軒下の会盟
春の息吹が、白北山地にゆっくりと広がっていた。雪解けが進み、山肌には緑が戻りつつある。山城の麓では、梅の花がようやく咲き始め、時折ウグイスの鳴き声が静寂を破るように響き渡った。
その日、山城には、近隣各地から小土豪たちが集まっていた。利雨の招集に応じてやってきたのだ。彼らは、驢馬に乗ったり、あるいは徒歩で、険しい山道を登ってきた。多くの長は、質素な服装で、単身でやってきていた。しかし、大滝村の長である源吉だけは違った。武士に近い装いで、供を一人従えて、堂々と山城へと入ってきたのだ。
山城の中心にある本殿の軒下は、綺麗に掃除され、蓆が敷かれていた。簡素ながらも、威厳を感じさせる空間。利雨は、その場所で小土豪たちを迎え入れる準備を整えていた。菊池の助言を受け、服装を整え、堂々とした態度で臨むことを心がけていた。
小土豪たちは、それぞれに思惑を抱きながら、山城へと集結した。時には境界や水利のことで争うこともある彼らにとって、この会合は緊張感に満ちたものだった。互いに牽制し合いながらも、今回は皆が利雨の出方を探っているようだった。
「…あの若造が、新たな領主か。大丈夫か?」
「…上桐家からの分家筋だそうだ。スキルを持っていると聞いたが、本当だろうか?」
小土豪たちの間で、不安げな声が囁かれる。彼らの視線は、利雨に注がれていた。
利雨の側には、緊張した面持ちの治郎兵衛が控えていた。今日、彼には太刀持ちという大役が任されている。いつもは元気いっぱいの治郎兵衛だが、今日はいつになく緊張しているようだ。
利雨は、深呼吸をして気を引き締めた。小土豪たちの視線を感じながら、彼は静かに決意を固めた。
「今朔日、ここに集まってくれた皆に、感謝申し上げる。菊池からも聞いていると思うが、我が父上桐黄祇邦伯は、北方の柵葉国との緊張が高まっていることを憂慮し、スキルの加護を得たこの私を白北小丞に任じ、この地のものを取りまとめ北への防備を固めるように任ぜられた。今一つ問うが、恐れ多くもこの黄祇国に安寧をもたらしたわが父の深慮に敢えて背きたいものはおるか。」
利雨は、精一杯の虚勢をはって力強い声を出した。小土豪たちの視線が、さらに鋭くなる。
利雨の言葉が、本殿の軒下に重く響いた。小土豪たちは、互いに顔を見合わせ、誰もが口を噤んだ。誰もが、利雨の言葉に潜む、逆らえばどうなるか分からないという脅しを感じ取っていた。
重い沈黙の中、一人だけ堂々と声を上げたのは、大滝村の長、源吉だった。
「小丞様のお言葉、しかと承りました。我ら白北山地の者に、上桐邦伯様の深慮に背く意思など毛頭ございません。」
源吉は、一礼した後、ゆっくりと続けた。
「しかしながら、我々もこれまで通り、この白北山地で暮らしていきたいと考えております。小丞様は、具体的に我々に何を求められるのでございましょうか?」
源吉の言葉は、他の小土豪たちの気持ちを代弁したものでもあった。彼らは、利雨の言葉に押されながらも、自分たちの権利や生活を守りたいという思いは捨てていなかったのだ。
利雨は、源吉の言葉に少しも動揺を見せず、静かに頷いた。
「もっともな問いかけだ、源吉殿。私は、この白北山地に住む者を柵葉国の脅威から守るために来たのだ。しかし、柵葉国との争いが決まったわけではない今の時点では、上桐本家が直接出張るのは悪手であることは理解できるな。ゆえに、スキルの加護がある私が、少数で来たという訳よ。」
小土豪たちは一応納得しているようにうなずく。
「とはいえ、いくらスキルの加護とはいえ、3名では徒手空拳。そこでだ、改めてお主らの所領はこの、白北小丞の名で安堵しよう。代わりに、相応の負担、つまり黄祇国では当たり前の五公五民を復活させる!」
利雨は、小土豪たちを見渡しながら、力強く宣言した。
