4話
大陸の南端には廃棄された都市が存在する。
完全なるゴーストタウンだ。
男も女も、大人も子供も老人も、そこには誰も存在しない。
かつての賑わいだけを感じさせる立ち並んだ家屋たち。
憩いの場であったであろう街中央にある広場には、枯れた噴水と割れた石畳だけがあって、その上に堆積した枯れ葉が一陣の風を受けて頼りなく揺れている。
家々を見ていると東西南北の区画がそれぞれどのような役割を持っていたかも想像できる。
東側には背の低い、こじんまりした建物が多い。
きっとそれらは住民の持ち家として利用されていたのだろう。
西側にはいくつかの高い建物が見えた。
行政、あるいは宗教に関連した区画なのだろうと思う。
北側はわからない。
そこは他の区画と比しても特別寂しい場所で、建物も少なく、森が侵食してきている。
南側は、高くはないが、横幅と入口の広い建物が並ぶ。
そこは労働者が多く過ごしていた区画だ。
……それだけは、事前知識で知っている。
男は割れた石畳を、落ちた木の葉を、それから誰かの落とし物であろう、朽ち果てたぬいぐるみの残骸を踏み分け、走るような速度で歩いていく。
彼の歩行速度は次第に上がっていった。
『目的地』が近いという高揚がそうさせているのだろう。
都市伝説。
楽園へ連れて行ってくれる、幼い少女。
かつて冒険者ギルドだった二階建ての建物へと入っていく。
それは石造りの建造物が多いこの街では珍しいことに木造だ。
広い一階部分。
立ち並んだテーブル。
きっと、昔は人でごった返していて、ただ歩くのも難しいほどだったに違いない。
天井と柱のあいだにはクモの巣が張っていて、空気はホコリっぽかった。
彼はギルド最奥にあるテーブル席を目指す。
そこもずいぶん多くのホコリが積もってしまっていたけれど、彼はガントレットをつけた腕で乱暴に払い落とし、背中をまるめて机に両肘をつく。
「……ふう」
ため息。
なんでも『都市伝説』は、それをトリガーに発現するらしい。
「なんじゃ、ため息なんぞついて。悩みでもあるのか?」
「……」
あまりにあっさりと姿を現した都市伝説に、彼は思わず息を呑む。
そこにいたのは獣人の少女だった。
たしかに、誰もいなかったのに。
気付けば、少女が、机から頭上半分だけを出して、黄金の三角耳をピクピクと揺らしながら、やや色素の薄い金色の瞳で、彼を見据えていた。
「どうした、黙りこくって。悩みがあるのではないのか? わらわが、聞いてやるでな」
「……あ、ああ、悩みは、あるんだ。本当に、思い悩んでいる」
「わらわが、聞いてやるぞ。なんでも言うてみ」
「……私には祖母がいるんだ。彼女は、その、なんと言うか……母親代わりでね。幼くして両親を亡くした私を育ててくれた、大事な人なんだ。深く深く、感謝している」
「祖母を大事にするか。いいことじゃのう。おぬしの祖母も、孫に大事にされて、嬉しく思っておるじゃろうよ。『育てられるのは当然だから感謝する理由もない』と思うような子もいる中で、きちんと感謝をしているというのは、立派じゃのう」
「……ありがとう。でも、その祖母も、もう長くない」
「そうか」
「最近、ベッドの中で、うわごとのように言うんだよ。『夫に逢いたい』『若いころに消えた夫に逢いたい』……まあ、俺のじいさん、になるのかな。逢いたい逢いたいって、何度も繰り返し言うんだ」
「それはつらかったのう」
「つらい?」
「そうじゃろう。祖母を大事に想っているおぬしとしては、その願望を聞いてやりたい。ところが、祖母の願望は叶えられぬものじゃ。なぜなら、死者は戻らぬからのう。『叶うはずのない望みを何度もたくされる』というのは、おぬしの身になって考えれば、『つらいこと』以外のなにものでもなかろうよ」
「…………」
噂の通り。
この少女の言葉は、心の一番奥にある、弱い部分に突き刺さる。
望んでいた、しかし誰もかけてくれなかった言葉をかけてくれる存在。
人の心をなぐさめるだけの――怪異。
「つらかったじゃろう。どれ、わらわが抱きしめて、褒めてやろう。おぬしは思い悩むしかできなかったかもしれんが、その悩むという行為に費やした労力は、立派なものじゃ。思いやりが深いゆえに、心のうちにためこんでいたものがあるじゃろう。はき出してもいいのじゃぞ」
「……悪いけど、それはできない」
「なぜじゃ」
「俺は――じいさんと同じように、祖母の前から消えられないからだ」
「……?」
「じいさんは、あんたが消してしまったんだ」
「……なにを言うておるんじゃ?」
