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我が家のえにし

恐ろしいものはいなかった。

ただ、信じていた現実とも、違っていた。

直は、ちゃぶ台を挟んで向かい合った薫をそっと見た。

まだ信じられなかった。

いつも羽織っていた長そでのシャツを脱いでTシャツ一枚になった短髪の薫は、どこからどう見ても男の人だった。

「佐々木のおばあちゃんは、俺にとって本当のばあちゃんみたいな人だったんだ」

声も、低い。

ニューハーフタレントが前にテレビで、喉を締めて裏声を出すやり方を話していたけど、薫もそうしていたんだろうと眺めるが、襟に隠されていた喉仏の辺りをいくら見ても、不思議な感覚は消えなかった。

「うちの親、共働きで家にいなかったから。しょっちゅうここに入り浸って、あの庭で遊んでたよ。拾った犬も、家で飼えないって泣いてたら、ばあちゃんのところにおいてくれることになった。墓だってあの庭に作ってくれて」

掘り返したいと言ったのは、その犬の骨だったのだという。

人騒がせな、と思ったが、薫は確かに人間の骨だとは言っていなかった。勝手に恐慌状態に陥ったのは自分で、お化けなどいなかったと分かった今、一概に薫を責めることは出来ない。

「あの写真は」

直は先程薫が見つめていた仏壇の写真について尋ねた。あれもまた、薫幽霊説の一因だったのだ。

薫はあああれ、と頷いた。

「コロの遺影がわりだよ。コロって、犬の名前ね。あれ、俺が遊びに来たときに撮ってくれたんだけど、コロの写真てそれくらいしかなかったから」

じゃあ、死んだのは犬の方で、一緒に映っていた子どもがすくすく成長して、薫になったわけだ。直はあんぐり口を開けてしまった。

薫は首をすくめる。

「さっき、帰ってきた直さんの反応見て、ああ、俺の正体がばれたんだなと思ったから。そうしたらもう、この家にはいられないから、せめて骨だけでも持っていきたいと思ったんだ」

直は俯いた。

道理で、本気に見えたわけだ。実際には男だとばれるどころか、そのせいでむしろ薫幽霊説という誤解に決定打が打たれたのだが。

「まさか幽霊だと思われているとは予想外だったけど」

くくっと、薫が笑った。こっちが本来の薫の笑い方なのだと、直は知った。それは、今まで目にしてきた物静かな微笑とは違うけれど、決して居心地の悪さは感じなかった。

それで、勇気を出して聞いてみた。

「大学は?本当に通ってるの?」

「行ってる。勿論、男の格好でだけど」

だから見つけられなかったのだ、と直は嘆息した。見事な長い黒髪を目印に捜していたから、短髪の男子学生には目が行かなかった。

「これでも同じ学部なんだけど、幸か不幸か全く知られてなかったね」

「学校へは勉強をしに行ってるんで…」

薫が肩をすくめたので、直は今度こそ居心地の悪い思いをした。自分の交友関係が狭いのは彼女も自覚している。

「佐々木のおばあちゃんから、孫が同じ大学に通ってるとは聞いてたけど、学部も聞いてなかったし名字も違うし、下の名前だけじゃまさかと思ってた。だから、飲み会で遭ったのは偶然だよ。でも、あのとき、直さん、叫んでたでしょ」

「ああ、カマドウマ…」

あれが、人生の分かれ道だったのか。

直は小さな虫にえらく振り回されたような気がした。次あの虫にあったら、逃げずに成敗してくれよう、と思った。

「私の同居人はカマドウマなの?!て。それで、色々聞いてるうちに、分かったんだ。あ、この子がばあちゃんが孫なんだなって。それで、酔ってるのを良いことに、送って来た」

ごめんなさい、と薫は頭を下げた。

その肩から流れ落ちるはずの黒髪は、ない。こればかりはすぐに見慣れるものではなくて、直はもぞもぞ身じろぎしつつ言った。

「そもそも、なんで女の子の格好してたの?」

そのときすでに、薫は女装をしていたのだ。今はないが、うっすらと胸だってあった。薫が直のことをあの場で偶然知ったと言うのなら、これはどういうことか。

「あれは飲み会の余興にやらされてたんだけど、直さんは全然俺に気付いてないし、女の子だと思って同居まで言い出してくれたから、もう行けるところまで行くしかないなと思って」

高校では演劇部でした、と薫は今までの秘密主義はなんだったのだというような無駄な情報を開示した。

「なにそれ…そんなのでずっと騙してたわけ」

直は呆れて口が閉じられない。

薫はちらりと目をあげて直を見た。

「だって、男だってばらしたら、一緒に住もうなんていってくれないでしょ」

「当たり前だよ!そもそも送ってもらえないよ!というか送る時点で、誰か止めてよ!」

発端となったあの飲み会には、学部の知り合いがたくさんいたはずだ。酔っていたとはいえまさか全員が薫を女と思っていたはすがない。肩を竦めた薫は、言いにくそうに口を動かす。