小土豪たちの間に、どよめきが起こった。五公五民とは、黄祇国で定められた制度である。在地の領主の所領を上桐家が安堵する一方で、年貢米や労役、軍役を果たしてもらうことである。しかし、白北山地では、長らくその制度がおざなりになっており、小土豪たちは、その義務を回避してきたのだ。
利雨の宣言は、彼らにとって予想外のことであり、同時に大きな不安をかき立てるものでもあった。
「五公五民… それは、我々にとって大きな負担となりますぞ!」
一人の小土豪が不安げに声を上げると、堰を切ったように他の小土豪たちも口々に不満を訴え始めた。
「そうだ! そんなことをすれば、我々は生きていけませんぞ!」
「長年、この地で苦労して築き上げてきたものを、なぜ奪われなければならないのだ!」
本殿の軒下は、たちまち騒然となった。小土豪たちは立ち上がり、怒号が飛び交う。利雨の目論見は、早くも崩れ去ろうとしていた。
その場の空気を一変させたのは、菊池だった。
「静まれっ!!」
菊池の鋭い声が、小土豪たちの怒号を掻き消した。彼の剣呑な眼差しに、小土豪たちは思わず言葉を詰まらせた。
菊池は、利雨の前に一歩進み出て、厳しい口調で言った。
「小丞様のお言葉は、上桐邦伯様の御意志である。黄祇国の法に背くことは、上桐家に弓引くも同然。それでも、お前たちは逆らうというのか!」
菊池の言葉は、小土豪たちの心に重く突き刺さった。彼らは、上桐家の力を恐れてはいても、まだ利雨の実力は未知数だった。しかし、菊池の言葉によって、利雨の背後には強大な力を持つ上桐家が控えていることを改めて思い知らされたのだ。
利雨は、菊池の言葉に乗じて、さらに畳みかけるように言った。
「菊池の言う通りだ。私は、この白北山地の安寧を願っている。だが、もしも皆が協力してくれないのであれば…」
利雨は、言葉を切って小土豪たちを見据えた。
「…いざとなれば、上桐本家が、この地を討伐することになるかもしれん」
利雨の言葉は、脅しではなく、現実的な可能性だった。小土豪たちは、顔面蒼白になり、恐怖に震えた。彼らは、上桐家の軍勢が白北山地に攻め込んでくる様を想像し、戦慄したのだ。
しかし、利雨は、彼らの恐怖心を煽ることだけが目的ではなかった。
「…とはいえ、急な制度の導入が受け入れがたいのも理解できる。そこで、各集落の実態を踏まえ、できる範囲で負担をしてもらうという方法を取ろうと思う。ただし、実態のごまかし、ましてや隠田は決して許されぬことは理解してほしい。」
利雨は、小土豪たちに歩み寄り、妥協案を示した。その瞬間、間髪入れずに源吉が立ち上がった。
「小丞様のお言葉、ありがたく承ります。確かに五公五民は、我らも本来ならば果たすべき義務。我ら”大滝村”は、小丞様のもとに仕えさせていただきます。」
源吉は、事前に菊池と交わした密約通り、利雨への服従を表明した。白北山地の最大集落であった大滝村の突然の表明に、他の小土豪たちは騒然となった。
「な、なんだって!?」
「大滝村が、なぜ…」
彼らは、顔を見合わせ、困惑を隠せない。大滝村は、白北山地で最も有力な集落であり、源吉はその長として他の小土豪たちにも一目置かれる存在だった。その源吉が、あっさりと利雨に服従を誓ったのだ。
すかさず菊池が、他の小土豪たちを見渡し、
「源吉殿の言葉が聞こえぬのか。今こそ過去の不義を悔い改め、小丞様にお誓い申すのだ。」
小土豪たちは、源吉の行動と、菊池や利雨の威圧感に押され、次第に抵抗する意志を失っていく。
「…わ、わしも…」
「…私も、小丞様に従いましょう」
小土豪たちは、次々と利雨への服従を誓った。中には、まだ不満げな表情を見せる者もいたが、大滝村が率先して従った以上、もはや抵抗することもできないと悟ったようだ。
こうして、利雨は、白北山地の小土豪たちをまとめ上げ、新たな統治を開始した。それは、容易な道のりではなかったが、利雨や菊池の強い意志と、そして源吉との妥協・密約によって、ついに成し遂げられたのだ。
ようやくプロローグが終わりました・・・