7話
ただ、幸せにしたかっただけだ。
叶わなかった夢を思い出す。
特別不運に苛まれたわけでもなく、特別幸運に巡り会えたわけでもない普通の人生。
「お前は、俺の奴隷だ」
彼女は父親にそう言われて育った。
奴隷という職業は存在したし、彼女は父親の発言を額面通りに受け取った。
しかし実際は少し違ったらしい。
血はつながっていたし、その男と彼女とは、実の親子だった。
父親はもっと比喩的な意味で述べていたのだと、あとにわかる。
ただ、彼女は父親の発言で『自分はこの人に買われた奴隷なのだ』と信じ込んでしまったから、奴隷なりの行動をした。
命令にはなに一つ逆らわなかった。
身を粉にして尽くし続けた。
違法なことだって、やった。
……もっとも、彼女はなにが違法でなにが遵法なのかという知識を与えられなかったから、『やられた人がものすごく怒るから、盗みなどはきっと悪いことなのだろう』という程度の認識だったけれど。
怒られても、やった。
殴られても、やった。
むしろ殴られることは彼女にとって日常だった。
「お前は悪い奴隷だ。失敗したのに、ヘラヘラ笑っている。だから、しつけが必要だ」
彼女は『笑うこと』を悪いことだと学んで、笑わなくなった。
「お前は馬鹿な奴隷だ。言われなくたって、俺の望みを察して動け」
彼女は『質問すること』を悪いことだと学んで、質問しなくなった。
「お前は性格の悪い奴隷だ。俺が暗い顔をしていたなら、きちんと俺の機嫌がよくなるようにしろ」
彼女は次第に、表情から相手の感情を推し量る術を学んでいった。
……不幸があったとすれば、それは、彼女が言われたことをだいたいこなせてしまったことだろうか。
彼女には、なんでもそつなくこなす才能があった。
幼いころからそれは遺憾なく発揮され続け、彼女は表情一つで相手の感情を察し、質問もせず相手の望むことをして、笑うことなく淡々と相手の――『ご主人様』の望みを叶え続けていった。
だけど。
「そうじゃない」
ある日、彼女は、『ご主人様』の望みの叶え方がどうしてもわからなくなった。
才能の枯渇、能力の低下などではない。
『ご主人様』は、彼女がまだ知らないことを、彼女に求めていた。
「教えてやる。抵抗はするな」
彼女たちの住まうあばら屋に、『母親』はいなかった。
彼女の認識では、彼女には、両親ともにいなかった。
ただ『ご主人様』がいただけ。
命令に逆らうと恐い相手が、いただけ。
彼女は抵抗するなと言われたから、しなかった。
男は興奮した様子で、彼女のまだ知らなかったことを、彼女の体に教えた。
彼女はといえば、新しいことを学べて喜びを覚えた。
……『それ』を教える時だけ、普段乱暴な男がずいぶん優しかったのを、嬉しくさえ感じていた。
彼女の日常の業務に、『それ』が加わってしばらく経ったころ――
彼女は妊娠した。
彼女は次第に自分の腹がふくらんでいくことを不思議に思っていたけれど、その身体の変化がなにを意味するのかは知らなかった。
幸か不幸か。
彼女の住まう食い詰め者と犯罪者の集う区画でさえ、父親が娘を妊娠させることは禁忌扱いされていた。
事実が発覚し、『ご主人様』はどこかに連れて行かれる。
その時初めて、自分を奴隷扱いしていた男が実の父親だと知った。
だからといって、なにも変わらない。
彼女は父親というのがどういうものだかわからなかった。
それと『ご主人様』とで、なにが変わるのか、想像もつかなかった。
ただ彼女は、生きる意味を失った。
すべて『ご主人様』の指示で生きてきて、与えられるのは、彼女が獲得し、『ご主人様』に捧げた余り物だけだった。
自分のためになにかをしたことのない人生で、また、自分のために行動するという発想さえ抱けない環境だった。
父親を連れて行ったいかめしい人たちは、彼女のその後を保障してくれたわけではない。
大きくなるお腹。
飢える体。
まだ幼いとさえ言える彼女にはなにがなんだかわからない。
けれど恐怖は覚えなかった。
感情を見せることを禁じられた彼女は、感情をそもそも抱かないクセがついていたのだ。
漠然と『今後、どうしよう』という疑問があるだけで、それは恐怖にも焦燥感にもならなかった。
彼女は新たなる『ご主人様』を求めた。
奴隷だった。きっと、身分的には平民に分類されるのだろうけれど、彼女の生き様は奴隷で、それ以外の生き方を知らない。
誰かのためにしか生きられない人格に矯正され、また、それを変えてくれる出会いもなかった。
美しく幼い少女。
だが、妊婦である彼女を引き取る者はいない。
寒い季節がおとずれていた。
『ご主人様』と彼女の家にはすでに新たなる住人がいて、彼女は路上で寒さをしのがねばならなかった。
大きくなったお腹はとっくに痛みを発していて、その痛みがなにか深刻なサインなのはわかったのだけれど、具体的にどういう意味のある痛みなのか、それがわからない。
「誰かに尽くさせてください」
彼女はか細い声でささやく。
積もり始めた雪にかき消されそうな声だった。
「誰かのためにしか、生きられないんです」
なぜか、彼女は自分の腹部を抱きしめていた。
痛みを発する箇所に手を当ててしまうことはあった。けれど、この動作はそれらとは違う気がする。
「誰か、誰か」
彼女の上にはうっすらと、白い雪が積もっていく。
払いのける体力さえ、もう残っていない。
それに。
払いのけてくれる『誰か』さえ、彼女のそばには、いない。
だからきっと、声をかけてくれたのが、誰だって、彼女は――
「君は、ずいぶんと我欲がないな」
しんしんと降り積もる雪が、とっくに彼女を冷たくしていた。
それでも、彼女を見下ろす誰かは、語りかける。
「そんなに他人に尽くしたいなら、いいよ、願いを叶えよう。永遠に他人に尽くし続け、他人を救済し続ける第二の人生をあげよう。正直な話、普通の人を送るのもいい加減ネタ切れでね。君ぐらいのを送ってみて世界を変えてやるのも悪くない」
わけのわからないことをまくしたてる、少年――いや、少女? だった。
もう、指先さえ動かないのに。
とっくに、視力さえ消え失せているのに。
それでも声だけは、聞こえ続ける。
「喜びなよ。他人を喜ばせることしか生き方を知らない君に、そのままの人生を送らせてあげようっていうんだからさ。ただし、一つだけ条件がある」
どのような条件を出されようが、呑まないはずがなかった。
彼女が次に尽くすのは声の主で――
彼女は決して、主の言うことに逆らわない。
「君は次の人生、もっと『のじゃー』とか『なのじゃー』とか言いながら過ごすんだ。なんていうの? 趣味? ほら、百年千年しか生きられないニンゲンがさ、そういう古めかしい口調で教訓めいたことを語るのって、滑稽ですごく面白いじゃない。……あ、そうだ、あともう一つ」
思いつきのように追加された条件は。
「もっとコロコロ表情変えよう。その方が絶対かわいいから」