山と蟻の中間
一晩経って。
何一つ動く物の無い部屋の中でアイヴァンは、
「……腹が減った……」
三日前から何も食べていないことに思い至り、うめいた。
ベッドの上で悶える。ひたすら悶える。と、突然、ドアを軽くノックする音が聞こえた。
「おい、アイヴァン。生きてるか?」
がちゃり、と音を立てて開け放たれたドアから見えたのは、鍵束を手に下げるファリナの姿だった。
「生きていません……アイヴァンは現在、腹が減って死んでいます……」
「あんた、起きているんだろう? いつまで狸寝入りしているつもりだ」
声と共に部屋に入ってきたファリナが、アイヴァンの寝るベッドを蹴り飛ばした。
衝撃と共に強制的に意識を覚醒させられたアイヴァンは、まだ眠気の残る頭で思う。何という横暴な医者だろう。なぜ自分は、こんな奴に世話にならなければならないのだろうか。
「……何か言ったか?」
「いえ、別に何も。それより、本来死人の重病人を叩き起こしてどうするつもりでございますか?」
「あんたの口調が変なのは置いておくとして、だ。患者をずっと部屋の中に篭らせるのは精神衛生に悪いからな、少し散歩しに行くぞ」
「無茶を言うな、俺は怪我人で……って、あれ?」
体を動かしてみると、ほとんど痛みが無いことに気づいた。
「もう痛みはほとんど無いはずだ。三日も経てば、さすがに体組織の大半は修復されているはずだからな」
……いや、それよりも腹が減って死にそうなんですが。
半ば恨みの篭った目でファリナを見ていると、彼女は、
「そうそう、あんたに食事を与えるのを忘れていた。ほれ、食事だ」
よく見ると、鍵束を下げている方とは異なるもう一方の手は、料理の乗ったトレイを持っていた。
「おおっ、ありがとうファリナ様!」
「……何かあんたの性格が変わってるような気がするが、気にしないでおく。さあ、とっとと食え」
ファリナがトレイをテーブルに置くと、アイヴァンは餓えた狼のように料理に飛びついた。そして、食う。味などどうでもいい。今はまず背中に張り付きそうな腹を膨らませることが先決なのだ。
料理の大半を胃袋に収めようやく思考に余裕が出てきた頃、アイヴァンは椅子に改めて座りなおし、ファリナに尋ねた。
「なあ。さっき散歩するって言ったよな。俺は別にいいとして、ティリアはどうするんだ?」
「ああ……彼女はまだ疲労が抜け切っていないらしいからな。また今度にしておく」
……ティリアはいいのかよ。
料理を口に運ぶ手は休ませず、アイヴァンは思う。どうもティリアと自分とでは扱いが違うような気がする。ティリアばかり患者扱いされていて自分は蔑ろにされているような気がする。
「む、いかん……もうこんな時間か。そろそろ来るな」
「……? 何を言って――」
アイヴァンの言葉は途中で、外部からの騒音によって遮られた。
一体何事だ、と思って窓の外を見ると、
「おい医者さんよぉ! とっとと俺の傷見てくれや! 傷を治してくれねぇと、今日の仕事ができねぇんだよ!」
数人の男たちが家に詰め寄せ、やかましく騒ぎ立てていた。
ファリナは険しい顔で窓に近寄って、男の一人に忠告する。
「マークス。まだ今日は診察の時間は始まってないんだ。もう少し待ってくれ」
「ファリナ! 俺たちは忙しいんだ! 早くここを開けてくれ!」
「カイル。だったら、来なくていいぞ。私は暇人ではないのだからな」
「よー姉ちゃん、相変わらずいい尻してんなぁ!」
「ガルム。いい加減にしろ、ここには病人がいるのだぞ。お前の下品な発言で患者がノイローゼになったらどうする!」
押しかけようとする男たちに対して、ファリナはそれぞれの名を呼び、叱責する。だがそれでも男たちは諦めないようで、
「おいおい、そりゃねぇんじゃねぇのか? 俺たちゃ怪我人なんだぞ」
「優先されるべきは重病人だ。それに、その程度の怪我で私のところに来るんじゃない!」
荒くれ者たちとファリナの間で交わされるやりとりを見て、アイヴァンは納得した。
……なるほど。こんな奴らを毎日相手にしているのなら、普段の口調が荒々しくなってもおかしくないか。