「黙れ怪異め! この街が滅びたのだって、お前が! お前が、男どもを次々消したからだろう! 神隠しの怪異! 男をたぶらかす淫婦! それがお前の正体だ!」
「ど、どうしたんじゃ……? わらわは、おぬしを怒らせるようなことをしたのか?」
弱々しくあとずさる怪異は、見た目相応の年齢の少女に見えた。
刺激されるのは父性だ。
……一方で、おびえるその表情は信じられないほど嗜虐欲求をかきたてる。
己の中にそのような衝動がこんなにも存在したのか、と男は自分の心に戸惑い、押し黙った。
「……じいさんを、返してくれ」
怪異を切り捨てるつもりで、この街に――祖母の故郷に、来た。
けれど、彼は剣を抜くことができなかった。
一度剣を抜いたら、おそらく、醜悪なほどの虐待を開始する気がしたのだ。
己の持つ、己自身も知らなかったサディスティックな姿を、自分自身、見たくなかった。
「頼む、怪異、都市伝説。じいさんを返してくれ。ひと目でいいから、祖母に逢わせてやってくれ。……祖母が、ひどく自分を責めるんだ。稼ぎの少ない夫にきつく当たってしまったかもしれないと。口論をする前に苦労を分かち合う努力をするべきだったんじゃないかと。……毎日毎日、そう嘆くんだ。もう、聞いていられない。頼むよ」
「……おぬしは、つらかったんじゃな」
「俺じゃない。俺はいい。俺のことは……私のことは、気にしないでくれ」
「『恩義』は『鎖』であってはならん」
「……どういう意味だ?」
問い返して失敗に気付く。
この怪異と会話をしてはならない――わかっているのに。
わかっている、のに。聞かずには、いられない。
この怪異は、放っておけない言葉ばかりを選んで、ぶつけてくるのだ。
「おぬしは、感謝している。立派なことじゃ。けれど――祖母の今の行為は、その感謝を盾に、おぬしを責めているというものじゃ」
「俺は責められてない。祖母が嘆いているだけだ」
「それを『責められている』と言う。目の前におぬしがいるのに、祖母は過去ばかり口にして、おぬしを見ようとせぬではないか。『現実のお前では不満だ。過去にこそ幸福がある』――おぬしを前に嘆くというのは、そういうことではないのか?」
「……」
「もう長くない祖母を置いて旅をしたのは、本当に『祖父を探す』だけが理由か?」
「……そうだ」
「『見ていられない』と、言ったではないか。見ていられない、聞いていられない。……つらかったんじゃろう? 大事な相手が、無茶なことを言う。おぬしのことじゃ、きちんと世話もし、感謝を想いのみならず、かたちでも返しておるじゃろう。しかし、祖母は感謝をしない。おぬしが、こんなに感謝をしているというのに」
「………………だが」
「おぬしは、自由であるはずじゃろう」
「……」
「ずいぶん遠くから来たこと、身なりでわかる。……どうじゃった、ここまでの旅路は」
「……」
「解放感がなかったか?」
「……ッ」
肯定しかけて、慌てて唇を噛んだ。
解放感は――あった。
嘆きと後悔ばかりを口にする祖母の世話に疲れ果てていた。
彼女のためだという言い訳でおこなわれた一人旅は、楽しく、幸福だった。
「おぬし、いいやつじゃのう」
「……」
「そして、責任感があり、まじめじゃ。……己を責めすぎていないか、わらわは心配になるぞ」
「お前に心配されることなんか、なにもない」
「しかし、わらわが心配しなければ、誰がおぬしを心配する? 誰もかれも、おぬしを『自立した祖母孝行な立派な男』と扱っておったのではないか? 『心配の必要なんかない強者』であると、そのように」
「……」
「いつから、他者に甘えていない?」
「…………」
「大人だから。感謝しているから。立派だから。社会に出ているから。……これらはな、『他者に甘えてならん』という理由にはならんのじゃぞ。――努力には褒美が必要じゃろう。おぬしの努力を、わらわは称えるぞ」
誰にも理解されない悩みが、たしかにあった。
強く、立派な――育ててくれた祖母に誇ってもらえるような人物を目指して、そうなったつもりだ。
でも。
大事なものが抜け落ちた人生だった。
「いいではないか、ちょっと甘えるぐらい」
「……」
「さあ、ここまで、よくがんばったのう。わらわの胸にとびこんでくるがよい。頭をなでて、労ってやろう。――母のようにの」
……ああ、抗えない。
親がいないという負い目を感じさせないように、育ててくれた祖母に報いるため立派であろうと心がけていた人生は――
母に甘えることがなく。
……ぬくもりを伴った愛情を知らない人生だったのだと。
都市伝説に、見抜かれた。
彼の敗因は、きっと、そういうものだったのだろう。