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懐古的親類限定心霊話

霊感が有る、無い。

普通に暮らしていればどうでも良い事である。


子供の頃、霊感があると嘯く同級生達もいたし、時たま心霊番組に登場する霊験あらたかなお坊様やおばちゃん、怪談話を巧く話す心霊タレントなど日本のお茶の間には「不思議なモノ」を楽しみ、怖がり、ありがたがって金儲けをする文化がある。


霊体験をする人は生きているうちにとことん体験するし、

霊感のない人は全く無縁の世界を生きる。


私はその中間、「親族限定霊感」の持ち主だったりする。


そんな、他人には全く役に立たない「親族限定霊感」の話を、ちょこっとだけ、してみようかななんて気の迷いを起こしたのでお付き合いいただければと思う。




「カルケットが食べたい」曾祖母の話


小学校中学年ほどの記憶である。

丙午の女、曾祖母の声が聞こえたのである。


もちろんとっくに亡くなっているお人である。


私の記憶にある生前の曾祖母は既に痴呆が進み「家に帰りたい」と繰り返す寝たきりの老人であった。


私の実家は東北の端の方なので、実際は「家さけぇりてェ」だが。


みなとに生まれた丙午(ひのえうま)の女で、厄介祓いに山を越えた酒屋に幼い頃から奉公に出されたのだと曾祖母の娘にあたる大叔母から聞いたことがある。


丙午の女のジンクスにより、正月も帰ることを生家から許されず、ついに私の曽祖父と結婚し子供を産む時も里帰りも赦されなかったと聞く。


「おばあさん、ここおうちだよ」


そう耳の遠くなった曾祖母のため、耳元で大きめの声で話す曾祖母の娘。私の大叔母にあたる。


痴呆の進んだ曾祖母の帰りたい家は、きっと嫁に来たこの家ではなく、生まれ育ったみなとの方の家なのだろう。



知っているだけで祖父の兄弟姉妹は7人。

明治生まれの曾祖母が生んだ子供や赤ん坊なのだから、幼い頃に死んでしまった人もいたかもしれない。

大正生まれの長男の祖父から昭和生まれの末娘の大叔母までは(うろ覚えだが)26歳の差がある。

実の兄弟よりも大叔母は私の父の方と歳が近い。




里帰りもなく、多産だった曾祖母。


私の生家は呉服店と銘打つ自営業だ。

元は行商だったが、曾祖母の奉公先の酒屋に気に入られ、土地と嫁を貰い旅から旅の行商ではなく店を持ったのだと聞いている。


新たに構えた家と店で子供を産み育てた曾祖母。

私の母から、母が嫁に来た時、姑からはいびられたが大姑からはたいそう良くしてもらったのだ、と聞いた。


チヤホヤされたお嬢様出身の祖母より、奉公に出て周りに知る人のいない辛さを知る曾祖母が嫁に優しいのは想像できる話だ。


だからこそ介護ができる、と母が米びつの前でポツリとこぼしていたのを、

二十年以上前の出来事だが今でもよく覚えている。


入れ歯も入れられなくなった、痴呆の進んだ寝たきりの老人。


それでも病院的な流動食などは使わず、刻み、すり潰し、たくさんの小皿に色とりどりのペーストが少しずつ盛られたお膳は子供心ながらに綺麗だと思った。


今の自分に母と同じことが出来るかと聞かれれば答えはNOだ。


けれども自営業を営む店舗兼自宅の我が家。

繁忙期はどうしても世話ができず老人ホームに2、3ヵ月お世話になることもあった。


その時は決まって大叔母と「お見舞い」に行くのである。

果汁のゼリーと、オレンジジュース、リンゴジュース、「カルケット」を持って。


「お見舞い」はジブリアニメのとなりのトトロの主人公達が父親のこぐ自転車に乗り、田植えをするおばあちゃんに「おかーさんのおみまいにいくのー」というシーンがあった。

憧れていたわけでもないが、なんとなくその覚えたセリフを言ってみたくて「トキおばあさんのお見舞いに行くのー!」と家じゅうに触れ回った。


就学前の幼児の言うことである。

祖父も祖母も頭を撫で「おんばぁさんさよろしくな」と言ってくれた。


大叔母と手を繋ぎ、ひたすら歩く。

朽ちかけたフェンスに絡まるホップの様な植物、野生する桑の実が赤い美味しそうなものは酸っぱく、黒いものが甘いのだ、と教わったのもこの健脚な大叔母と「お見舞い」に行く道中だった。


デコボコ割れているアスファルトを歩いていたセミの幼虫を大叔母のハンカチで包んで捕まえ、羽化を見守ったこともある。


ひ孫勢の中で1番曾祖母に面会したと豪語できるくらい、私は曾祖母に惹かれていた。


まともに話すことは出来ない曾祖母。

なのに何故か気になって仕方が無いのだ。



不思議なもので、家の中でも曾祖母の部屋に立ち入るのは私と母ばかり。

滅多に曾祖母の部屋に立ち入る「実の息子」の姿は無かったと記憶している。

時おりやって来る親戚も痴呆の進んだ話の成立しない曾祖母に「挨拶」をしただけで、あとは女勢は台所(大人十人ほどが一斉に食事を取れる広さ)

