解かれた封印
所有者登録を終え、2人とシロとの間の緊張が和らいだのもつかの間、シロの白い球体が、今までにない速さで回転し始めた。周囲の空気が、急に冷たくなり、静寂が張り詰めたような、異様な雰囲気に包まれる。利雨は、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
「警告。生命反応を感知。敵性存在、接近中」
シロの声は、これまでのような穏やかな口調ではなく、冷たく機械的な響きを持つ。利雨と菊池は、緊張しながらシロの視線の先、坑道の奥を凝視した。松明の光が届かない暗闇の中から、ゆっくりと巨大な影が姿を現す。その影は、不規則に形を変え、まるで生きているかのように蠢いている。
「距離、約200メートル。接近速度、毎秒1メートル。脅威レベル、高」
シロは、淡々と状況を報告する。影が松明の光に照らされると、そこには、おぞましく巨大なオークの姿があった。
「な、なんだ、あれは…!」
利雨は、息を呑み、恐怖に目を見開いた。
「オーク… こんな場所に、なぜ…!」
菊池は、咄嗟に刀を抜いて構え、利雨を守るように前に出た。
「シロ、あれは、危険なのか?」
利雨の声は、恐怖で震えていた。
「危険です。排除しますか?」
シロは、冷徹な機械音で答えた。
「若様、ここは、わたくしが殿を務めさせていただきます! どうか、お逃げください!小騨家に仕えて幾星霜… この命、若様にお返しするのは、本望でございます! 」
菊池は、利雨の腕を掴んだまま、真剣な眼差しで彼を見つめた。その目には、利雨を守りたいという強い意志と、死を覚悟した静かな決意が宿っている。利雨は、菊池の言葉に胸を締め付けられる思いだった。老臣の命を犠牲にすることなど、彼には到底できなかった。
「…菊池… だが、そんな… お前の命を犠牲にするわけには…」
利雨の声は、苦悩に満ちていた。彼は、目の前の脅威から逃げることも、菊池の命を諦めることも、どちらも選ぶことができなかった。
「ご心配には及びませぬ。わたくしは、老いぼれです。若様は、これから白北山地を背負って立つお方… どうか、この菊池の願いを…!」
菊池の言葉は、利雨の心をさらに揺さぶった。その時だった。シロの白い球体が、ゆっくりと明滅し、その光が、まるで利雨の苦悩を映し出すかのように、揺らめいた。
「利雨様、危険です。警護のため、敵性存在を排除してもよろしいですか?」
シロの機械的な声が、静寂を破るように響いた。利雨は、シロの言葉に、新たな選択肢を与えられたような気がした。
未知の力を持つシロに、菊池の命を託すことができるのだろうか。利雨の心は、激しく揺れ動いていた。
利雨の心は激しく揺り動いていた。老臣の命か、未知の力か。どちらを選ぶべきか、答えは出ない。しかし、時間が彼に猶予を与えてはくれなかった。オークの唸り声が、さらに大きく、近くに聞こえてくる。
利雨は、一度目を閉じ、深く息を吸い込んだ。そして、目を開けた時には、その瞳には強い決意が宿っていた。彼は、菊池の腕を静かに離し、シロの方へと向き直る。
「シロ!」
その声は、今までにないほど力強く、迷いはなかった。
シロの球体は、回転を止め、短い四本の手足は、それぞれが異なる方向へと伸び、まるで獲物を狙う獣のような緊張感を漂わせる。利雨の決意を感じ取ったのだろうか。
菊池は、利雨がシロに敵を倒すよう指示しようとしていることに驚き、言葉を失った。彼は、オートマタの真の力を見たことがない。本当に、あの白い球体が、あの凶暴なオークを倒せるというのだろうか。
利雨は、シロの黒曜石の目を見つめ、静かに言った。
「シロ、頼む… あのオークを倒してくれ」
それは、利雨が自らの命運を、未知の力に委ねた瞬間だった。
オークは、松明の光に完全に照らし出された。その姿は、想像以上に醜悪で、巨大だった。利雨は、思わず息を呑んだ。緑色の肌には、無数の傷跡があり、そこから膿のようなものが流れ出ている。醜く歪んだ顔は、獣の面影を色濃く残しており、牙を剥き出しにした口からは、黄色い涎が滴り落ちていた。巨大な棍棒を握りしめた腕は、筋骨隆々としており、その一撃がどれほどの威力を持つのか、想像するだけで恐ろしかった。
「若様、危ないっ!」
菊池は、利雨の前に飛び出し、刀を構えた。利雨を守るため、自らの命を投げ出す覚悟だった。
しかし、利雨は、菊池の行動を制するように叫んだ。
「シロ、やれ!」
シロは、一切の動きを止めていた。まるで時間が止まったかのように、静寂が漂う。その白い球体からは、不気味なほどの静寂が漂っていた。次の瞬間、シロの手が、かすかに震え、その指先から鋭い光の矢が放たれた。矢は、空気中で美しい軌跡を描き、まるで意志を持ったかのように、オークの心臓めがけて飛んでいく。
