鈍雲の出立
利雨は、重い足取りで荷物をまとめた。簡素な旅支度を終えても、心は晴れなかった。外に広がるのは、上桐家の雄大な庭園。長い冬が終わり、芽吹き始めた木々や花々までもが、かつての彼を嘲笑うかのようであった。
「…白北山地か」
声に出してみると、言葉の響きは空虚で、冷たい北風が吹きすさぶ荒涼とした土地を想像させる。家人同然の待遇とはいえ、上桐家での生活に慣れてしまった利雨にとって、辺境の地での生活は想像を絶する苦難の連続に違いない。
「若、出発の準備が整いました」
老侍の菊池が、静かに部屋に入ってきた。その表情は硬く、眉間の皺が深い。利雨は視線を落とし、小さく頷いた。
「ああ、そうか」
言葉少なに答える利雨の態度に、菊池は胸を痛めた。若は、無用のスキル「オートマタ」を授かったことで、どれほどの苦悩を抱えていることか。
部屋の外では、小騨家の遺臣たちが集まり、ひそひそと話し合っていた。彼らの表情には、落胆と不満が色濃く浮かんでいる。
「…あのスキル、本当に役に立つのか?」
「オートマタ…そんなもの、聞いたこともない」
「若には申し訳ないが、こんなスキルで小騨家復興など夢物語だ」
彼らの声は小さくとも、利雨の耳にははっきりと届いた。自分自身への失望と、家臣たちの不信感が重くのしかかり、彼の心を蝕んでいく。
「若、お気持ちは察しますが、どうか…」
菊池は、利雨の肩に手を置き、励まそうとした。
「今は、ただ白北山地へ赴くしかありません。そこで、新たな道を切り開くのです」
利雨は、顔を上げずに答えた。
「…新たな道、か」
彼の声には、希望の色はなかった。ただ、諦観と、運命を受け入れるしかない無力感が漂っていた。
「…行こう、菊池」
利雨は、重い足取りで部屋を出た。遺臣たちの落胆した表情が、彼の心をさらに重くする。
上桐家を出た一行は、北へ向かって歩みを進めた。道は険しく、先ほどまで晴れていた空はどんよりと曇になっていた。北海から冷たい風が吹きすさび、まるで彼らの行く末を暗示するかのように、不吉な雲行きだった。
利雨は、驢馬の背に揺られながら、何とか気持ちの整理をつけようとしていた。彼は、小騨家最後の血筋として、弱音を吐くわけにはいかなかった。
上桐家から渡された金は、道中の食糧確保には十分な額であった。それでも、利雨一行の旅は決して楽なものではなかった。山深い道では、荷車が通れず、険しい山道を大きく迂回しなければならなかった。道標も乏しく、幾度となく道を失い、彷徨うこともあった。
寝泊まりも不自由を極めた。国人の城や館に宿を借りることができれば、まだ良い方で、農家の粗末な家や、古びた寺に身を寄せることもあった。最悪の場合、野宿を強いられ、冷たい夜露に震えながら夜を明かすこともあった。
「いつになったら、この旅は終わるのか」
若い遺臣の一人が、疲れ切った顔で呟いた。彼の足取りは重く、顔色は土気色に染まっていた。
「我慢しろ」
菊池は、厳しい口調で彼をたしなめた。
「我々は、若をお守りする身だ。どんな苦労があろうとも、耐え忍ばねばならぬ」
菊池の言葉に、若い遺臣は不満そうではあったが、黙って歩みを進めた。
幼いころから、過分の期待を負い、それに応えようと武芸にも励んだ利雨にとっては、道中の苦労は、肉体的には辛くとも、精神的にはむしろ耐えられるものだった。真に利雨を苦しめたのは、人々の視線であった。
利雨のスキル「オートマタ」と白北山地への追放の噂は、すでに風に乗って黄祇国内の一部国人には広まっていた。通過挨拶のために立ち寄った国人の館では、主人は表面上は丁重に一行を迎えたものの、その眼差しには憐れみや嘲りが潜んでいた。
「上桐家の御曹司であらせられると。さぞかしご苦労であられるでしょう」