男勢は応接間などで話をしている。



「……あんだどこの子だェ」

「トキおばあさんのひ孫だよ」

「わァさひ孫が……あんだはェ、なにどしな」

「午年」

「ほが」


ほが、そうか。

それっきり曾祖母は黙り込んだ。

それが、痴呆が進んでいるはずの曾祖母との唯一のまともな会話の思い出である。


何の因果か、我が家系には午年が多い。

曾祖母、父、従姉、私、従妹、従兄、そして大叔父や叔母にも午年生まれがいる。


何の因果か、私の結婚相手まで年は違うが午年である。

破談となった見合い相手も午年である。


そのハナシは置いといて。



曾祖母は死んだ。

死因は子供なので聞いていなかったが、年からいって老衰なのだと思う。

七夕の少し前のことだった。


当時はまだ土曜は午前中授業があった。


葬儀の喪主は祖父がつとめ、式は盛大に執り行われた。

田舎の葬式なので、家の中のふすまを取り払い、部屋を繋げて廊下まで座布団をしき、葬式をあげた。


ナントカ大姉という戒名を見る限り、あちこちに金がかかっているようだった。


曾祖母が死んだ。


白い布団に死装束の曾祖母。

棺の中にいる曾祖母。


死んだ実感があまり無かった。


いつも通り、手回しハンドルで体を起こせる介護ベッドに横たわり眠る曾祖母となんら代わりのないように見えた。



ほんの少し、唇がいつもよりへこんでいる。その違いしかない。



火葬され、カラカラパリパリと音を立てながら出てきた曾祖母を見ても、感情は動かなかった。


べつに何も無い壁を指して、「そこにおばあちゃんいるから悲しくないよ」

とかそう言うものではない。


なんと表現したらよいのか分からない、大人になった今なら「不気味」と表現するかもしれないその感覚は時おり思い出したように「やって来る」のだ。



初めてやって来たのは曾祖母が亡くなって程なくした頃。

「カルケットがたべたい」

そういう旨の「音」が聞こえたのである。


声とは少し違う。

入れ歯の入らない、痴呆の進んだ気の抜けた曾祖母の声はよく覚えている。


「トキおばあさん、カルケットが食べたいって」


そう母に告げた時の妙な顔。子供ながらにまずいことを言ったことを悟り、「夢でね、トキおばあさんがね、」とごにょごにょ言い訳をした。


母とともに仏壇の前に行けば、仏壇の高坏には、何もお菓子が上がっていなかった。


仏壇のある部屋は大抵祖父が祖母がおり、テレビがあり、仕事の書類がぎっしりとつまったシャッターの閉まる金属製の棚がある部屋だ。


朝晩の水の取り換えは祖母がやるし、基本的に仏壇の花の管理と掃除以外では母が立ち入ることのない部屋だった。


仏壇に上げたお菓子は甘いもの好きな祖父がちょくちょく食べている。

だから無くなるのだが……


「あら……じゃあ〇〇(私の名前)カルケット買ってきてちょうだい」


そう言われ、おつかいにいき、曾祖母ご所望のカルケットを買って帰ると、裏口に大叔母の靴があった。


ド田舎では「アポ無し訪問」などいつもの事で、特に気にもとめず挨拶しようと大叔母の姿を探せば、その手には「カルケット」があった。


「今朝ね、トキおばあさんの声がしたのよ。カルケットが食べたいって。

でも住んでるところ離れてるから時間かかるわよ、ってお返事してね。

気のせいかもしれないけど、一応来たの。なんの知らせかは分からないけど……」


しん、と家の中が静かになった。

時間的に曾祖母の声を聞いたのは大叔母が先のようだ。


時間がかかると分かり私の方に訴えかけてきたのだろうか。


しかし私もその声をきき、まさにお使いに走ったと知っている家の者達は、笑い飛ばせず固まっていた。


大叔母が来るまで待てない、そんなせっかちな曾祖母のために、私はしんと静まり返る中、ガサゴソとカルケットの箱をあけ、中の銀の袋をハサミで切り、中身を皿にあけて仏壇へ「あげもう」した。



それからというもの、曾祖母は私にカルケットをたまにねだるようになったが、

その後私は難病を発症し、大叔母よりも遠い位置へ入院するようになるとパタリと声は止んだ。


帰れない私にねだっても無駄だと分かっているのか、

それとも遠すぎてこちらまで来れないのか。


分からないが、退院して家に戻れば今度は「サイダー」を要求してきたので、分かってやってるんだなぁ、と妙に納得した思春期の頃。


リンゴジュースやオレンジジュースは要求されなかったので、お見舞いに持っていったジュースはそんなに喜んでいなかったのかもしれない、と理解してしまい、

幼い頃の楽しかった思い出にほんの少し影を落とすのであった。



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