「ああ…皆面白がっていたから。でも、俺の家本当に近所だし、まさか不埒な真似しないで送るだけって信用してもらえたんだと、思う」

不埒とは、どういうことを指すのだろう。性別を偽って同居人になることは不埒とは言わないのか。

直は、同居に至った経緯を思い出して唸った。

「肉体労働するって大和撫子が言い出したから、夜の世界に飛び込む気かと心配したのに…」

「ばれると思ったら、むしろ住まないかって誘ってくれたのはそういうことだったわけね」

ごめんなさい、ともう一度薫は頭を下げた。

「騙して、ごめん。嘘をつき続けてもここに住んでみたくなっちゃったんだ」

そう、真っ直ぐな目で告白すると、薫はその目をあちらこちらに向けた。柱にかかった日めくり、微かな傷のあるちゃぶ台の表、部屋の隅の藤製のくずかご、そんなもの一つ一つへ。

その懐かしむような眼差しだけで直は、彼には、この家の至るところに無数の思い出があるのだろうと思った。直などよりも、よっぽどたくさん。

ため息が、漏れた。

その気配に振り向いた薫と目を合わせて、直は言った。

「もう、いいよ。気付かなかった私も、鈍かったんだろうし…。お婆ちゃんもきっと…ダメにしちゃう前に乾物やお味噌を救ってもらえて喜んでると思うし」

ゆっくりと考えたままをそう伝えると、薫の眉はゆるゆると下がっていった。

「本当、ごめん。でも俺、ここで生活できて、すごく嬉しかったよ。うち、家族仲悪いからさ、ばあちゃんが死んだとき、すっごくさびしかったんだ。この家も壊されちゃうかもしれないと思ったし。でも、ばあちゃんの孫が住むことになって、その上一緒に住んでいいって言われて、舞い上がった」

舞い上がる。

直には、未だに分からない感覚だ。

この古くて虫の多い家に住めることに、薫は舞い上がるらしい。

理解しきれない直の心情を見て取ったのだろう、くすっと薫が笑った。

「それでも、直さんのこともよく知らなかったし、最初はちょっとだけのつもりだったんだ。でも、最初はなんにも知らない子だなって思ってたのが、だんだん、なんかずっとこうしてられたらなって思うようになっちゃって。だって、直さん、俺の作った地味な料理をおいしいおいしいって食べてくれるし、茗荷摘んで鼻息荒げるくらい大喜びするんだもん」

「は、鼻息なんて荒げてない!」

直は猛抗議した。

「うん、そこはいいけど」

「大体、私は女の子同士だと思ったからざっくばらんに接していたわけでねっ?ああ!」

急に叫び声をあげた直に、薫がびくりと飛び上がった。

「私、私、貴方が女の子だと思ってたから、キャミソール一枚で歩き回ってた!」

直は半泣きだった。

お風呂上がりにヘビーローテーションしているお気に入りのキャミソールワンピースを思い出したのだ。雑な洗濯で縮ませてしまったそれはかなり丈が短く、畳生活のこの家で床に座っている人の側を通れば、それは簡単に下着が見えてしまう長さだった。確かに、ずほらで適当な直の自業自得とも言えるが、同性ならば気にするほどではないと思っていたのも確かで、薫が異性だというならば、これほど恥ずかしいことはなかった。

「そ、それに、…」

言葉にならずに落ち込んだのは、着替えを持って行き忘れてバスタオル一枚で居間を通過したことや際どい服装でうたた寝していたことまで思い出してしまったからだ。対する薫は暑くても薄手のシャツを涼しげに着こなして風呂上がりにもきちんと服を着込んでいたが、それは慎ましやかな乙女の嗜みなどではなくて体型隠しだったのだと今なら分かる。

「恥ずかしすぎる…お嫁に行けない」

「ごめん…でも大丈夫、見てないから!」

真っ赤になってちゃぶ台に突っ伏した直に、薫もまた耳を赤くして両手を振った。

「ちゃんと見ないように気をつけてたから!安心して!」

力説されるうち、直はちょっと興奮が冷めてきた。

そもそも、見事なロングヘアの美女ではなかったとはいえ、薫の顔はそのままなのだから、正統派の美形だ。確かに大学生男子としては、薫の背は高い方ではないし女の子と言っても違和感のない華奢さだが、低すぎるわけではなく、大抵の女の子がヒールを履いてもそれより高いくらいだ。

となれば、引く手あまた、女の子と付き合いたければ選り取り見取りのはずであり、自分程度に興味をもつ理由がない。そこまで考えると、直は落ち着いて顔を上げた。

「…むしろ、今のは自意識過剰でした、ごめんなさい」

そして、未だ困った顔をしている薫の気持ちを軽くしようと、ちょっと我が儘っぽくねだった。

「あのさ、とりあえずお腹空いちゃった」

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