2.彼女が旅立つ日(2)
それに、聖女となってしまうと、これからのウリヤナの人生はウリヤナのものではなく、聖女のものとなり国のものとなる。今後の自分の生活を王族によって勝手に決められてしまったのだから、金くらい望んでも罰は当たらない。
むしろ、聖女褒賞金という制度は昔からある。聖女は聖女であって、他の何者ではないから。個人という存在はなくなってしまうから。
だからウリヤナは正当な要求を突きつけただけ。たとえ国王が、嫌な顔をして、渋々と褒賞金を払ったとしても。
ウリヤナが聖女となり神殿で生活をし始めた途端、カール子爵家の懐は潤った。それでも彼らの生活は質素であり、民のためにと奔走している。
そのような場所にウリヤナが戻ったとしたら、また両親は胸を痛めるにちがいない。
そんなウリヤナは、婚約解消時にクロヴィスに一つだけ約束を取り付けていた。それは、ウリヤナが聖なる力を失い、聖女でなくなってしまったが、今まで王家がカール子爵家に支払った褒賞金などの返還を求めないようにするものだった。
クロヴィスは「そんなことか」と鼻で笑って、サインをした。
だから、きっと大丈夫――。
ウリヤナは自分にそう言い聞かせて、北に向かう乗り合い馬車へと乗り込んだ。
ほろはどこか色あせており、中は湿った木のにおいがたちこめている。
聖女ウリヤナが利用していた神殿の馬車とは、見るからに違う。みすぼらしく、質素であり、けして乗り心地がよさそうとは思えない馬車。
乗り合い馬車には、母子と思われる女性と幼い男の子、商人風の格好をしたでっぷりとした男性の計、三人が乗っていた。
どこに座ろうかと考えながら座席をぐるりと見回したあと、やはり同じ女性のほうが安心するのもあって、彼女たちに近いほうの席を選んだ。
すると男の子がウリヤナに気づき、ニコリと微笑む。ウリヤナも笑顔を返す。
男の子は母親の服の裾を引っ張り、何かを話しかけていた。女性も顔をあげ、ウリヤナに視線を向けると頭を下げた。ウリヤナも同じように頭を下げる。
たったそれだけの仕草であるのに、急に親しみを感じた。
はぁ、と深いため息が聞こえた。
これの主はもう一人の男性だろう。
嫌なヤツらと一緒になってしまったと、無言で訴えているに違いない。
ウリヤナは、それに気付かなかった振りをして座席に深く座り直すと、荷物を両腕に抱え込んで目を閉じた。
力を失ったウリヤナが北のソクーレまで移動することを、神殿にいる者たちは非常に心配していた。理由は一つ。ウリヤナに聖なる力もなく魔力もないからだ。
魔力がないのは、聖なる力が魔力を包含していたからで、その聖なる力を失ったと同時に魔力も失ったのだ。
そのため神官たちは、彼女に魔力を封じた魔石をいくつか持たせた。これがあれば、魔力のない者、魔力が弱い者であっても、魔石の魔力を用いて簡単な魔法を使える。
移動中に何かあったときにこれを使いなさいと、神官らは口にした。そうやって気遣ってくれることすら、心に染み入る。
それでも何もないことを祈るだけだった。魔石はお守りのようなもの。それを入れた布製の鞄をぎゅっと抱きしめた。
ガタガタと馬車は悪路を進んでいく。硬い椅子にお尻は痛くなった。
しかしそんな不規則な揺れは、うつらうつらと眠りへと誘う。転寝と覚醒を繰り返し、休憩になれば外に出る。
外に出た瞬間、ウリヤナはうぅっと身体を伸ばした。
こういった見知らぬ人との馬車の旅も悪くはない。ウリヤナの過去を知る者はここにはいない。
休憩の間、馬車を引く馬には体力回復薬が与えられる。こうやって馬車馬は、昼の間はわずかな休憩だけで何時間も馬車を引くのだ。そのため『馬車馬のごとく』という言葉は、この国では半奴隷的な立場を指す言葉でも使われていた。
