注意欠如・多動症と自閉症スペクトラム障害
普段、発達障害に快くない態度を取っている作者の考えが分かります。
『発達障害』、それをプロフィールに公表している人を最近ツイッター(現X)で良く見掛けた。ADHD、ASDと種類が様々ある。
当人達はそれを公表して、同じ分類の人間や障害に対しての理解を求めていた。どうしても対話が苦手な傾向を持ち、一定の理解を必要としなければならない。
ただ、公表されて相手にどう接すればいいか困惑させる事もあった。そういった障害を持っていない人は当然、義務教育の授業で基本的な知識を学んでおらず、理解が難しいだろう。
作者はADHDとASDの両方を持っている。注意散漫な時もあれば、1つの事に集中し過ぎたり、こだわりが強かったりと明らかに健常者で無い症状ばかりだ。
注意散漫のADHDと、集中力が異常に高くなるASDの両方を持つと、互いの性質を潰し合う。無意味な行動に時間を注ぎ、大事な作業で不注意を起こす。
日々、自分に嫌気を差している作者は今までその病名を公表しなかった。「発達障害者の作品」という不必要な印象を持たれなくないからだ。そして、わざわざ個人情報を明かす利益も無い。
仮に「発達障害者の作品」を売りにしても、結局健常者の作品と同じ土俵へ上がるだろう。基本、作者の人間性と作品を切り離して考えている。どれだけ良い作品を出せるかが大事だ。
有名な物理学者、アルベルト・アインシュタインは凡人に成せない偉業を果たした。その彼がアスペルガー症候群や、ADHDの可能性も考えられている。
しかし、そうだとしてもアインシュタインは天才だった事に変わりない。発達障害の人が、普通の人と同じ世界で生きられる可能性は十分あった。その機会を捨て、同じ種類の人間達で固まる選択が、少し勿体無いと感じてしまう。
作者の考え過ぎで、単に会社員や高校生と同じく身分の紹介で、公表しているのかもしれない。作者も「チー牛」という身分をプロフィールに書いている。作品や言動を見たらすぐ分かってしまう。
SNSに様々な人間がいる為、身分を明かす事はそれなりの危険を伴う。「自分の作品をアニメーション会社に盗作された」と因縁を付け、凶行へ走った人間のせいで世間から障害者の印象が悪化している。
発達障害には強い思い込みの症状があり、作者もそれで何度か失敗をした。ただ、被害妄想と別物だ。自分の誤りを認める能力が備わっていた。
周りに迷惑を掛けてしまう性質上、障害者は迫害を受けやすい。弱く、従順な存在で無ければ、普通の人達に「自分達が守りたいと思えない異物」の烙印を押される。
本当かどうか定かでは無いが、養護学校では「人に助けて貰う為、愛想良く振る舞いましょう」と教育するそうだ。確かに、テレビで映る聴覚障害者の人達が、不愛想な事はあまり無い。
人々が求める障害者像は『聲の形』の西宮硝子だ。しかし、実際の発達障害者が近い登場人物は、植野直花になる。大なり小なり攻撃性を持っていた。
感情的になりやすく、思った事をすぐ言ってしまう。彼女並の強い攻撃性がある発達障害者は稀だろう。余程虐待を受けて育ったか、甘やかされて育ったかのどちらかで無ければ早々ならない。
迫害対象でありながら、強い攻撃性を持つ作者が「相模原障害者施設殺傷事件」を知り、考えさせられた。人間は潜在的な差別意識があり、迫害する側へ立つ危険性を持つ。
以前、関東大震災後、発生した事件を基にしている映画を鑑賞した。村人達による行商団虐殺の場面は、被害者と同じ出身地だった事もあり、言語化出来ない恐怖心を抱く。
朝鮮人が井戸へ毒を投げ込んでいるというデマを信じ、朝鮮人の確証も無い状態で、村人達は行商団へ身勝手な正義感を振りかざす。死体を川へ投げ捨てる場面も正気の沙汰と思えない。
人間の残酷な差別意識を嫌という程感じ、Xのプロフィールに発達障害を公表する人達を理解出来なかった。普通の人達の輪へ留まり、迫害の対象を受け辛くする。それが作者の考えだ。
しかし、友人と久しぶりに会った時、作者は神経質を指摘される。実際、公表しても他人が贔屓目を向けない可能性をその時、気付いた。作者は他人の目を気にし過ぎている。
今日、4月の新しい節目として、ようやく自分の隠していた身分を公表する事を決めた。
作者の作品が狂っている理由は病気以外の要因があります。「頭のおかしい人の作品」です。これを発達障害と結び付けないで貰えると助かります。