ある国人の老臣は、皮肉めいた笑みを浮かべながら、利雨に声をかけた。国人も家臣の慇懃無礼な物言いを止めることはなかった。
「しかし、あのスキルでは…白北山地の開拓も容易ではないでしょうな」
利雨は、その言葉に胸が締め付けられる思いがした。彼は、何も言い返すことができなかった。ただ、頭を下げ、屈辱に耐えるしかなかった。
(…父上ならば、こんな仕打ちは受けなかっただろう)
利雨は、心の中で呟いた。彼の父、上桐黄祇邦伯高嗣は、稀代の傑物であり、誰もがその才覚と実力に一目置き、国人たちにとっては頼もしくもあり、恐ろしい存在だった。だが、利雨は違った。彼は、無用のスキルを授かったことで、父とは比べ物にならないほど無力な存在だと、否応にも痛感させられた。
白北山地を遠くに見る、山深い道を進む利雨一行。木々の間を縫うように進むと、辺りは次第に薄暗くなっていった。不気味な静寂に包まれ、鳥のさえずりさえ聞こえなくなっていた。
その時、前方を歩いていた若い家臣が、足を止めた。
「…若、あれは…」
彼が指差す先には、木々の影から姿を現した魔物化したオオカミの群れ。鋭い牙を剥き出しにし、赤く光る眼で一行を睨みつけている。
「魔物だ!」
遺臣たちは、咄嗟に刀を抜き放ち、身構えた。しかし、突然の襲撃に動揺を隠せない。
魔物たちは、恐ろしい勢いで襲いかかってきた。鋭い爪と牙が遺臣たちの体を切り裂き、悲鳴が山々にこだました。
「若、お下がりください!」
菊池は、利雨の前に立ちはだかり、冷静に魔物たちと対峙した。老齢とは思えぬ素早い動きで刀を振るい、魔物の攻撃をかわしながら反撃していく。
しかし、魔物の数は多く、遺臣たちは次第に押され始める。若い家臣の一人が、魔物の牙によって腕を深く傷つけられ、その場に崩れ落ちた。
「…うっ!」
さらに別の遺臣が、魔物の爪によって足を払われ、地面に倒れ込んだ。彼は起き上がろうとするも、激痛に顔を歪め、動けなくなってしまった。
利雨は、恐怖と怒りで体が震えるのを感じた。彼は、何もできない、ただ見ていることしかできない自身の無力さに、激しい絶望感を覚えた。
「…くそっ!」
魔物たちの追撃を振り切り、利雨一行は森の奥深くへと逃げ込んだ。彼らは、傷ついた仲間を背負い、疲れ切った体を引きずりながら、ただひたすらに歩みを進めた。
日が暮れ、あたりは闇に包まれた。彼らは、洞窟を見つけ、そこで一夜を過ごすことにした。
「…すまない」
利雨は、傷ついた家臣たちを見つめながら、声を絞り出した。
「私のせいで、こんな目に遭わせてしまって…」
彼の心は、深い絶望と後悔の念で満ちていた。彼は、自分には何もできない、何も守れない、リーダーとしての責任感と、自身の無力感でもはや利雨の心は折れる寸前だった。
「若、何を言っているのです!」
菊池は、厳しく利雨を叱咤した。
「我々は、皆、覚悟を決めて、この旅に出たのです。ここで諦めては、亡き小騨家のご先祖様にも、顔向けができません」
菊池の言葉に、利雨は顔を上げた。その目からは涙があふれそうになっていた。
「…だが、私は…」
「若には、まだやるべきことがあります」
菊池は、利雨の両肩を強く掴み、まっすぐに見つめた。
「たとえ白北山地が、どんなところであろうと、そこが我らの新たな本貫なのです。そこから、小騨家の繁栄を成し遂げる。若なら必ずできると信じておりまする!」
利雨は、菊池の言葉に、かろうじて涙をこらえた。彼ほどの剣の腕があったから、あの魔物の襲撃から生きながらえることができた。彼の赤心をむげにはできない、ただそれだけで踏みとどまった。
「…わかった、菊池。皆も取り乱してすまない。」
先の魔物の襲撃で3人を失い、もはや片手程度となった家臣はただ俯いていた。それが、失望なのか限界に達した疲労によるのかは誰にもわからなかった。