移動中の馬車の中では、誰もしゃべらなかった。幼い男の子でさえ、声をあげるようなことはせず、母親に寄り掛かってうとうととしていた。
あの年のわりには聞き分けのよい子だなと思って、ウリヤナも感心したものだ。
だが今、目の前で男の子は外を走り回っている。走り回って息があがってくると、立ち止まって息を整えてから、ウリヤナに話かけてきた。その笑顔はとても素直で、ウリヤナにとっては眩しく見えた。
「ぼくとおかあさん、ソクーレに行くんだよ」
彼らは王都ネーウで暮らしていたが、父親が亡くなり暮らしが立ちいかなくなって、母親の生まれ故郷であるソクーレに戻るらしい。
男の子の父親は、騎士団に所属していたとのこと。下級騎士であったが、王都の外れで起こった暴漢事件に誰よりも早く駆けつけ、そのときに犯人によって刺されてしまったようだ。その暴漢は、あとから駆けつけた他の騎士によって取り押さえられ、今は騎士団が常駐している建物にある地下牢で身柄を拘束している。
――そういえば、そのような事件があったかもしれない。
男の子の話を聞いて思い出した。
王都の警備が行き届いていなかったのが原因だ。
聖女である自分に、何かできないだろうかと胸を痛め、クロヴィスに相談した時期もあった。だが、彼にとっては下級の民の生活など、興味がないように見えた。
ウリヤナが必死に訴えても、クロヴィスからは「ふぅん」としか返ってこない。彼が話を聞いてくれなければ、内容が内容なだけにウリヤナが相談できる相手などいない。心にもやっとした何かが残ったが、結局何もできずにいた。
そんな彼らも苦しみから解放されるようにと、神殿で祈りを捧げることしなかった。もしかしたらそれは、ただの自己満足だったのかもしれない。
「大変だったわね」
男の子の話を聞き終えたウリヤナが口にできたのは、たったその一言だけ。喉の奥がつかえて、次の言葉は出てこなかった。
だけど、優しく男の子の頭を撫でれば、彼は目を細くした。それは、すり寄ってくる猫のようにも見えた。
馬車に乗ると、あれだけはしゃいでいた男の子も静かになる。こくりこくりと頭を動かして、母親に寄り掛かって眠ってしまうのだ。
じっと見つめていると、母親が彼に魔法を使っていることに気づいた。
母親が顔を上げると、右手の人さし指を唇の前で立てている。
ウリヤナはゆっくりと小さく頷いた。
子どもの小さな身体では馬車での長時間移動は負担になる。だから母親は魔法を使って眠らせている。彼女が息子を撫でる手は、慈愛が溢れるかのように優しかった。
太陽が半分ほど西側に隠れた頃、中継点のテルキの町に着いた。ソクーレに向かうには、あと二つの馬車を乗り継ぐ必要がある。
今日はテルキの宿で一泊する。
質素な宿であるが、横になって休めるのはありがたい。あの母子も同じようにソクーレに向かうと言っていた。
部屋はシンと静まり返っている。小さくて硬い寝台と、簡素な備え付けの机だけが置いてある狭い部屋。
寝返りを打つたびに、寝台はギシギシと軋んだ音を立てる。空気は冷たいが、どこか湿っぽいにおいもする。肩まで掛布を手繰り寄せる。
先ほどからも何度も寝返りを打っているのは、目をしっかりと閉じているはずなのに、移動中のやりとりを思い出してしまうからだ。
そのたびに身体の向きを変えていると、すっかりと目が冴えてしまった。身体は疲れているが、頭ははっきりとしていて眠くない。
ため息をついてぼんやりと天井を見つめる。硬い寝台、薄い寝具。屋敷や神殿と暮らしていた時とは違う環境。だが、これからはそれに慣れなければならない。
重くならない瞼を無理矢理閉じて、なんとか夢の世界へ向かおうとしたとき、大きな音が聞こえてきた。
――ドォオオンッ!!