「ああ、うるさい! お前たち、こんな朝早くに来る時間があるんだったら家で大人しく寝てろ! そうやって無意味なことばかりやっているから余計な傷なんぞ作る羽目になるんだ!」
男たちの強行的な態度に見かねたファリナは、ぴしゃっ、と盛大な音を立ててカーテンを閉め、ぼやいた。
「まったく……この街に来てからというもの、毎日がこの調子だ。いい加減参りそうだ」
「診察を希望する奴が全くいない状況よりはマシだと思うけどな」
ファリナはアイヴァンの言葉を無視して、廊下の奥を指し示した。
「診察が開始される時間までもうあまり無い。とっとと家から出るとしよう。あいつらに知られていない裏口があるから、そこから出るぞ」
了解、とアイヴァンは返す。ファリナの案内に従って廊下を進むと、三方を壁に囲まれた箇所に突き当たった。ファリナが壁の一箇所を何やら操作すると、前方の壁が音を立てて後退し、地下道へと至る階段が現れた。
「地下道だ。暗いから、気をつけろよ」
ファリナ先導の下、アイヴァンは地下道へ足を踏み入れる。
明かり一つ無い地下道を彼女の後ろ姿を頼りに進みながら、アイヴァンは尋ねる。
「なあ。なんでこんな地下道がお前の家にあるんだ?」
「気にするな。ほれ、もう着いたぞ」
地下道は途中で分岐しており、片方の道の奥には地上に至る階段があった。その階段を昇った先は空間が広がっており、小さな小屋のようになっていた。
「この地下道は、ガンズヒルの様々な場所に繋がっている。そしてここは中継地点の一つだ」
ファリナがそう言って目の前の扉を押し開けると、たちまち視界が広がった。視線は石造りの家々を飛び越え、遥か向こうの景色へ否応無く向けられる。白く輝く太陽は地上を照りつけ、風吹き荒ぶ荒野はその荒々しい姿をこれ見よがしに見せつける。遠くに連なる岩山の頂上には、薄っすらと雪の白線が縦に描かれていた。
見渡せる光景は、雄大そのものだった。小屋から出たアイヴァンは眼前の光景に感嘆し、呟く。
「……いい街だな、ここは」
「だろう。この雄大な光景は、ガンズヒルに住む者たち全員の誇りでもある。文明が滅んで三十年――ここまで雄大な光景を眺める街は、この惑星でもそうそうはあるまい」
アイヴァンは、否、この惑星の住民は知っている。文明終焉によって滅んだのは、人の文明だけではない。大自然の多くは無残にも破壊し尽くされ、大陸は大規模な地殻変動によって細かく分断し、結果的にこの惑星は原形を失った。そんな経緯があるからこそ、理解できた。小高い丘の上にあるこの小さな街は、特別なのだと。
視線を巡らせて周囲の人々を観察してみると、この街には様々なタイプの人間がいることが分かった。街の住民は勿論のこと、流れの商人や旅人、果ては学者といった人種までいる。心なしか、僧侶や神官の格好をした人間が多い気がした。
「小さな街なのに、色々な人間がいるんだな。何か特産品でもあるのか?」
「まさか。この御時世だ、人がいるということにはそれなりの理由がある。ほれ、あれを見てみろ」
ファリナが指差した方向に目をやると、ドーム状の白い建造物が見えた。全高はおおよそ十メートルほどだろうか。近寄ってよく見てみると、大理石で造られていることが分かる。驚愕すべきなのは、ほとんど継ぎ目がないという点だった。
現代の技術でここまで巨大な建造物を造る場合、継ぎ目を無くすことは不可能に近い。
だというのにこの建造物は見事なまでに外観の調和を保ち、そこに在るべき物として、自然の風景の一部として存在していた。
アイヴァンは、感嘆の吐息を漏らした。
「……凄いな。こんな建造物、見たことがない。一体何なんだ、これは?」
「それは聖堂さ。文明終焉以前にこの惑星に存在していたと言われる大賢人の一人を祭っているんだ」
「大賢人? ああ……そういえば、そんな人間もいたな」
大賢人とは、人類全体にとって大きな偉業を成し遂げた者に与えられる称号だ。
基本的には、文明終焉以前の世界では世紀を越えて語り継がれるポピュラーな存在であり、同時に伝説の英雄でもある。アイヴァンの持つ電子時計に表示される暦に使われている名前が大賢人の物だということからも、当時の世間への浸透性が窺える。
