混沌世界・バルハデスに降り立って
宇宙空間のような次元の狭間を抜けてたどり着いた場所は、見通しのいい草原だった。
「見渡す限り緑だな。おい女神、ここが混沌世界・バルハデスで間違いないか?」
「ううぅ……汚されたぁ。私、堕天使ならぬ堕女神になっちゃったぁ! もう終わりよ……私、このまま天界にも戻れず、一生ここで暮らして終わるんだわ……!」
ウルミナンテは下界に堕とされたことがよほどショックのようだ。
俺の隣で背を向けてしゃがみこみ、シクシク泣いていた。
「一生ここで終わるという話ではなかっただろう。世界救済をサポートして勤めを果たせば、天界に戻れるという話だったはずだ」
「きっ!」
ウルミナンテが剣のある眼差しで俺をねめつけた後、こちらへと一瞬にして詰め寄る。
「わかってるわよそんなこと! でもあんたが世界を救うのに、どれくらい時間を要するかはわかんないでしょ。それこそ一生かかっても無理かもしれないじゃない!」
「どうしてそういう話になる?」
俺はいぶかしげに、すぐ眼下にある整った顔を見下ろす。
ウルミナンテは大胆に垣間見える深い谷間と、長い一本の三つ編みを揺らしながらさらに詰め寄る。同時にフローラルないい香りが鼻をついた。
「いい? ここバルハデスは混沌世界って言われてるの。かなりの数の強力な悪魔と、そいつらに媚びへつらう悪人たちに永らく支配されてるからそう呼ばれてるわ」
「……つまりバルハデスを救うには、数いる強力な悪魔を倒せばいいということだな」
「はっ、簡単に言ってくれるじゃない」
やれやれと呆れた様子であざ笑うウルミナンテ。
彼女は腕組みした両腕で、ただでさえドレスからこぼれ落ちそうな膨らみをたっぷりと隆起させながら、
「だいたい、それなりの力があって勇者に選ばれたって言ってもあんたは一人じゃない? 一人でどうにかできるほど、バルハデスに巣食う悪魔たちは簡単にはいかないんだから。……今まで天界が何人の勇者を送りこんできたと思ってるんだか」
「今の話を聞けば世界救済のハードルが高いことはわかった。だが俺は一人じゃない。お前と俺とで二人のはずだが?」
「えっ……それは」
力を持ったばかりに天界で浮いてしまったウルミナンテは、今まで誰かに必要とされることがなくずっと一人だったという。
認められたようで嬉しかったのか、彼女は頬をわずかに紅潮させながらそっぽを向き、落ち着かない様子で金糸のような前髪をくるくるといじる。
「な、なによ、わかってるわよそれくらい。……二人で世界を救う。そんな当たり前のこと、わざわざ口にするのやめなさいよね」
おどおどする可愛らしい様を見ていると、姉のシルフィーヌが甘やかしてしまうのもわからないまでもない気がした。
俺はその様子を見てわずかに微笑んだ後、
「おい女神、それよりさっきの気になる話だが」
「『女神』じゃないわ。ウルミナンテよ。あんた、ちゃんと相手は名前で呼ぶよう教わらなかったの?」
「悪かった、ウルミナンテ。だがそれはお前にも言えることだ。俺のことはネシスでいい」
「ふっ……。いいわネシス、どうせ天界じゃ私は力を持て余したままだったし、下界行きの件は特別に流してあげようじゃない。仕方ないから、これからあんたをサポートしてあげるわ」
髪をかきあげながらの余裕ぶった物言い。
とても生意気ではあるが、腐っても美人なだけに画にはなっている。
「協力感謝する。それで、さっきの話の続きだが……天界は以前にも、何人かの勇者をバルハデスに送り込んでいたのか?」
「ま、気になるわよねそれ。その通りよ。でも残念ながら、誰一人として世界を救済できた者はいなかった。全ては天界を裏切り、魔王を殺してその力を取り込んだ元勇者・ギグブリードの力が強大すぎるせいよ」
彼女は美しい白翼に留まろうした蝶を追い払いながら吐き捨てるように言う。
俺はわずかに目を見開く。
「なに? 元勇者がこの世界の悪の根源と言うのか?」
ウルミナンテの話によると、ギグブリードはバルハデスに送り込まれた一人目の勇者だったが、天界を裏切り魔王に代わってこの世界を支配するようになったという。
