序章 三日月の夜に
「はぁ〜もう外真っ暗じゃないですか〜」
文化祭の片付けが終わり、仕事から解放された一人の女子高生は呟いた。
いつものように荷物をまとめ、家路につく。
「そう言えば最近この近くで通り魔事件があったとか。物騒な世の中ですねぇ」
街灯のない夜道を、少女は一人で歩み始めた。
「あ…がっ!?」
右の肩口から左脇腹にかけて走る衝撃と、ザラりとした冷たい何かが体内を走り抜ける不快感。
酷く熱い液体が白いブラウスを染め上げ、一瞬遅れて、激しく鋭い痛みが全身を蹂躙する。
「あ…あァ嗚呼ぁアあぁっっ!」
アスファルトにうつ伏せに倒れ込み、シャツが背中と擦れる事で追加の激痛が脳髄に流れ込んだ。
何者かに背中を斬られた。そう理解するまでには更に一瞬が必要だった。
「な…なん…で…」
涙と泥でグシャグシャになった顔を何とか後ろに向ける。三日月の細い月明かりに照らされてそこに浮かび上がったのは、身の丈を超える程の、異様に大きな日本刀を携えた一人の男だった。
文化祭で遅くなった帰り道で通り魔に襲われた少女、猫屋敷 琴里の生命は今、尽きようとしていた。
傷口が酷く熱い。しかしそこから体温が漏れ出してしまっているかのごとく身体はどんどんと冷たくなっていくのが自分でも分かった。いや、漏れ出しているのは体温なんかじゃなく、もっと大事な…それこそ、私の生命そのものなのだろう。
何故か目の前の男は止めを刺してこないが、それでもこれが致命傷である事くらいは一般的な女子高生である琴里にも理解出来ていた。
視界と意識がブラックアウトし、生命活動が終わる其の瞬間…
琴里の意識は突然に覚醒した。
「っ!?」
自分でも何が起きたか分からない。未だに背中からは血液が流れ続け、激痛は治まらない。しかし、ブラックアウトしていた意識は鮮明になり、赤と黒に塗りつぶされたはずの視界は、夜の闇に佇む男の戸惑う様な表情をはっきりと捉えている。
再び男が大上段に刀を振り上げ、袈裟懸けに切りかかる。剣道でもやっているのか、身体に軸の通った見事な太刀筋だ。
しかし、それは琴里にとっては酷く緩慢な動作にしか思えなかった。
そして、身体は勝手に動き出す。
最低限の動作で身体をずらして太刀を躱すと共に、振り下ろされた刃を踏みつけ、取り落とさせる。一足飛びに懐に入り込むと、全身を捻りながら右手の五指を手刀の形に構え、男の喉笛の一部を抉り抜いた。
生暖かい液体が吹き出し、数瞬前まで生命だった肉塊が「どぅ」と地に転がる。
いつの間にか、出血は止まっていた。
「はあ…はあ…」
呼吸を整えたところで、彼女の思考がやっと事実に追いつく。
「え…あ…この人…死んで…あああぁっ!?」
『人殺しをした』と言う単純明快な事実に。
「で…でも…この人は私を殺そうと…わ、私は自分の身を…でも、切られて…そう言えば私なんで生きて…私は…私は!?」
「んー、この場合は過剰防衛になっちゃうんじゃないかな〜」
壊れかける琴里に突如、闇の中から緊張感の欠けた声が飛び出して来た。
「正当防衛と違って過剰防衛は一旦殺人罪が成立してからの減刑だからね。この人は君を殺そうとした…いや、殺したってのに、理不尽だよねぇ」
闇の中から出てきた奇妙としか言い様のない格好の女性は、絶句する琴里を無視して、続ける。
「さて、猫屋敷 琴里君、私個人の意見なんだけども、君にはこの世界は向いていないと思うよ。どうだい?君にあった世界に行く気は無いかい?」
屈託のない笑みで、男の持っていた大太刀を差し出しながら、女は少女を異世界へと誘った。
踏み込んだ者は戻れない。
行先がどんな所かも、分からないまま…




