服従と密約
「菊池、頼むぞ。集落の長たちを山城に招集してくれ」
利雨の言葉に、菊池は深く頭を下げた。
「ははっ! お任せください、若、いえ、小丞様」
菊池は、改竄された治認状の写しと僅かな食料を携え、驢馬と共に山城を出発した。
白北山地の道は険しかった。雪解け水が流れるぬかるんだ道、切り立った崖、鬱蒼とした森。驢馬の足取りも重く、菊池は時折自ら降りて、手綱を引いて歩いた。
「…この山道は、いつ通っても厳しいな。だが、小土豪たちをまとめるためには、この苦労も厭うてはおれん」
菊池は、険しい山道を進むたびに、そう自分に言い聞かせた。
山間部に点在する集落は、どれも小規模なものだった。質素な家屋が並び、わずかな土地を縫うように作られた畑や田んぼで、村人たちが細々と生活を営んでいた。
「ここが、おそらく赤岩集落か。まずは、長に会わねば…」
菊池は、集落の中で一番大きな家屋と思われる建物へと向かった。戸の前で名乗りを上げると、しばらくして、粗末な衣を着た貧相な農民たちがおずおずと出てきた。
「私は、上桐邦伯様より白北山地の領主を任命された小騨白北小丞の使者、菊池と申します。小丞様は、近隣の長の皆様に山城へとお集まりいただき、今後の白北山地の治め方についてご相談したいとのお考えです」
菊池は、堂々とした態度で告げた。
屋敷の中から出てきたのは、白髪交じりの髭をたくわえた老齢の男だった。赤岩集落の長である。彼は、菊池の鋭い眼光と腰に差した立派な刀に、只者ではないことを感じ取った。
「(この菊池という使者、ひとかたならぬ迫力よ。腰の刀もわしの鈍刀とは全く違う…。とはいえ、ここ白北山地は長く自治で治めてきた土地…)」
老齢の長は、内心でそう呟きながら、口を開いた。
「領主様でございますか。それは初耳でございます。お呼びとあれば伺うのはやぶさかではございませんが…」
彼の言葉には、警戒心と探るようなニュアンスが込められていた。
菊池は、その反応にひるむことなく、静かに微笑んだ。
「…では、翌朔日、山城でお待ちしております」
菊池の言葉には、断ることのできない重みがあった。
山城の本殿軒下、修復されたばかりの空間で、利雨は一人、夕日に照らされながら考え込んでいた。周囲には、菊池が持ち帰った山菜や薬草が吊るされ、ほのかな香りが漂っている。西の空に沈みゆく夕日は、山々を赤く染め、廃墟から蘇りつつある山城をオレンジ色の光で包んでいた。山から吹き下ろす風が、本殿の軒下を吹き抜け、物寂しい音を立てる。
利雨の耳には、先ほど菊池から受けた報告が、まだ重く響いていた。
「小丞様、赤岩、黒谷、白峰の三つの集落を回って参りましたが、どの長も消極的な態度を示しております」
菊池の言葉に、利雨は深く息を吐いた。
「…そうか。やはり、簡単に事は運ばんな」
「彼らは、代々この地で暮らしてきた者たち。新参者をすんなりとは受け入れられないのでしょう」
菊池の言葉は、利雨の予想通りだった。白北山地の小土豪たちは、ほとんどが戦いに慣れていない農民たちで、荒事を好むような者ではなかったが、長らく自治で治めてきたこの地に、突然現れた新領主を簡単に受け入れるはずがない。菊池の迫力に圧倒され、招集には応じているものの、彼らの心からの服従を得ることは難しそうだ。
「このままでは、白北山地をまとめ上げることなどできん。何か手を打たねば…」
あくる日、菊池は、白北山地の集落の中でも最大の規模を誇る大滝村を訪れた。
山間の谷間に広がる村は、他の集落と比べて明らかに豊かだった。田畑は広大で、家屋もしっかりとした作りをしている。村の中心には、立派な門構えの屋敷が建っていた。それは、大滝村の長、源吉の住まいだった。
菊池は、源吉の屋敷に通され、対面を果たした。源吉は、菊池からしても十分に力量を感じさせる人物だった。老獪で計算高く、簡単に利雨に服従するつもりはないだろう。しかし、彼を取り込むことができれば、他の小土豪たちも従わせることができる可能性は一気に高まる。
「大滝村の長、源吉殿とお見受けする。私は、小騨白北小丞の使者、菊池と申す」
菊池は、堂々とした態度で名乗った。
「…菊池殿か。わざわざのご足労、ご苦労様でありましたな」
源吉は、鋭い眼光で菊池を見据えながら、落ち着いた口調で応じた。
「早速だが、本題に入らせてもらおう。小丞様は、白北山地の平和と安定のため、近隣の長たちの協力を得たいと願っておられる。ついては、山城での会合に出席し、小丞様に忠誠を誓っていただきたい」
菊池は、利雨との相談内容を元に、単刀直入に切り出した。
「…忠誠とな。それは、なかなか重い言葉でございますな。我ら大滝村を含め、白北山地の者は、代々この地で自治を行って参った。たとえ小丞様であろうと、それを曲げる理がございますかな」
源吉は、予想通り、簡単に首を縦に振ろうとはしなかった。
菊池は、少し間を置いてから、
「…それは承知している。そこで、小丞様から特別な提案がある。」
「…ほう、特別な提案。」
源吉の目が、わずかに輝いた。
「承知の通り、黄祇国では五公五民だ。しかし、白北山地はそれがおざなりになってきた。これには、小丞様はもちろん、上桐邦伯様までもが深く懸念されている。」
菊池はあえて建前を強調した。そしてそのあと、
「であるから、大滝村も含めて、白北山地の集落には五公五民に戻っていただく。」
「な、」
源吉が声を荒げた瞬間、
「しかし、大滝村だけは、向こう3年間、年貢を免除すると小丞様はお考えだ。むろん秘密裏にではあるが。」
菊池は切り札を切った。源吉は気勢を制されてしまった。
「それは聞き捨てならんな」
年貢の免除は、大滝村にとって大きな利益となる。しかも、この秘密をうまく使えば、3年に限らず、大滝村だけ特権的な扱いを獲得できる可能性さえあった。
源吉が思案に沈んでいると
「…その代わり、山城での会合では、真っ先に小丞様への服従を表明していただきたい。また、他の集落の長には絶対に話さない。それが条件だ」
菊池は、冷静な口調で条件を提示した。
源吉は、しばらく考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「…よかろう。その条件、飲もう」
こうして、菊池と源吉の間で、密約が結ばれた。それは、白北山地の勢力図を大きく変えることになる、重要な一歩だった。