プロローグ
レナートははらりと落ちてきた癖のある黒い前髪をかき上げた。
一つに結んだ髪が胸元に流れてきたため、手で払いのける。長くて鬱陶しい髪だとは思いつつも、髪にも魔力が宿ると言われているこの国では、魔術師には長髪が多い。
そろそろ産まれそうだと産婆から言われ、部屋を追い出されたのは一時間ほど前。
その間、扉一枚隔たれた向こう側からは、妻であるウリヤナの苦しそうな声が聞こえてくる。
最後までお腹の子に魔力を注ごうとしたら、産婆に止められた。
『この子は、もう十分に旦那様の魔力に馴染んでおりますよ。これ以上の魔力を注ぐと、ウリヤナ様のほうが持ちません』
レナートにとっては初めての子である。そのため、いつまでにどこまでの魔力を注いだらいいのかもわからなかった。
部屋を出る間際に、ウリヤナはレナートに向かって手を伸ばしてきた。彼はその手を両手で握りしめた。
『部屋の外で待っている。力になれなくて、悪いな……』
その言葉にウリヤナは首を横に振る。
彼女の鮮やかな勿忘草色の髪は一つで結ばれてはいるものの、寝台の上ではその先が広がっていた。汗ばんでいる額には、前髪がぺったりと張りついている。その汗を手巾で拭って、水を飲ませてから、レナートは部屋を出た。
無力であると感じた。
扉が閉まり、向こう側と遮断されてから、ずっとこの扉の前に立っている。
通路の天窓から見える空には、いくつかの金色の点が輝いている。
いつの間にか、夜になっていたのだ。
彼女の部屋へ向かったときは、まだ日が高く、作り出される影も短かったはず。お産がこれほど時間がかかるものであると、知らなかった。
『うっ……あっ……あぁああっ……』
定期的にウリヤナの苦しそうな声が耳に届く。その声の間隔もどんどんと短くなっているように感じた。
彼女は何時間も、こうやって苦しそうな声をあげているのだ。これがいつまで続くのか。さっぱりわからない。
レナートはいてもたってもいられず、扉の前をぐるぐると歩き始めた。この場で自分にできるのは何もないとわかっているが、それでも気が気ではない。そのたびに、髪が乱れ顔を覆う。気になれば払いのける。それの繰り返しだった。
しばらくそうやってうろうろとしていると、ウリヤナの声とは違う声が聞こえてきた。
『……んぎゃ……ん、ぎゃぁああ……』
確かめなくてもわかる。これは赤ん坊の泣き声である。
「ウリヤナ」
ばん、と乱暴に扉を開けて室内に入ると、産婆の腕の中にいる赤ん坊は、真っ赤な顔をして泣いていた。
「旦那様、男の子ですよ。おめでとうございます」
まだ何も身に纏っていない赤ん坊の肌も真っ赤だった。すべてが真っ赤である。
きっとこれが赤ん坊と呼ばれる由来なのだろう。そう思うと、顔が自然と綻んだ。胸の奥がぐっと締め付けられる。表現しがたい感情が、身体の底から湧き上がってくる。
「ウリヤナ……大丈夫か?」
レナートはウリヤナの側に寄り添って、彼女の顔をのぞき込む。
「えぇ……なんとか、無事に産まれました。あなたのおかげね」
白いおくるみに包まれた赤ん坊が、ウリヤナの隣にやってきた。あれほど大きな声で泣いていた赤ん坊は、今では両手をぎゅっと握りしめてすやすやと眠っている。
「私たちは片づけをしてまいりますので。何かありましたら、すぐにお呼びください」
お産に立ち合った者たちは、レナートにそう声をかけて部屋をでていった。それが彼女らなりの気の遣い方なのだろう。
その背を見送ったウリヤナがそっと口を開く。
「レナート……ありがとう。私とこの子を受け入れてくれて……」
