犬の散歩をしてたら異世界だった。
それは、遡ること一週間くらい前。
何の変哲もない日曜日の午後に、僕はいつものルートで柴犬ケンケンを散歩に連れ出した。
「おい、駄犬! 道端のゴミを食べるんじゃないよ」
「ワン!」
駄犬、駄目犬、おいコラッ等、僕が奴を呼ぶ呼び名は色々あるが、ケンケンとは絶対に呼ばない。
何故なら、その名の由来が僕と関係が深い所為だ。
そもそも我が家で柴犬を飼いたいと言い出したのは2歳下の妹だった。
うちの両親は僕の希望は断固として聞き入れないものの、妹はそれこそ目の中に入れても痛くないほど可愛いそうで。
以前から猫が欲しいと言っていた僕の意見は却下続きだったのに、妹がペットショップで一目惚れした柴犬をその場で買い与えた憎き父めが!
ハァハァ……思い出したら、ちょっと感情的になってしまったぜ。
そんな父も今では立派に単身赴任でどっかに行ってしまった。
それからというもの、ほとんど僕が駄犬の散歩を担当することになってしまったのである。
あれ妹は何処へ? と思われた諸氏、実は彼女、テニスの強豪ジュニアクラブに所属していて休日も忙しくしているのだ。
つうわけで、母も妹に付いて一緒に遠征なんかしちゃったりするので、帰宅部でバイトもしていない家庭内ニートでヒエラルキー最下位の僕以外に誰が居よう?
あれ? そうそう、名前だ! 犬の名前でしたわ。
それは犬を迎えたばかりの家族会議での話だ。
母「絢斗の弟だからケンジ?」
父「母さん、遠い親戚の叔父さんの義理の父親が確か健二って」
妹「ケンが二回でケンケンがイイ!」
父母「「賛成!」」
――ちょっと待て! なんで犬が僕の弟扱いなんだよ?
だってオスだから、と、三人に言われて引き下がった当時の僕。
あの頃小学三年生だった僕にもっとガッツがあったなら、歴史は変わっていただろうに……。
などと感慨に耽ってたかどうかは忘れてしまったけど、4月にしては肌寒い曇り空の下、河川敷を超えて崖沿いの峠道に差し掛かった時……。
ケンケンの野郎は何か気になるモノを見つけたみたいで、いきなり道の反対側に飛び出したのだ。
と同時に、峠道の向こう側から猛スピードで下るトラックが出現!
「おいストップストップ! コラッ駄目犬! 危ねぇだろが!」
「キャインッ!」
慌ててリードを引っ張って歩道に連れ戻したけど、一歩間違えば僕諸共トラックに轢かれて異世界転生してたかもしれない。
「やれやれだぜ」
「ワン!」
ホッと胸をなでおろしたところで、ワン公はもう一度飛び出した。
油断していた所をいきなり引っ張られ、緩く握られていたリードが僕の手から滑り落ちていった。
「ちょっ! 待てよ!」
駄犬に言ったところで待ってくれる脳などはなから期待できない。
僕は全速力でケンケンを追いかけた。
カーブを曲がった先で追いつき、ヘッドスライディングをかましてリードに飛びついた。
僕は両手でリードをしっかりと掴みとることに成功した、……けれど。
「あれ? もしかして、引っ張られてる?」
あろうことか、地面にうつ伏せの僕は道を引きずられていたのだ。
身長170センチ体重60キロの僕を中型犬が引きずるなんて有り得ない!
いったいどうなってんだと首を仰け反らせて顔を持ち上げると、目の前を走る茶色い柴犬の先に想像だにしない光景が広がっていた。
そこでは薄暗い曇り空が漆黒の闇に変わり果て、アスファルトの先には眩く光る青白い輪。
それがまるで日食時の太陽フレアのようにゆらゆらと浮かび上がっていた。
そして、次に気が付いた時にはもう……。
「痛て、痛てててて……」
どれだけ気を失っていたのだろう?
体の節々が痛んだ。
手を突いて上体を起こしたつもりなのに、なんだか地面が近い。
しかも、ここは何処だ?
