がビリビリと震え、建物全体も揺れた。
机の上で書類を広げ、それに目を通していたレナートは顔をあげた。
この揺れ方は尋常ではない。だが、地震でもない。そもそも、この国は地震が滅多に起こらない国であると聞いている。
立ち上がった彼は、音と揺れの出どころを探るために窓辺に寄り、カーテンを手で払った。
夜も深くなり、人々が眠りにつき始める時間帯だというのに、窓の向こう側が煌々としていて眩い。
明るさの原因を探るため窓を開けると、熱気を孕んだ空気が顔を覆った。道路を挟んだ向かい側にある宿が、ゴォゴォと音を立てて燃えている。
レナートは糸のように細い青色の目を、めいっぱい広げた。
「くそっ」
早く火を消さねば周囲にも飛び火する。
消火のために人は集まり始めているが、そこに水が扱える者がいるかどうかは別問題である。
水のない場所に水を引くのは騎士団や自警団の役目。水のない場所に水を呼び寄せるのは魔術師の役目。
レナートは目をこらすが、魔術師らしき人物の姿はまだ見えない。そもそもこの国では魔術師と呼ばれる人間が少ないのだ。
「ちっ」
――せっかくの休みが台なしではないか。
だからといって、目の前の現状を見て見ぬふりするほど薄情な男でもない。
窓枠に手をかけて軽やかに飛び降りる。
レナートがいた部屋は三階であった。それでもまるで羽根でもあるかのようにふわりと飛んだように見えたのは、彼の浮遊魔法のせいである。背中で一つに結わえた髪も、ふわふわとなびく。
外に出れば火の粉が舞い、さらに熱風が吹き付けてくる。怒号が飛び交い、逃げ惑う人々。誰もが自分の命を守るのに精一杯だ。
音もなく着地したレナートは、ぐるりと大きく周囲を見回した。
まだ騎士の姿も魔術師の姿も見えない。自警団と思われる男たちが、宿の客やら周辺にいた者たちに逃げ道を誘導しているくらいである。
短く息を吐いて、気持ちを整える。彼はすっと空に向かって右手を真っすぐに伸ばした。手のひらを天に向ける。
心の中で雨雲を呼び、命じる。
――この地に、雨を降らせよ!
魔術師であっても、近くにある雨雲を呼んだり、雨雲を散らしたりするくらいならできる。この雨雲を操れる範囲というのは、魔力の強さに比例する。
さらにもっと大きく天候を操るのは――例えば嵐を呼ぶとか、晴れ間に雪雲を呼び寄せるとかは、魔術師では不可能。それができるのが、聖女とは聞いているのだが。
それでも、この程度の炎であれば、レナートの力で十分だろう。
ポツポツと雨粒が落ち始めた。それがザァザァと音を立てて火の勢いを弱めるまでにはそう時間はかからなかった。
額に滲む汗によって張りつく前髪を払うと、レナートはその場を去る。
あとは、これからやってくるだろう騎士や魔術師がなんとかしてくれるはずだ。この場にとどまっていると、彼らに見つかって面倒なことに巻き込まれるだけ。できるだけ面倒ごととかかわりたくないレナートは、そそくさと立ち去ったほうが得策だろう。
何事もなかったかのように、宿に足を向けた。
レナートが呼び寄せた雨雲は、燃え盛る炎の上にだけ集まり、その場所だけ雨を降らせていた。誰が見ても魔法の力によるものとわかる。
だから、さっさとこの場を去りたかった。
魔力はほとんどの人間が備えており、生活のために必要な魔法を使う。火を起こす、明かりを灯す、湯を温める。そういった魔法を生活魔法と呼ぶが、このような大きな魔法を使えるまで魔力を持っている人間は少ない。
特にこのイングラム国においては、これだけの魔法を使えるだけの魔力を持ち合わせている人間が非常に少ない。すなわち、魔術師と呼べるような存在が貴重なのだ。それでも、各所に一人くらいは配置されているはずなのだが、来るのが遅い。
――たすけて……たすけて……。
レナートは宿に向かって動かしていた足を止めた。
幼い声が聞こえてきた。それは耳に直接聞こえてきた声ではない。頭に直接呼びかけてきた声である。
――たすけて……たすけて……。誰かたすけて……。
思念伝達魔法――心の声を飛ばす魔法をそう呼んでいる。
この状況で「助けて」と訴えるのは、この爆発に巻き込まれ人間ではないのだろうか。そして声から察するに子どもである。
くるりと向きを変えると、背中で一つに結わえている黒い髪がバサッと揺れた。
声のする場所を探る。
――たすけて、たすけて……。おねえちゃんをたすけて……。
もちろん助けを呼ぶ声に応えたいという思いもある。レナートもそこまで薄情な男ではない。ちょっと人より表情に乏しいが、あの爆発事故に巻き込まれ、今すぐに助けが必要と思っている者がいて、それがまして幼い子というのであれば、助けてあげたい。
だが、それよりもこれだけ幼い子が思念伝達魔法を使って助けを呼んでいる状況が気になった。
思念伝達魔法は高等魔法である。魔術師の中でも使える者は限られている。それを、幼子が使い、助けを求めているのだ。意図的か無意識か。
レナートは感覚を研ぎ澄まし、声がするほうへと足をすすめる。建物を覆っていた炎の勢いは弱まっていた。それもこれも、レナートが呼び寄せた雨雲のおかげである。
それでも勢いが弱まっただけで、炎の色がすべて消え去ったわけではない。
燃えた建物の近くの少しだけ奥まった路地に、複数の人がへたりと座り込んでいた。建物の壁に背中を預け、足を投げ出している者もいる。ここまでなら、炎や煙も届かないだろう。
「宿にいた人間か?」
レナートが声をかけると、彼に気づいた人間は生気のない表情を向けてきた。
「俺に助けを求めたのは誰だ? 子どもがいるのか?」
近くにいた人物を見回しても、助けを求めた人物が誰かはわからない。ここには、大人も子どももいた。男性も女性も。
「ぼく……」
立っていた五歳くらいの男の子が、おずおずと手をあげた。寝衣姿なのは、眠っていたところを逃げてきたからだろう。
「おじさん。ぼくの心の声が聞こえたの?」
心の声。彼にとってはそう表現するのがしっくりとくるのだろう。本人は、思念伝達魔法を使っていたつもりはないのだ。
「怪我は?」
レナートが尋ねると、男の子は首を横に振る。見たところ、両足でしっかりと立っており、意識もはっきりとしているようだ。
てっきり怪我をして動けないものだと思っていた。煤などで汚れてはいるが、見たかぎりでは大きな怪我はないようだ。
「だけど、おねえちゃんが……」
そう言われれば、先ほどの声も「おねえちゃんをたすけて」と言っていた。
「わかった。騎士団がくるまでできる限りのことはしよう」
男の子はレナートの上着の裾を引っ張った。こっちへ来い、と言っているにちがいない。
宿の客と思われる人々は惚けており、うすら汚れた感じではあるが、大きな怪我を負っている者はいないように見えた。
「おねえちゃんが、ぼくを助けてくれた……」
路地の一番奥に、一人の女性が横たわっている。その側では、別の女性が何か布地をあてがって止血をしている。
「おかあさん。おじさんが、おねえちゃんを助けてくれるって」
男の子に「おじさん」と呼ばれるたびに、もやっとした気持ちが生まれるのだが、今はそれを気にしている場合ではない。
膝をつき、倒れている女性を確認する。
「彼女は?」