しかし、大賢人は英雄としての側面の方が有名だ。称号を持つ者の中には、この宇宙を崩壊の危機から救ったり、世界を外敵から守り抜いたという御伽噺めいた人物もいたらしい。
とは言え、大賢人はそのほとんどが文明終焉以前に存在していた人物だ。今では実在せず、各地に伝承が残されているに留まっているに過ぎない。
「そして、あんたも予想していると思うが、この聖堂は文明終焉以前の建造物だ。よくは分からないが、何かの機能が働いて文明終焉の災厄から守られたらしいな」
文明終焉は多くの文明を破滅に追いやった。しかし中には何らかの理由によって文明終焉の災いから免れ、ほぼ完全な状態で文明終焉以前の姿を保っている建造物が存在することを、アイヴァンは知っている。
「この聖堂は、文明終焉を生き抜いたのか? こんな完全な形で?」
「聞く限りではそのようだ。それよりあんた、聖堂が文明終焉以前の建造物だと知って興味が湧いたか?」
「……別に。というよりあんた、ティリアから俺のことをどこまで聞いたんだ?」
「あんたが盗掘屋をしているということは、聞いたよ」
そう言って、ファリナは肩をすくめた。
「まあ、話を戻そう。ここは大賢人を祭っている聖地だ。そんな事情だからここには巡礼に来る者も多い。街で不足している物資は、巡礼者から仕入れている。そのお陰でこの街は生き残れているんだ。何しろ周囲は荒野、加えて小高い丘の上にある街だからな……取れるものも、取れんさ。だからこの街は、信心深い者たちによって支えられていると言ってもいいだろう」
世の中には色々なものがあるもんだな、とファリナの話を聞いたアイヴァンは思う。色々な場所に行って見知らぬ人々の生活を見てみるのも――悪くはないかもしれない。
「……なんか、旅に出てみたくなっちまったな」
「自分の目的を成し遂げたら、各地を旅するのもいいだろう。旅はいいぞ。風景明媚な場所を見て回るのもいいし、他の村や街に行けば見識も広められる。私も数年前までは旅をしていたものだ」
「目的、ね……」
自分の目的は何だったろうか。村を滅ぼした軍への復讐か。それとも、亡くなった村の住民の分まで生き抜いてみせることか。
……違う。俺が望んでいるのは、そういったことじゃない。
望んでいたものは、一体、何だったのか。
「――あんたの目的は、軍への復讐か? それとも、別の何かか?」
こちらの心の内を見透かしたかのように、ファリナが言った。
「……俺は……」
何だったろうか。昔、自分が望んだことは。
「俺は、どうしたらいいのか自分でも分からない。俺の村は軍の奴らに――」
ファリナの意見を求め、苦い過去を口にしようとした刹那。突然、横合いから拳が飛んできた。繰り出された拳をかろうじて動く右手で受け止めて、アイヴァンは横を振り向く。
「……おい、何の用だ?」
振り向いた先には、ウェスタンハットを被る一人の男がいた。
三、四十代ほどだろうか。髭面のその男は自らの拳が受け止められたことに動じもせず、無表情極まりない顔でこちらを見据えていた。
「その身のこなし……さてはお前、軍の者だな?」
「……はあ? 何を馬鹿なことを――」
言いかけたアイヴァンを、更なる拳が襲った。アイヴァンは寸前で身を捻って拳をかわし、男を睨みつける。
「おい! 一体何がやりてぇんだよ、お前は!」
「知れたこと! 分からなければ、自分の胸に問うがいい!」
言葉の途中で、男は膝蹴りをかましてきた。アイヴァンは後ろにバックステップして膝蹴りをかわすと、
「――ブッ飛ばすぞこの野郎ッ!」
わけも分からずこんな場所でやられるわけにはいかない。いつも通りの動作で銃を抜き放とうとしたところで、アイヴァンはとあることに思い至った。
……やべ、銃はファリナに預けてたんだった。
思わず硬直するアイヴァンを嘲笑うと、男は漆黒の拳銃を懐から取り出した。そのまま流れるような動作でアイヴァンに照準を合わせ、引き金を引こうとし――
「やめろ、ギリアム! そいつに手を出すな!」
