1.彼女を失った日(1)
イングラム国はマゴキ大陸の中心にあり、東西南北と四方のそれぞれが他国と接している国である。そのため、各々の国境には関所が設けられ、国と国を行き来する物資や人を厳しく管理していた。
王都ネーウはイングラム国の中心部にあった。さらにその真ん中にある白亜の王城は、朝焼けを浴びる姿は神々しく、一日の始まりに目にすれば心が弾むとさえ言われている。
今は昼。太陽は真上に昇り、王都ネーウにある建物の屋根をじりじりと照らし続ける。
王城の一室では、聖女ウリヤナが目の前に座っている男をじっと見据えていた。
聖女とは『聖なる力』を持ち、神とつながり奇跡を起こす女性のこと。
そんなウリヤナは、目の前の男からけして目を逸らさない。
彼の珍しい金色の瞳はイングラム国の王族の証である。瞳と同じような金色の髪は、彼が顔を傾けるたびにさらりと揺れた。
室内の解放感あふれる大きな窓からは日差しが注ぎ込まれ、ときおり彼の髪を眩しく照らす。
「クロヴィス殿下。今、なんておっしゃったのでしょうか?」
ぱっちりとした二重の碧眼を見開き、彼女は真っすぐに視線をぶつけた。
「聞こえなかったのか? 私と君の婚約は、なかったものとしたいと、そう言ったんだ」
勝ち誇ったかのような笑みを浮かべているクロヴィスに対して、ウリヤナはぷつっと殺意のようなものが芽生えた。
――この男は、いったい何を言っているのだろう。
だが、感情のおもむくまま言葉を放ってはならない。感情をむき出しにしてもならない。
それが聖女であり王太子クロヴィスの婚約者であるウリヤナに求められるものでもある。
軽く息を吐いて、口を開く。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか? 私と殿下の婚約は、殿下側が望んでされたことですよね?」
「ああ、そうだ。君は聖女であって、聖なる力を持っていたからな。聖なる力を持つ女性は貴重な存在だ。そのような女性を野放しにしておくことなどできないだろう?」
ウリヤナはひくっとこめかみを動かした。
彼女に『聖なる力』があるとわかったのは、デビュタントのために両親と王城を訪れたときである。
国王への挨拶が終わったデビュタントたちは、必ず神官による魔力鑑定を受ける。
誰でも持ち合わせている魔力であるが、魔力にも強さや種類があり相性がある。その強さと種類が落ち着くのが成人を迎える頃と言われており、このタイミングで魔力鑑定をされるのだ。
男性も同様で、成人を迎えた頃に魔力鑑定を受ける。
それが慣例でもあった。
その慣例に沿った結果、ウリヤナには魔力とは似て異なる聖なる力があるとわかったのである。
聖なる力は癒しの力。人々を痛みと苦しみから解放する力ともされている。さらに、神からも力を借りて奇跡を起こすとも。
そういった力を持つ女性は、『聖女』と呼ばれていた。
聖女の力は貴重な力であるため、神殿が管理する。
ウリヤナは両親と別れ、神殿で生活することを望んだ。
聖女と呼ばれる人物であっても特例が認められれば、好きなところで過ごすのも可能だった。
だが、ウリヤナはあえて神殿を選んだ。それは、金のためでもある。
聖女を輩出した家系に支払われる聖女褒賞金と呼ばれるもの。ウリヤナが神殿で生活することで、その聖女褒賞金がカール子爵家に支払われる。
それは、ウリヤナが神殿に金で買われたようにも見えた。
けれどもそれは、ウリヤナ自身が望んだこと。
ウリヤナが聖女として神殿で生活をし始めてから一年後――十七歳になった年に、イングラム国の王太子であるクロヴィスと婚約をした。
クロヴィスはウリヤナよりも一歳年上であり、十六歳のときに立太子した。身分の高い彼は、それに相応しく、しなやかな体躯と美貌を持ち合わせており、姿を現すだけで周囲からは感嘆の声が漏れ出る。
彼の姿を一目見た女性は、すぐさま彼の虜になるとも言われていた。男性であっても、彼の巧みな話術にのせられ、信者になると。
聖女であっても、ウリヤナにはカール子爵令嬢として振舞や教養を身に着けていた実績がある。そのため、クロヴィスの婚約者になるにはなんら問題はなかった。
ただ、最近のカール子爵家は資金繰りに困っていた。だから、聖女という肩書がそれを後押ししてくれたのだ。
出会ったばかりの彼は、いつもにこやかな笑みを浮かべており、ウリヤナの名を甘く囁いた。それがウリヤナにとっては、くすぐったいものだった。
しかし、それから一年も経つと、ウリヤナに興味をなくしたのか、違う女性を隣に侍らせるようになる。
その様子をみていたウリヤナが『婚約を解消しましょう』と提案したが、クロヴィスは頑なに首を縦には振らなかった。クロヴィスは聖女であるウリヤナを手元に置いておきたかったようだ。そこにたとえ気持ちがなかったとしても。
それを知ったのは、その二年後――つまり今。
「だが、君は聖なる力を失ったのではないのか?」
ウリヤナは表情を変えることなく、ただ奥歯を噛みしめた。彼の言ったことは事実である。今のウリヤナには聖なる力がない。事実であるため、反論はできない。まして言い訳などもってのほか。
聖なる力を失った。それの原因はわからないが、心当たりはある。
一か月ほど前に、彼と身体を重ねて熱を分け合った。
婚約しているのだからと、彼に強引に迫られたところもあるが、それを許したのはウリヤナ自身。身体を捧げれば彼の心をつなぎ留められるかもしれないと思ったのも認める。
その結果、逆に彼の心を失い、力も失った。
「そのようですね……」
「だからだよ。聖なる力を失った君とは結婚できない。だから、婚約をなかったものとしたいんだ」
微かな笑みを浮かべているクロヴィスを一発ぶん殴りたい気分である。
いや、殴りたいのはあの時の感情に任せて、身を捧げてしまったウリヤナ自身だ。
そこまでして彼の心が欲しいと望んだ自分が、情けない。
「承知しました……。ですが一つだけ約束していただきたいことがあります」
こうなってしまっては、ウリヤナの気持ち一つで解決するような問題ではない。
婚約を続けた先に結婚があったとしても、彼の離れた心を手に入れるのは難しいだろう。結婚のその先にあるのが不幸であるのは目に見えている。
だから一つだけ、交換条件を出した。それはカール子爵家を守るためでもある。
「……そのくらい、大した内容ではない。必ず守ると約束しよう……。では、これにサインを」
婚約を解消するために必要な書類はクロヴィスの前に並べられていた。それに一筆、今の約束事を彼がさらりと付け足した。
イングラム国の王太子と聖女の婚約は、国中から注目を集めた祝い事でもあった。いつ結婚するのだと、国民も気を揉んでいたところもある。
それが今、たった一枚の紙切れによって、ないものにされようとしている。
ローテーブルの上に置かれた紙に視線を走らせる。婚約解消届――それがその紙の名でもある。
すでにクロヴィスのサインは入っているし、先ほどの約束事もクロヴィスの直筆で書かれていた。
ウリヤナは小さく息を吐くと、側にいた文官よりペンを受け取った。
聖女となったウリヤナは、とっくにカール子爵家の令嬢としての身分は失っている。聖女は聖女であって、聖女以外の者であってはならない。
だから、この婚約が解消されたとしても、両親にはなんのお咎めもないはず。