「言っただろう? 俺の国では血の繋がりよりも、魔力の繋がりを重視する。例えこの子が、俺の血を引いていないとしても、俺がずっと魔力を注ぎ続けていた。だから、この子は俺の子なんだ」
レナートは細い目をさらに細くして、産まれたばかりの赤ん坊を見つめた。しばらくそうしたあと、ウリヤナに向かって優しく微笑む。
彼女はぱっと碧眼を見開いたかと思うと、はらはらと涙をこぼした。
「ありがとう……」
それが心からの言葉であると伝わってくる。
「見てみろ。この子の髪は、俺と同じ黒色だ」
生まれたばかりの赤ん坊であるのに、その頭にはしっかりと髪の毛が生えていた。その色はレナートと同じ黒色。
「それも、あなたの魔力のせい?」
「そうだ。俺の魔力に馴染んだからだな」
レナートが、右手の人さし指で赤ん坊の拳をつんつんとつつく。ぱっと拳が緩み、レナートの人さし指をぐっと握りしめた。
「名前を決めなければならないな」
「そうね。レナートにお任せしてもいいかしら?」
「光栄だな。だが、二人で考えよう」
そこでレナートはウリヤナの涙を拭い、彼女に軽く口づけた。
彼女にも、やっと笑みが戻る。
「ウリヤナ……。赤ん坊を産んだばかりで悪いが。三か月後にはこの子のお披露目が待っている。できるだけ、準備は俺のほうですすめるが……ただ、そのつもりでいて欲しい」
「ええ。あなたの立場を考えれば、仕方のないことよね」
彼女は口元をゆるめた。
「すまない」
「どうして謝るの?」
「俺の都合に巻き込んでいる」
ウリヤナは首を横に振る。
「私も、私の都合にあなたを巻き込んだ」
だが、それすらレナートが望んだことでもある。
「私たち、夫婦になったのよね?……」
その言葉は、どこか不安そうにも聞こえた。
「あ、ああ。そうだな……」
「だから、私があなたの都合に合わせるのは、当たり前よ。夫婦だし、家族なのだから……」
ウリヤナは隣で眠る我が子を、慈愛に満ちた瞳でじっと見つめている。
「この子を産もうと決心できたのも、あなたのおかげ。ありがとう、レナート」
「礼を言うなら、俺のほうだ。こんなに可愛い子を授けてくれてありがとう。俺は……子を望めないと思っていたからな」
レナートはどこか苦しそうに言葉を吐いた。
子を望めない――それは、レナートを詳しく知る人物であれば、周知の事実でもある。だから、こうやってレナートの魔力を受け継ぐ子が誕生したのは、喜ばしいこと。
ひくひくと赤ん坊の瞼が動きだす。
「お、目を開けるのか?」
なぜかレナートの声が期待に満ちている。照れているのか、目尻がほんのりと下がっている。
「きちんと顔を見て、名前を考えような」
彼の声に導かれるかのようにして、赤ん坊はぱっと目を開けた。
どこか焦点の合っていないような目は、光が当たるとはっきりとした金色に見えた。
その瞳の色は、ウリヤナの碧色にもレナートの青色とも異なる。
その瞳は――
「金色の目……イングラム国の王族の証……」
ウリヤナがこぼした言葉に、レナートも反応する。
こうなるだろうとウリヤナもレナートも思っていた節はある。そう思っていても、口にしなかっただけで。
彼女は静かに目を伏せた。
「ウリヤナ。何度も言うが、この子は俺の子だ。俺と瞳の色が異なっていたとしても、俺の魔力と馴染んだこの子は、俺の子に違いはない」
レナートの長い指が、赤ん坊の頬を撫でる。
「はい……」
ウリヤナも赤ん坊の拳に指を近づけた。赤ん坊は、母親であるウリヤナの指をぎゅっと握りしめる。
「お披露目会にはイングラムの王太子も招待しような……」
「はい……」