6話
暗闇の中に道が続いている。
真夜中、街灯もないゴーストタウン。だというのに、老兵の目にはハッキリとあたりの景色が映った。
夢――
では、ない。
割れ、朽ちた石畳。
体積した木の葉。
立ち並ぶ家々は石製のものが多く、そのほとんどが二階建てた。
平べったい屋根は、この街に雪が降らないことを暗に物語っている。
このような景色は知らない。
知らない景色は夢で見ないものと、彼は思っている。
彼の生まれ育った都会には、雪が降った。
知らない屋根。知らない作りの家。
暗闇だというのにハッキリした視界。
視線の先に――大きく口を開けた、木造の、面積の広い建物。
似た構造の建物を見た経験から、老兵は推測する。
アレはたぶん――
「ゴーストタウン、の……冒険者ギルド、か」
当然、頭には都市伝説のことがよぎった。
なぜ自分が、ここにいるのか。
いつ自分がここに来たのか。
それはわからなかったけれど、『ここまで来てしまったなら、いっそ進もう』と老兵は思った。
……もとより希望のない人生を送る身だ。
都市伝説が自分を招いたとして、それに今度『消される』のが自分だとして――それでもいい。
首をとるにせよ、『楽園』へ連れて行かれるにせよ、前に進む以外の選択肢はなかった。
老兵は開け放たれた冒険者ギルド跡に入っていく。
その都市伝説とコンタクトをとる方法は、いくつかの噂話が存在した。
けれど、彼は迷いなく、最奥にある立ち飲み席へ向かう。
そして――
「ふう」
年相応――よりも、やや老けた、枯れ果てたため息をついた。
「なんじゃ、悩んでおるのか。……む? ずいぶん、歳をとっておるのう」
突如目の前に現れたのは、黄金の毛並みの、獣人の少女だった。
大きな三角耳と、色素の薄い金色の瞳が、テーブルの上からこちらをのぞく。
たしかに誰もいないその場所に急に出現したというのに、老兵はおどろかなかった。
『いるらしい』ことは知っていたし――
もう、若者のように、いちいち大きなリアクションをとることもない。
精神は摩耗し、反応は減衰し、おどろき自体が薄く、また、おどろきに応じて体が動くこともない。
だから老兵は薄く笑い、
「ああ、そうか、幼い少女なのか。……くそ、外してしまったな」
「どういうことじゃ?」
「……君の『姿』について、諸説あってね。私は『妖艶な美女』に賭けていたんだ」
「わらわのことを、知っておるのか?」
「知っているさ。『楽園への案内人』――まあ、『若い男性しか連れていかない』という話だったから、私が呼ばれたのは、少々不思議だがね」
「おぬしが、わらわを、呼んだのじゃ。わらわが、おぬしを、呼んだのではないぞ」
「……まあどちらでもいいさ。そっちは、ね」
「どういう意味じゃ?」
「選択しなければならないのは、私の、君との接し方だ」
斬るか、話すか。
首級をあげて、英雄になる。
それはたしかに、老兵に唯一残された昇進への道だった。
しかし、この女性社会となった軍隊において、功績が素直に認められ、その後、なんの問題もなく昇進できるかどうかは、わからない。
そこには政治力や権力を駆使した次の戦いがあって――
彼はもう、そのような戦いに疲れていた。
「……まずはそうだな、せっかくだ、私の悩みを聞いてくれ」
「もちろんじゃ。わらわは、そういうモノじゃからな」
「……そういうモノ、ね。まあ、うん、そうだな。私は……私は人生を踏み外したんだ。のぼりつめるはずだったのに、ハシゴを外されてしまってね。理想の人生というヤツを、歩むことができなかった」
「それはつらかったのう。……『理想』など、軽々に体現できるものではないが、一度見た夢を手放す時の絶望感は、きっと、おぬしの心を責めさいなんだじゃろう」
「そうだね。……けれど、時々思うんだ。『昇進の夢なんか、叶わなくてよかったんじゃないか』って」
「なぜ、そう思う?」
「こんな歳だからね、これまで、いくつかの夢をすでに叶えている。……子供のころ、格好いい鎧をつけて、ピカピカの剣を佩いた兵士にあこがれた。そして私は、その夢を叶えて、こうして憧れの鎧を身につけ、ピカピカの――」
彼は自分の腰を見下ろす。
そこには長年使い込んだことにより、真新しい輝きを失ったロングソード。
「……ピカピカだった、剣をもらった。なりたかった兵士に、なれたんだ」
「努力したんじゃな。偉いぞ」
「……ははは。偉いだなんて、久しぶりに言われたな。年齢を重ねると、子供のように褒められることもなくなる」
「わらわから見れば、すべて、若輩じゃからな」