割って入ったファリナの必死の訴えに、男は動きを止めた。振り返って、彼女をじっと見やる。
「ファリナ、そいつと知り合いなのか? まさかとは思うが、軍の者ではあるまいな」
「いちいちうるさい奴だな、あんたは。こいつは私の古い友人だよ。名をアイヴァンと言う」
「……信頼できるのか?」
「できる」
断言するファリナから、並々ならぬ意志を感じ取ったのだろう。男はファリナから視線を外すと、
「早くこの街から立ち去れ。お前のような他所者がいると、ろくなことにならん」
こちらにそう吐き捨てて去っていった。
「……なんだ、あいつ」
「気にするな。この街では有名な馬鹿者だ」
嫌悪感を滲ませた顔で、ファリナはそう返した。
「さて……あんた、さっき何を言おうとした? 軍がどうとか、言ってたな?」
「あ、ああ……実は――」
アイヴァンは、過去を語った。自分がとある村の出身であること、その村が軍に焼き払われたことを。それらの話を聞いたファリナは、唸る。
「要するにあんたは、軍に故郷を滅ぼされたわけだ」
ふう、とファリナは一際大きく溜息をついた。
「アイヴァン。私がここの出身ではないということは、言ったな?」
「ん……ああ、お前は数年前まで旅をしていたんだったか?」
「なぜ私が旅をしてきたのか、あんたは分かるか?」
「いや……」
「……幼い頃の私は、こことは別の、とある小さな村に住んでいたのだ。だがある日、軍が攻め込んできた。彼らは何の罪もない人々を一方的に殺戮し、物品を強奪していった。彼らは、私の村を焼き滅ぼしたのだ」
「……おい、ちょっと待て」
自分が辿った過去と内容がまるで一致しているファリナの話に、アイヴァンはうめいた。
「お前、もしかしてその村って……アーネイって言うんじゃないのか?」
恐る恐る告げるとファリナは、ほう、と僅かに眉根を寄せた。
「やはり、知っているのか? あの平穏な村を」
「知ってるも何も、俺はそこの生まれだっ! 俺は五年前まであそこで暮らしていた。
あの事件から生き延びることのできた俺はその日暮らしの生活をしている、それだけの話だ! お前は……俺と同じ村の出身なのか!?」
「まあ、話を総合するとそういうことになりそうだな。まったく、滅ぼされた村の生き残り同士が時を経てこんな場所で出会うとはな。とんだ偶然だ」
「とんだ偶然だ、だと……? なんでそんなに落ち着いていられるんだ、お前は!」
「そう興奮するな、もうちょっと落ち着け。アーネイから逃れ流浪の旅を続けてきた私は、故郷を襲撃した軍の素性を調べてきた。一体如何なる組織なのか、どんな目的があるのか……。分かったことは少しだけだった。彼らは、宇宙統合政府で極秘裏に運用されていた特務隊、通称『実験部隊』の生き残りだ。彼らは宇宙統合政府が成し得なかった目的を引き継ぎ、それを達成するためだけに動いている。故に彼らは軍と名乗っている。宇宙統合政府が消滅した今となっても、未だに彼らは統合政府の所属なのだよ。言わば、亡霊のようなものだな」
「……それとこれと、どう関係がある」
「全域大戦以前、統合政府はどんな政策を掲げどんな世界を作ろうとしていたか知っているか? 『統合政府主権による平和な世界』だ。聞こえこそはいいものの、しかし実体はそれとは乖離した酷いものでな……。そんな統合政府の理念を受け継いだ軍の目的は、恐らくはろくでもない物だろう。彼らは、ティリアを狙っている。彼らに決してティリアを渡してはならない。あんたが、きっちりとあの子を守り抜かなければならない」
「守り抜くだと……? 何を言ってるんだ、ティリアはリリウスだぞ。全域大戦の主力になった、兵器なんだぞ? 普通は逆だろうが!」
「分かっていないな……ほんの数日前に起動されたばかりのティリアは、いわば生まれたての赤ん坊なのだ。今の彼女は、世の中のことを学習するので手一杯だ。善悪の判断だって、まだよくはついてないだろう。悪徳詐欺師に騙されて、ホイホイとついていってしまうかもしれない。そんな彼女を守れるのは、あんただけなんだ。それを、分かれ」
