5.彼女が知った日(1)
喉が焼けるように痛い。いや、痛いのではなくカラカラに渇いている。
身体中の水分という水分がすべて抜けてしまったかのように飢えている。
「み、みず……」
このままでは干からびて木乃伊になってしまうのではないだろうか。
「んっ……」
冷たい何かが唇に触れた。液体を注ぎ込まれた。それが口の中を満たすと、反射的にごくりと飲み込んだ。
カラカラになった身体に染みわたる水分。だけど、まだ何かが足りない。身体はもっともっとと欲している。
「もっと……」
掠れた声で催促するたびに、口の中に液体がゆっくりと注ぎ込まれていく。
揺蕩うような意識の中を、ふわふわとさ迷っている。心地よい世界で、このままここに居たいと願ってしまうほど。
「おい、大丈夫か?」
そんな願いは、聞き慣れない男性の声で潰えた。
「んっ……」
開けたくもない瞼を開けると、見知らぬ男性がじっと見下ろしていた。
「えっ……ゴホッ……」
まだ喉が痛かった。声を出すと、喉に違和感があって、咳が出た。
「水、飲むか?」
彼の言葉に頷きながら、ゆっくりと身体を起こす。
「ほらよ」
いつの間にか、彼は水の入ったグラスを手にしており、ウリヤナはそれを受け取った。
口元に近づけると、水の透明な匂いが鼻につく。一口飲めば、やはり身体は水分を欲していたようで、やめることができなかった。
グラスの水を一気に飲み干した。
「大丈夫か?」
驚いた様子でウリヤナを見ていた男は、空になったグラスを預かった。
「あ、はい……ありがとうございます。ところで……ここは?」
きょろきょろと周囲を見回すが、先ほどまでいた安っぽい宿ではない。今いる寝台も、広くて柔らかい。
「テルキにある宿だな。お前が休んでいた宿は……その……まぁ、あれだ」
言いにくそうにしている様子から、彼なりの気遣いが見え隠れした。
「あぁ……」
思い出した。
激しい爆発音がした。
すぐさま神官からもらった魔石を用いて、瞬間的に防護壁を放った。それから部屋を出て、母子のもとへと向かったのだが、すでに室内には煙と焦げ臭いにおいが漂っていた。
そこから、記憶が途切れている。とにかく、あの魔石によって最悪な事態は免れたようだ。
目の前にいる男は見知らぬ男。それでも一緒にいた母子らが心配だった。
「あの、他の人は……」
「あぁ。怪我をした人はちらほらいたが、今のところ、死人が出たとは聞いてないな。出たら、お前をここにつれてくることはできなかっただろう」
母子のことを聞きたかったのだが、死人が出ていないという言葉が聞けただけでも十分である。それがすべてを物語っている。あの二人は無事なのだ。
胸のつかえがとれた。
「ありがとうございます」
あの状況で死人が出なかったのは、やはりあの魔石のおかげだろう。神官たちにも感謝しなければならない。
「……あ、名前……」
礼を口にして、彼の名を聞いていないことに気づく。
「俺はレナートだ。聖女ウリヤナ様……」
男のその言葉は、助けてくれた感謝の気持ちも忘れてしまうくらいの威力があった。
じろりと、厳しい目つきで男を睨んだ。
癖のある黒い髪は一つに結わえてあり、一重の青色の瞳がどこか冷たく感じる男。
「そんな顔をしなさんな。美人さんが台なしだな。それよりもマシューが心配してた。俺に助けを求めたのもマシューだ」
マシューは馬車で一緒になった男の子であり、ずっと気にしていた彼でもある。そしてその母親も。
「今日はもう遅いから、明日、マシューたちに会わせてやる」
「マシューたちは無事なのですか?」
「ああ。母親と一緒に隣の部屋で休んでいる」
「ありがとう、ございます……」
ここまでよくしてくれるなら、レナートという男は敵ではないのだろう。それに、聖女といってもそれは過去のこと。力を使えと言われても、そんな力はとっくに失ってしまった。彼が聖女の力を手に入れたいと思っているのなら、それは叶わぬこと。しかし、それを見返りに、助けてくれたのかもしれない。
「俺も、お前に聞きたいことはいろいろとあるんだが、今日はもう休め」
彼の手がぽふっと頭を撫でた。その手があまりにも優しくて、彼が聖女の力を狙っていると考えてしまった自分を恥じたくなる。それでも油断はできない。
「傷口は痛まないか?」
「傷?」
「マシューをかばって怪我をしたと聞いている。縫うほどではなかったが、それでも大きな傷だったから」
レナートが指さしたのは、ウリヤナの右腕である。そこには包帯がぐるぐるとまかれていた。
「はい。大丈夫です」
問われるまでわからなかったのだから、痛くはない。
「そうか。それはよかった。とにかく今日はもう休め。もう少し、水でも飲むか?」
それには首を横に振って答えた。
「俺はそっちで寝るから。何かあったら、呼んでくれ」
「はい。ありがとうございます」
その言葉を聞いたレナートは、口元を緩めた。何か言いたそうにしていたが「おやすみ」とだけ言って、寝台の周りの明かりを弱めていく。
ウリヤナはもう一度横になった。
彼のことがよくわからないし油断はできないと思いつつも、心の奥にあたたかな光が灯ったような気分だった。
太陽の光が、カーテンの隙間を狙って部屋に差し込んできた。
目を開けて身体を起こすと、寝台の脇に新しい着替えが用意されていた。
「目が覚めたか? 具合はどうだ?」
寝台の上でぼんやりとしているウリヤナに声をかけてきたのは、レナートだった。
「風呂の準備も整っている。どうする?」
「できれば、入りたいです。身体が埃っぽいような気がして」
「だが、その怪我があるからな。一人で大丈夫か? 手伝うか?」
そう言ったレナートの顔は、大真面目であった。
「だ、大丈夫です」
ウリヤナが顔を真っ赤にすると、レナートは「冗談だ」と笑う。だが、彼の冗談はわかりにくい。
ウリヤナが浴室を使っている間に、食事の準備も整えられていたようだ。
用意されていた簡素な空色のエプロンワンピースを身に着けた。
レナートに案内されて、食堂へと向かうと、そこにはマシューと彼の母親の姿もあった。
「おねえちゃん!」
「マシュー。それに、ナナミさんも……」
「ウリヤナさん。元気そうで安心しました」
母子と別れていたのはたった一晩であったはずなのに、数年ぶりの再会のような気がした。
「おねえちゃん。あのね、おじさんが助けてくれたんだよ」
「マシュー。俺はレナートだ。おじさんではない。何度言ったらわかる?」
よっぽどおじさんと呼ばれたのが悔しいのだろう。そんな思いが、言葉の節々から感じられた。
「あ。レナートが助けてくれたんだよ」
わざわざそうやって言い直すマシューは素直な子である。
レナートはどこか苦々しい表情をしているが。そんなやり取りを見ているだけで、ウリヤナの口元も綻んでしまう。どこか微笑ましいのだ。
「積もる話はあるだろうが、先に朝食にしないか? マシュー、腹が減ってるだろう?」
「うん。ぼく、お腹ぺこぺこ」
マシューがお腹に手を当てると、レナートの目が糸のように細くなった。どことなく柔らかな表情を浮かべている彼に、おもわず目を奪われた。
人は空腹になっていると、考えも悪い方向へと向かってしまうらしい。腹が満たされるにつれ、頭の中もすっきりとしてくる。
「ところで、お前たちはソクーレに向かうと言っていたな」
レナートは目の前に座っているマシューに尋ねた。
「ソクーレは、おかあさんが生まれたところだよ」