地面はさっきまで散歩していた峠道のアスファルトではなく、雑草がまばらに生える赤茶けた土の大地。
顔を上げて先を見通すと、観光地で見るような灰色の石畳が真っ青な空と大地の境界を横切っていた。
――いや、違う。
ぼんやりしていた眼の焦点が鮮明さを取り戻す。
真っ青な空の下には紺碧の海が広がり、行きかう小舟が帆をいっぱいに広げていた。
――港?
死後の世界は港から船で旅立つのだろうか?
そんな思いが頭に浮かんだ。
――いやいやそんなはずない!
僕は頭を振って妄想を断ち切る。
すると、視界の隅に地面にだらんと垂れている犬のリードを捉えた。
僕は立ち上がって後方に伸びるそれの先を見ようとした。
しかし、すぐさまバランスを崩してしまい両手を突かざる負えない。
呪詛の言葉を吐き、四つん這いのままリードの先を見た。
「え?」
リードを辿っていくと、それを握る人の手とその先に横たわる少年の姿。
見覚えのある灰色のパーカーを着ているその人は深緑色の学校指定ジャージも履いていた。
――僕が死んでいる……。
やっぱり僕は死んでしまったのだ。
ここはやはり死後の世界?
そんなはずは無いと、かぶりを振った。
気持ちを奮い立たせ、僕は僕に駆け寄る。
「おい! しっかりしろ! 死ぬのはまだ早いぞ自分!」
声にならない声で叫びながら、僕は横たわる僕を必死に前足で揺すった。
触れる先の身体はまだ温かい。
よく見りゃ、胸が上下してるってことは呼吸もある!
「よかったぁ……。まだ生きてるよ」
僕の目は涙に溢れ、頬の毛を濡らした。
――いや……待て待て! 待たんかい!
目の前に僕が居るなら、今の僕自身は一体全体何なのよ?
しかし、重大な疑義について考える暇もなく、僕らの背後から大きな影が覆いかぶさった。
「これだよなぁ~相棒よぅ?」
「変てこりんな格好してっし、間違いねぇっす!」
いきなり現れた、太っちょとひょろ長のデコボココンビ。
いやいや、お前らの方がヘンテコだろ!
なんか二人ともおそろの――それこそ剣道で使うような――防具を着てるし、袖は鎖帷子か? 頭には毛先が外はねになったボブカット風の珍妙な鉄兜を被ってるし。
あれか、観光地でコスプレする痛い集団かこいつら?
「んじゃ、運ぶしかねぇべ。さっさと片付けるべよ」
「無理無理無理無理っ!」
「なんでぇ?」
「おりぃ腰痛めてるっし、お城はこっから遠いっすぜ大将?」
「バカだなぁ相棒、そこらで荷車ひっ捕まえて運べば良いじゃんかよぅ?」
「その手があったかぁ~」
「ボサッとしてねぇで、道端まで持ってくぞい! はよ脚を持てや」
ヤルことが決まったコスプレ野郎共は僕の体を持ち上げて石畳の通りへ向かった。
おいコラ! 待ちなさいって!
僕は飛び上がって二人にあらん限りの抗議を叫ぶ。
「ワンワンワンワンワンワン……!」
「うっせぇワン公だなぁもう」
「しっし、あっちいくっし! この犬ぅ~!」
誰が犬じゃ!
通りに出ても、僕は追いすがり連中の足元に飛びついてワンワンと抗議を続ける。
ん? ワンワン?!
「いい加減うっとおしいっし!」
ひょろ長はそう叫ぶと奴の脚にしがみつこうとする僕を振り払い、後ろに蹴飛ばした。
「キャインッ!」
もんどりうって転がった僕は石畳に出来た水溜りに頭から落ちてしまう。
うへぇ……濡れちまったじゃないか!
クリーニング代を請求するぞコノヤロウ!
などと悪態をついたつもりだったが、耳に残るのは聞き覚えのあるあいつの吠える声。
僕は恐る恐る視線を下げていき、水溜りを覗き込んだ。
波紋が治まり水面に僕の顔が鏡写しになると、そこには果たして……。
「ワンワン?!」
僕はケンケンと言ったつもりだった。
水溜りに写る見慣れた柴犬の姿を、僕は呆然と見続けざる負えなかったのだ。