「ああ、もう……!」
嘆息する。ファリナの言い分に反発しながらも、心の内でそれを認めてしまっている自分がいるのは事実だ。
更に、続く言葉がアイヴァンの気持ちに追い討ちをかける。
「あんたの本心は分かっているんだ、アイヴァン。あんたは、あのリリウスに昔の自分を見ている。あそこまで純真な子を見ていると、幼い頃の記憶が嫌でも喚起される。だから放っておけないんだ。そうだろう?」
「……うぐ」
図星だった。自分がティリアを放っておけないのは、彼女に幼い頃の自身を投影しているからだ。
「だけど、それが事実だとしても……お前は一体、俺に何を期待してるってんだ」
「――自分にもっと素直になれ。それが、私の言いたいことだ」
「………………」
大きく、溜息。諦めの意を込めた嘆息をした後、アイヴァンは顔を上げた。
「素直に、ね。そんなことを言いたいがために、お前は自分がアーネイの出身だってことを打ち明けたのか」
「他にも言いたいことは沢山あるさ。復讐なんぞしても意味はないぞ、とかな」
「俺は別に復讐なんて望んじゃいねぇ。……確かに、軍への恨みはあるけどな」
「そうだな……私も最初は、軍に対する恨みが自身の体を突き動かす原動力だった。今は、そうでもないがな」
そう言ってファリナは再び歩き始めた。流れる風が、彼女の黒髪を撫でつけていく。
アイヴァンはファリナの後について歩きながら、問いかける。
「……なあ、ファリナ。軍はティリアを狙っているって言ったよな。奴らの目的は……一体、何なんだ?」
「リリウスは兵器だ。しかし次世代型リリウスの真価は、それとは別のところにある。
次世代型リリウスは、演算装置を備えた外部拡張端末と接続することで、自身の……つまり、脳の情報処理能力を拡大化することができる。軍はどうやら、次世代型リリウスのそういった点に着目しているらしい」
「わけが分からん。脳の情報処理能力なんか上げて、どうなるっていうんだよ」
「さあな。元々リリウスはスーパーコンピュータ以上の情報処理能力を持っている。それほどまでにある情報処理能力を更に向上できる次世代型リリウスを狙うには、何かしらの大規模な軍事目的があるのではないかと私は思うが……何分、推測の域を出ない。軍がティリアに何かを求めているのは確実だが、そこから先のことは分からないな。知りたいのなら、直接軍に会って聞き出すしかない」
言って、ファリナは肩をすくめる。
「ともかく、軍にティリアに渡してはいけない。何があってもだ」
「ちっ……無茶なことを言ってくれる。というかそもそもの話、なんであんたは軍を追うのを止めたんだよ。あんたがもうちょっと頑張ってくれれば、軍の目的やら何やらが分かってたかもしれなかったってのに」
「医者になるという夢を、叶えたかったからだよ。いつ終わるとも知れぬ復讐心に身を費やすより、自分の夢を追うことを選んだんだ」
……ああ、そういうことか。
軍への追跡を諦めたファリナの心情を思い、アイヴァンは嘆息した。
「でもよ、別にお前の選択に文句をつけるわけじゃねぇけど……今の時代、医者になるメリットなんて無いだろう。確かに人々から必要とはされるけどよ……軍を追うことを放棄してまでなりたい職業のようには、俺には思えない」
「あんたはいつも合理的に考えすぎだ。だから、一攫千金を狙える盗掘屋になったのか?」
「……うるさいな。結局のところ、どうなんだよ。あんたのロストテクノロジー嫌いと、何か関連でもあるのか?」
「そうだな。私がロストテクノロジーが好きではないのは、前に言った通りだ。そして、確かにそのことと私の夢に関連はある。……文明終焉以前の文明では、優れたナノテクによって、死んだはずの人間を蘇らせることができた。その結果として、死んでも生き返らせればいい、死のうが壊れようがどうせすぐ治せる――人々はそんな結論に至り、人心は荒廃していった。私はそういうものが嫌いだ。客観的な評価とは関係なく、私はそういうものが嫌いだ」
「自然回帰主義者か、あんたは」
