我が家からの逃走
直は飛び出した。玄関を開け放って、裸足のままの足がコンクリートで傷つくのも構わずに、夢中で駆けた。
早く。
遠くへ。
カマドウマも紫陽花も味噌樽の匂いも届かないところまで。
味噌汁の湯気のような、まとわりつくねっとりした暑気を、振り払うように走った。
――あの人は、誰。
お願い、と言ったとき、黒い瞳の奥にあるものは、本気だった。
本気なのだ。
直を恐怖させたのは、それだった。
――あれは、誰だ。
あの家に、何をしに現れた。
自分の骨を取り返しにきたのか。
あの人の正体は、死んであの庭に埋められた少女なのか。それとも。
十何本目かの街灯を越して、前方にコンビニの明かりが見えた。
直はそれでようやく立ち止まった。
息が切れて、胸が焼けるように苦しかった。けれど、それが生きていると実感させる。闇に飲み込まれずに、逃げ切ったと。
この先どうするかなど考えてもいなかったが、とにかく、逃げ切れた、と思った。
静かな住宅街に、店内から煌々と灯りが漏れている。直は、その光に羽虫のようにふらふらと吸い寄せられた。
虫除けの青い蛍光ライトの人工的な色が、ブウンというエアコンの室外機の音が、今日ばかりは酷く心地よい。
ここには、カマドウマも味噌樽もない。
そう直が、ほっと息を吐いたとき。
「捕まえた」
固い手が直の手首をつかんだ。
つかまった。
とっさに振りほどこうとするが、薫のすらりとした外見から想像もつかない強い力に、直は恐慌に陥って叫んだ。
「はなしてっ!!」
声が出せたのは、人工的な蛍光灯のお陰だ。明るい場所だ、他の人さえ来れば逃げられるかも知れないと、直はとっさに店へと目を走らせた。
まさにそのとき、店から一人の女性が出てきた。
救いの神だ。
直は彼女にすがる目を向け、もう一度叫ぼうとした。
女性もすぐにこちらに気付いて、驚いたように口を開いた。
「た」
「あら、薫君じゃない?」
出しかけた助けてという声は、大きく開けた口から言い切る前に消えた。
薫、と呼んだ。
この女性は、この人の、知り合いなのか。
なによりその声音の明るさに、直は続く言葉を奪われたのだが、それにしても。
薫、君と言ったか?
「こんばんわ、中村さん。お騒がせしてすみません」
直が混乱している間に、腕を掴んだ人物は直をしっかりとそばに引き寄せて女性と話を進める。
「あ、放…ぅぇ…」
近づいた体温に抗議しかけてまた、二人のあまりの和やかさに言葉はしぼんでいく。
口をぱくぱくさせて、結局またつぐんだ直を笑みを含んだ目で見て、中村というらしい女性が言った。
「痴話げんかってやつかしら?いいわねえ、若いって」
「あはは」
痴話?
喧嘩?
ともかく、直の隣で腕を掴んでいるこの人物は、他の人にも見えている。しかも、近所の人間として認識されているらしい。
直は驚いて、とうとう薫を見上げてしまった。
そして目を見開いて絶句した。
「あ、この人は佐々木さんのところのお孫さんです」
「まあ、佐々木のおばあちゃんの。それで、ねえ」
「!…こんばんわ…」
つつかれてなんとかかんとか挨拶をした直に、うふふと意味深に笑って、女性は去っていった。買い物袋がシャリシャリと音を立てる。
その姿が角を曲がって見えなくなるまで見送ると、直は仕方なく、もう一度薫へと視線を戻した。
「…」
「急に逃げるから、焦ったよ」
薫の声は、いつもより低かった。そして、何より大きな違いは。
直は、震える指を薫に向けた。
「髪…」
長かったはずの黒髪が、肩に付かないほどの長さになっていた。
「ああ。途中で落としたのかな?」
肩をすくめた薫は、先程とは違う意味で、まるきり別人に見えた。