光の矢は、オークの分厚い皮膚を紙のように貫き、体内で炸裂する。オークは、一瞬だけ苦痛に歪んだ表情を見せるが、悲鳴を上げる間もなく、崩れ落ちるように倒れ込んだ。
そして、その巨大な体は、まるで蜃気楼のように、キラキラと光を放ちながら消滅していく。
「な、何が… 起きたんだ…?」
利雨は、呆然と立ち尽くし、目の前で起きた出来事を理解しようと努めた。
「オ、オークが… 消えた…?」
菊池もまた、驚きを隠せない様子だった。
オークが消滅した跡には、僅かに光の粒子が残り、静寂が訪れる。
オークがいた場所には、手のひらほどの赤い石の塊以外は、僅かに焦げ跡が残っているだけで、巨大なオークがそこに存在していたことすら疑わしく思える。松明の炎だけがパチパチと音を立てて燃え続け、二人の影を壁に大きく映し出す。
利雨は、驚きと安堵が入り混じった表情で、赤い石を見つめていた。彼の瞳には、まだ恐怖の色が残っている。しかし、同時に、シロの力に対する畏敬の念が芽生え始めていた。
菊池は、刀を構えたまま、周囲を警戒している。彼は、まだ状況を完全に理解できず、新たな脅威が潜んでいるのではないかと疑っている。
「な、何も…残っていない…」
利雨は、息を呑んだまま、呟くように言った。あまりにもあっけない結末だった。
「信じられませぬ… あんなに巨大なオークが…跡形もなく…」
菊池は、刀を握りしめ、周囲を見回し言った。
その時、静寂を破ったのは、シロの機械的な報告だった。
「敵性存在の排除、完了しました」
利雨は、シロの言葉に、ハッとして振り返った。
シロの白い球体は、ほんのりと温かくなっているように見えた。
「シロ、あの… オークは、一体どこに消えたんだ? それに、あの赤い石は…」
利雨は、床に転がる赤い石から顔を上げ、シロの球体へと視線を移した。彼の瞳には、疑問と、かすかな期待が入り混じっている。
「…それに、あの光は一体何だったのですか? あのような妖術は、今まで見たことが…」
菊池は、ようやく刀を鞘に納め、安堵の息を吐いた。しかし、その表情は依然として緊張感を漂わせている。
その瞬間、シロの白い球体が、再び高速で回転し始め、黒曜石の目が不気味に光る。それは、先ほどの戦闘時と同じ反応だった。松明の光が届かない、坑道の奥から、何かが動く気配がする。かすかな音や、空気の振動が、新たな脅威の存在を暗示する。
「警告。複数の生命反応を感知。敵性存在、接近中」
シロの声が、再び坑道内に響き渡った。
「え? まだ、何かいるのか?」
利雨は、驚きを隠せない。
「はい。この坑道奥に、多数存在します。危険レベルは、先程のものより… 高いです」
シロは、淡々と告げた。
「なんと!? まだ、魔物が潜んでいるというのか…」
菊池は、再び刀に手をかけた。その時だった。シロが、思いもよらない提案をした。
「提案します。利雨様への脅威を未然に防ぐため、私が坑道内部に進み、脅威をまとめて排除します」
利雨と菊池は、顔を見合わせ、言葉を失った。
「し、シロ…? そんなことができるのか?」
利雨は、驚きを隠せない様子で尋ねた。菊池もまた、信じられないという表情でシロを見つめている。
「もちろんです。所有者である利雨様を守ることは、私の最優先事項です」
シロは、淡々と答えた。その言葉に、利雨はシロの並外れた力と、自身への忠誠心を改めて認識した。
「わ、わかった。任せる。…くれぐれも、無茶はするなよ」
利雨は、少し不安ながらも、シロの提案を受け入れた。菊池は、まだ戸惑っていたが、利雨の決断を尊重し、静かに頷いた。
次の瞬間、シロは目にも留まらぬ速さで洞窟の奥へと飛び去っていく。その小さな体が、暗闇の中を白い閃光のように駆け抜けていく。まるで、夜空を駆ける流れ星のような、儚くも美しい光だった。
「…信じられませんな… あんな小さな体で…」
菊池は、呆然と呟いた。
利雨は、坑道の奥へと消えていくシロの姿を見つめながら、床に転がる赤い石を拾い上げた。それは、温かみが残っており、不思議な力を感じさせる。
「菊池、これは… 一体なんだ?」
「…これは、魔石の原石ですな。魔物から稀に取れると聞いております」
菊池は、利雨の手に握られた赤い石を見て、答えた。
「魔石…?」
利雨は、初めて聞く言葉に首を傾げた。
その時、洞窟の奥から、激しい光が何度も点滅し始めた。それは、まるで夜空に打ち上げられる花火のように、美しくも恐ろしい光景だった。利雨と菊池は、その光を見つめながら、シロが新たな敵と交戦していることを悟った。
二人は、言葉を失い、ただただその光の光戯を見守ることしかできなかった。