金戸湊への旅
白北の山を下り、数日ぶりに人の営みに満ちた地に足を踏み入れると、むせ返るような潮の香りが菊池の鼻腔を突いた。金戸湊。ここは、白北山地の静寂とはあまりにかけ離れた場所だった。異国の言葉、威勢のいい商人たちの怒声、荷を運ぶ水夫たちの掛け声。あらゆる音が混じり合い、渦を巻いている。
菊池はすぐには動かなかった。旅の垢を落とすふりをして目立たぬ茶屋に腰を据え、周囲の会話にただ耳を澄ます。どの網元が羽振りがいいか、どの問屋が近頃傾きかけているか、どの商人が信用に値し、あるいは唾棄すべき輩か。半日もそうしていれば、この湊町の力関係がおぼろげながら見えてくる。彼の老練さは、戦場だけでなく、こうした腹の探り合いでも鈍ることはなかった。
情報を吟味し、菊池はまず湊で一、二を争うという大店「万代屋」の暖簾をくぐった。しかし、店の番頭は菊池の古びた身なりを一瞥するなり、あからさまに侮蔑の目を向けてきた。
奥に通された主人は、贅肉のついた指で菊池が差し出した魔石の欠片をつまみ上げる。
「ほう。ただの光る石ころではないか。物好きに売れば、いくらかにはなろうが……この程度で当家の主人に会えると思ったか」
その言葉とは裏腹に、主人の瞳の奥には隠しきれない貪欲な光が揺らめいていた。価値を正確に理解した上で、意図的に買い叩き、こちらの足元を見ようとしている。それが手に取るように分かった。
菊池はもはや何も言わず、卓上の魔石を静かに懐へとしまう。そして深く頭を下げるでもなく、軽く一礼だけしてすっくと立ち上がった。
「お引き取りを」
主人の不機嫌な声が背中に刺さるが、菊池は振り返りもしなかった。
万代屋を出て、潮風に混じる魚の匂いを胸に吸い込む。そんな菊池に、不意に威勢のいい声がかけられた。
「お客さん、旅の方かい? 万代屋で嫌な思いでもしたようだね。あの店は、客の懐具合で態度を変えるんで有名なんだ」
声の主は、小さな乾物屋の軒先で商品を並べていた、人懐っこい笑顔の若者だった。年の頃は二十歳そこそこか。
「もし、筋の通ったでっかい商いがしたいんなら、『海渡屋』の弁蔵旦那を訪ねてみな。あの人は、相手がどこの誰だろうと、品物と話の中身でしか判断しねえ人だからさ」
見返りを求めるでもない、からりとした物言い。菊池は若者の顔をじっと見つめ、小さく頷いてその場を離れた。
教えられた海渡屋は、港の一角にどっしりと根を張るように建っていた。店の構えは立派だが、万代屋のような悪趣味な華美さはない。実直な気風が、建物そのものから滲み出ているようだった。
奥に通されると、そこには日に焼けた肌と鋭い眼光を持つ、体格のいい男が座していた。網干弁蔵。その男が持つ空気は、そこらの商人とは明らかに異なっていた。
「用件を聞こうか」
弁蔵の声は、低く、よく通った。
菊池は多くを語らず、ただ名乗った。「白北の山から使いに来た、菊池と申します」
そして懐から布に包んだ魔石の欠片を一つだけ、静かに卓上へと置く。
弁蔵はそれを指先でつまみ上げ、光にかざし、じっとりと眺めた。表情は変わらない。だが、その目に確かな鑑定の光が宿っていた。
「……ほう。こいつは珍しい。で、この石ころが、一体何のようだ?」
「ご覧いただいた物より良い品を、まとまった数、当方で持っております」
菊池は淡々と告げた。
「他にも、山の産物を商う道筋を探しておりましてな。信用できるお方に、まとめてお任せしたいと考えております」
その言葉に、弁蔵の目が初めて鋭く光った。彼は菊池の度胸と、多くを語らない態度を値踏みするように見つめる。やがて、その口の端がニヤリと吊り上がった。
「面白い! 話がでかすぎる。あんた、俺がその話を鵜呑みにすると思ってるのか? 俺があんたを信用する証はどこにある?」
試すような眼差しに、菊池は動じなかった。
「証はございません。ただ、当家の主は、義理を欠き、人を欺くようなお方ではない。それだけは、この菊池が命を賭して保証いたします」
揺るぎない覚悟を乗せた言葉が、部屋の空気を震わせた。
一瞬の沈黙の後、弁蔵は腹の底から豪快に笑い飛ばした。
「ククク……ハッハッハッ! 気に入った! あんたのその目、その覚悟! よかろう、その話、乗った!」
弁蔵は「まずは手付だ」と言い、ずしりと重い銭袋を菊池の前に滑らせる。
「残りは、品物を見てからだ。詳しい話は、あんたの『主』と直接させてもらいたい。近いうちに、うちの若い衆を使いに出そう」
契約が成立し、張り詰めていた空気がわずかに和らぐ。その時、弁蔵がぽつりとこぼした。
「だが、気をつけな。これだけの品だ、嗅ぎつける奴らも多いだろう。最近、この湊もきな臭くていけねえ。特に、左岸の連中が妙な動きをしてるって噂だ」
左岸――その名に、菊池の眉がわずかに動いた。
手付金を受け取り、深々と一礼して海渡屋を後にする。目的を果たした安堵と共に、弁蔵の最後の言葉が胸に重くのしかかっていた。湊町に渦巻く欲望と不穏な空気を背に感じながら、彼は主君の待つ白北山地への帰路を急いだ。