「……私は誰もが共存できる道を探っているだけだ。軍を追う旅の中で、私は理解したのだ。過去が存在するからこそ、私たちは現在を生きていける。そして未来に繋げることができる。私が生体患者専門の医者をやっているのは、そのためだ。未来に現在を繋げるため、決して過去を断たせない……過去に起こったことを無かったことにしてはならない。だから私は、あったことを無かったことにできるロストテクノロジーを使わない、普通の医者になったのだ」
「なるほど。過去が存在するから現在がある、ね。俺のお袋もそんな独特な価値観を俺によく説いていたよ」
「そうか……だとしたら、幼い頃の私たちは案外近い関係だったのかもしれんな。まあ、そんなことはどうでもいい。アイヴァン、今度は私から質問させて貰おう。あんたの夢は、何だったのだ? まさか、幼い頃から盗掘屋になるつもりだったわけではあるまい?」
「……そう来るか。言っておくが、俺は昔の夢なんてほとんど覚えちゃいねぇぞ」
「忘れてしまったことは無理に思い出さなくてもいい。あんたがもし、昔抱いた夢の断片を覚えているのなら……私に、話してみろ」
ファリナの言葉にはどこか、抗えない力があった。
「……俺の夢は――」
――そうしてアイヴァンは、ぽつりぽつりと話し始めた。五年前のあのときに、世界の仕組みを変えてみせると決心したことを。
一通りのことを話し終えると、ファリナは複雑な表情になった。
「世界の仕組みを変える、か。とんでもなく大きいな、あんたの夢は……」
「俺もそう思う。まあ、俺自身そんな夢は忘れてて、つい最近思い出したんだけどな」
「ふむ……そうか。しかし、最近思い出したばかりで悪いが、一つ言わせて貰うぞ。世界の仕組みを変えようという決意は確かに素晴らしい。あんたが優しい人間だということも分かる。この世界の仕組みを変えるという決意は自身の野望などではなく、救われない人々を救うための理想だというのも、私には理解できる。共感もできる。しかし、しかしな……この世界の仕組みを変えてしまえば、逆に救われなくなってしまう者もいる。それでは、自身の願いに反することになるのではないか。あんたは、そのことをどう思っているのだ?」
告げられた言葉に――アイヴァンは思わず怒りを覚えた。
こいつは……分かっているようで何にも分かっちゃいねぇ。
ファリナの今の言葉は、自分の過去を棚に上げた物だ。自分の過去を過去として封じ込めてしまっているが故に言える無責任な言葉。自分が正しいと信じるが故に他者の価値観を一方的に黙殺する、偽善者の言葉だった。
「ファリナ、手前ぇ、自分が何を言っているのか分かってるのか……今の世界は、ろくでもない世界なんだぞ! 大戦で地表は破壊し尽くされ、復興の要となるはずの文明さえ文明終焉で失われた! かつての人類の過ちから、平穏に生きようと願った人々でさえ、過ちを引きずるような奴らの手で滅ぼされる! お前はこんな世界の有様を見て、何とも思わねぇのか! 腐れ切った世界を変えようとは、思わねぇのか!」
ファリナは重い溜息をつくと、アイヴァンから視線を外し、前方に目をやった。
「アイヴァン。彼らを見てみろ。彼らは、あんたの目にはどう見える?」
言われるがままに彼女の視線を追うと、農作業をする東洋人たちの姿が見えた。
彼らはこの荒野の上で土を耕し、畑を作っていた。見渡す限り荒野という厳しい環境で、農作業を行っていた。
「あいつら……なんで、作物なんて育ててるんだ? こんな場所で、作物なんて育つわけねぇだろ」
草木の生えない場所で作物を育てるなど、無駄な努力以外の何物でもない。顔をしかめるアイヴァンに、ファリナは言った。
「ところがそうでもない。彼らは東方から渡ってきた者たちでな、独自の技術を用いて作物を育てることを可能にしたのだ。このような荒野で作物を育てる技術を開発できたのは、一重に、日々を必死に生き抜こうという切なる思いがあったからに他ならない。なあ、アイヴァン。こうして見ると、人間は輝いて見えるだろう? 人は、毎日を一生懸命生きていく。それで良いのではないか? 日常とはかけ離れた崇高な信念や理想のために戦う必要など……最早この世界には必要ないのではないか? この街で一生懸命生きている彼らを見ると、私はそう思えてくる」