「うん、そうらしいね。千年を生きた――だっけ? ああ、五百年という話もあったし、有史以来とかいう話も聞いたな。まあ、どれでもいい。どれだって、私には関係がないだろう」
「そうじゃな。して――夢を叶えたおぬしは、どう思った?」
「嬉しかったよ。筆記と実技の試験を抜けて、憧れの装備をもらって、兵士の一人になった。嬉しかった。けれど……」
「……」
「夢の先には、現実があるんだなあって思い知るのは、そんなに時間がかからなかった」
「……」
「新兵へのシゴキというのかい? なかなか、きつくてね。それに――派閥。権力闘争。私が憧れた『兵隊さん』は、実力がすべてだった。強い『なにか』と戦って、格好よく活躍をして、活躍をしたら王様に褒められて、英雄と呼ばれ、軍を率いる。そういう存在だったんだよ」
「現実は違ったんじゃな」
「そうだね。現実は、活躍の舞台なんかなかった。昇進するには上官に気に入られる必要があって、そのためには機嫌をとったし、太鼓持ちもやった。時には賄賂なんか送って、出世頭の側近みたいな立場になって……でもね、そのころの僕には、新しい夢があったんだ」
「夢を持つのは、いいことじゃな。夢を見つけられるのは、才能じゃぞ」
「……ありがとう。僕はね、あれほど憧れた兵隊を、さっさとやめることを夢見始めたんだよ」
「……」
「計算してみると、将校クラスになれば、四十歳ごろには辞めて田舎に帰っても、たくわえと年金で充分な暮らしができるはずだったんだ」
「……」
「僕が必死に機嫌をとった将校が、突然失踪して、全部、無駄になったよ」
「運が悪かったんじゃな」
「…………まあ、そうだね」
彼は薄く笑う。
きっと将校は目の前の怪異に消されたのだろうと、そう推測できる。
だけれど、責めるほどの熱量がない。
彼は嘆き怒る気力さえ、すでに持ち合わせていなかった。
「僕はね、もう、夢を見ることに疲れたよ。潰えた夢の代わりを探す力さえ、もうない」
「そんなにすり切れてまで生きたんじゃ。おぬしの気力は、大したもんじゃ。誇ってよいぞ」
「……ありがとう。だから、昇進したいとか、そういうのは、本当のところ、もうないんだ。ただ生きていくだけっていうのも、なかなか楽なものだよ。夢を探そうとするから、夢が見つからずに疲れる。夢を見るから、夢破れて絶望する。『ただ生きる』ことを覚えてから、人生はだいぶ楽になった」
「……」
「夢の先に現実があると学習した僕は、もう、夢を叶えないほうがいいんじゃないかと思っている」
「……悲しいことじゃな」
「そうかもしれないけれど、僕にはこの生き方が悲しいかどうか、もうわからない。……うん、だからさ。これからすることはきっと――かつて『兵隊さん』に憧れた子供の僕が、大人になった僕の中にいるせいなのかもしれない」
老兵は、腰に佩いた剣を抜く。
革製の鞘と金属がこすれるイヤな音が、静けさに満ちたギルド内に響いた。
「思っていた『なにか』とはだいぶ違うけれど、僕は君を殺してみるよ」
「……なぜじゃ? わらわが、なにをした?」
少女はあきらかに狼狽していた。
突如剣を抜かれておびえる――見た目相応の年齢の、少女のように。
そこには大陸中の男性を消し去り尽くそうとしている怪異らしさはみじんもなかった。
「子供のころの僕が描いていた『なにか』は、もっと恐ろしい化け物だった。きっと、僕がもっと若ければ、君のその姿に哀れみを覚えて剣を納めていただろうな」
「そ、そうじゃ。なぜ、わらわに剣を向ける? わらわは、なにもしておらんぞ? わらわは、嫌われるようなことは、なにも――」
「君のことは嫌いじゃないよ。長く抱えていた悩みを……自分でもうまく言葉にできなかった悩みを、こんなにもスラスラ打ち明けられたんだ。君には感謝している」
「で、では、なぜ、わらわに剣を向ける?」
「子供のころの僕が憧れた『兵隊さん』は、人類の敵を格好良く倒す者で――どう見ても化け物に見えない、哀れな少女にしか見えない君に剣を振り下ろせるのは、僕が大人だからだよ。大人はね、イヤなことをイヤがらずにできる、魔法の呪文を知っているんだ」
「……そ、それは、なんじゃ?」
「『それが仕事だから』」
子供らしい英雄願望を原動力に。
大人らしい義務感でためらいを消して――無感動に剣を振り下ろす。
それはテーブルごと、対面に存在する少女を両断した。
瞬間、ぱきん、となにかが砕ける音がして――
夢から、醒めていく。
彼が。
あるいは、世界そのものが。