「ギグブリードの厄介なところはね、ただでさえ厄介なその力を配下の悪魔や人間に分け与えて、不穏分子が絶対に力では抗えないようにしていることよ。おかげでもう何百年もの間、やつの支配体制が続いてるってわけ」
「なるほど、厄介ではあるな……」
俺はそう言いつつ、彼女の頭から足先までを眺める。
ウルミナンテがケダモノでも見るような目で俺を見つめ、自身の体を抱きしめた。
「ちょっと、なによじろじろ見て……!」
「いや、ウルミナンテは天界の不良という話だったが、この世界について詳しいと思ってな。堕女神なりに勉強しているとは殊勝だな」
直後、俺のはるか後方にある洞窟の一部が爆音とともに崩れ落ちていた。
俺の頬をかすめて放たれたウルミナンテの雷撃の仕業だ。
「ふふふふふ。ネシス、次その言葉を口にしたら隙をついてでも殺すから。わかったわね?」
俺の顔に向けられた彼女の掌には稲妻が迸っている。
俺とウルミナンテの実力は言うまでもなくこちらの方が上だ。
だが、さすがに俺でも隙をつかれては分が悪い。
……出会った時の振る舞いからして堕女神なのは言うまでもないが、多少言葉には気をつけておくとしよう。
「悪かった。以後、気をつけよう」
「わかったならいいわ。今のは忘れてあげる」
ウルミナンテは手を下ろすと仕切り直すように咳払いをする。
「褒めてくれるのは嬉しいけど、私が詳しいのはこの世界くらいよ。天界で管理している世界はいくつもあるけど、バルハデスほど力で支配された世界ってなくて興味深いのよね〜」
「楽しげに語るんだな」
「だって弱肉強食の世界よ? 強い者が正しい。つまりそれって、私みたいな腕自慢からすれば最高じゃない? ただそれだけで価値があって、周りにも認めてもらえるんだから……」
自嘲的に苦笑するウルミナンテ。
俺にもあてはまる考えだった。
前世では力があっても拒絶しかなく、周囲に認められるなんてことは一切なかった。
逆に力はあっても傷つけられるのが当たり前で、何も悪事を働いていないにもかかわらず逃げるしか選択肢がなかった。
「なるほど、確かに最高だな」
この世界では、存分に力を発揮しても誰にも咎められない。
強い者が正しい。
もう力を隠す必要もなければ、正体がばれることを恐れて無駄死にするようなこともない。
俺はあらためて自分が来た世界がどういう場所かを実感し、高揚を覚える。
そんな俺の心中を察してか、ウルミナンテが冷たく釘を刺す。
「でも一応言っとくけど、力を信奉しすぎないことね。なんていうか、あんたってあいつと似てるのよね」
「あいつ? 誰のことだ?」
「……私、ギグブリードと会ったことがあるのよ。あいつの名前、姉様の前では禁句だけど、実力を兼ね備えた自身家だったわ」
鬱陶しそうに髪をかきあげる彼女は吐き捨てるように言う。
あまり思い出したくない過去なのかもしれなかった。
「力に溺れた成れの果てが、この世界の現魔王ってわけか。……肝に命じておく」
と、言い終わらないうちにウルミナンテが上空に飛翔していた。
「どうした?」
「向こうよ! 来るわ。私の予想だとA級ってとこかしら!?」
俺の真上に飛翔しているため色々丸見えなわけだが、本人は興奮してそこまで気が回っていない様子だ。
ウルミナンテは好戦的な笑みをたたえ、子供のようにわくわくした面持ちで何かを待ち構えている。
視線を彼女と同じ方向に移した時だった。
先ほどウルミナンテが破壊した洞窟。
その上部が突如として内側から破壊され、岩塊が周囲に飛散する。
くぐもったけたたましい咆哮が上がり、洞窟内から巨大な何かが飛び出してきた。
それは大きな両翼を羽ばたかせ、宙に浮いて気炎を口から吐いている。
「やっぱり出たわね、ワイバーン! A級のドラゴンよ。一度力比べして見たかったのよね〜♪ てわけで……一番槍いただきー!」
柔らかそうな唇をぺろりとひと舐めした後、ウルミナンテがドラゴンへと向かっていく。
天界の不良と言われるだけあって、とんだ戦闘狂だった。
「ドラゴンか。面白い」
とはいえ、あれほどでかい敵と戦ったことがない俺も、ウルミナンテのことは言えない。
初めて一切を気にすることなく力を使える好機に恵まれ、激しく胸が高鳴っていた。
俺は湧き上がる衝動に突き動かされ、黒い体表のワイバーンに向かって手をかざす。