「それは、そうかもしれねぇ。だが世の中には、少ない食料や物資を巡って争わざるを得ない人々もいる。ノースエルトで五年を過ごした俺にはよく分かる……。一日を生きていけるかどうかさえ定かじゃない奴らは、一体どうすればいいってんだ」
「そのときは、お互いに助け合えば良いのだ」
即答だった。
アイヴァンは、呆れた。
「無茶を言うな。生活に必要な物資さえ足りないんだぞ……生きるためには足りない物資を奪い合うしか――」
「違う。私の言いたいのはそういうことではない。組織や勢力とは関係無く、人類全体がお互いを助け合っていけばいい。それが私の主張だ。人類全体の思想を統一しろなどと言っているのではない。誰かが困っているときには、手を差し伸ばしてあげればいい。力のある人間たちが、力の無い人間たちに少し力を分けてあげればいい。それだけの話だ」
すうっ、と意識が明瞭に冴えていくような気がした。
そんなこと、考えたことも無かった――アイヴァンにとって、ファリナの言葉は天啓のように思えた。
「は、ははっ……! それは思いも寄らなかったな。確かに人類全体が結束すれば無意味に争うことはねぇ……。けどよ、全体主義、だったか? 人間が平等に暮らせるような世界を作ろうという思想だったか……お前の言いたいのは、要するにそういうことなのか?」
「全然違う。全体主義と私の主張は似て非なるものだ。全体主義は人間を一つにまとめ上げ、上層部がそれを管理する。私の主張は、人類全体が結束し助け合える世界を目指すものだ」
「要するに、お互いの思想を尊重し、その上で助け合っていこうと、そういうわけか。――できるわけねぇだろ。世の中には、他人の価値観を侵略しようとする奴だっている。そんな奴らの価値観なんぞ、尊重できるわけがない」
「……昔、母にこんなことを聞いた。『人は山と蟻の中間に過ぎない』……どこかの先住民族が使っていた言葉だ。この言葉を聞くと、人間の猜疑心や欲望など取るに足らない小さなものだと思えてこないか?」
「………………」
アイヴァンは、自分が動揺しているのをはっきりと認識した。ノースエルトの五年で培った価値観が揺らいでいる。
「……分からねぇ。分からねぇよ。ファリナ、お前の言葉は、分からねぇ……」
「あんたはもう、分かっているはずだ。この世界は最早、争い合う力すら無いことを。今度、再び大規模な争いが起きれば、この世界は確実に崩壊する。それを防ぐためにどうすればいいかなど、自明の理ではないか」
改めて指摘されるまでもなく、アイヴァンは、ファリナが正しいということを感じてしまっていた。
そういえば……こいつの言ったことと同じような内容を、以前どこかで聞いたような。
アイヴァンの意識は急速に過去に向かった。ファリナと同じようなことを言っていた人物は誰か。それは――幼馴染だ。
「――分かったぞ」
突然顔を上げたアイヴァンに、ファリナが少しばかり驚きの表情を見せた。
「昔……とんでもなく昔な。まだアーネイにいた頃だ。俺には、幼馴染がいた。俺とよく一緒に遊んで思い出を共有したそいつが……お前に、似ているんだ。どうしようもないくらい、似ているんだ……」
期待を込めて、アイヴァンは言う。
数秒の沈黙の後、ファリナは、笑い出した。
「ははっ――やっと気づいたか、アイヴァン! あんたをそこまで意識誘導するのに、随分と苦労したぞ!」
「な、なに……? どういう意味だ?」
困惑を露にするアイヴァン。ファリナは、笑いすぎて涙目になった瞳を向けて言う。
「ははは、まったく――相変わらず、あんたは鈍いな。ここまで言えばもう分かったものだろう、アイヴァン。いや、こう言うべきか。ラーディス君、と」
ラーディス君。その呼び方を使っていたのは、自分の知る限り、一人だけだ。つまり――
「お前……まさか、本当に……!?」
驚くアイヴァンをよそに、ファリナはくすりと微笑んで、告げた。
「そうだ。私はファリナ=ラクシャス。――あんたの幼馴染だ」