我が家の住人
この前から手こずっていたレポートは結局、友人の手を借りて何とか間に合った。
夕方ギリギリに提出した直は、祝賀と称してカフェでお茶をすることになった。もちろん、お礼ということで、直のおごりである。
「珍しいね。あんた、勉強関係だけはきっちりしてるのに」
それ以外はかなり緩いと匂わされて、直はじとっと友人を睨んだ。
どこ吹く風とそれを鼻で笑う彼女は、芹野悠という。同じ学部で知り合った親友だ。
「それは、どういう意味かなあ」
「遅刻したり、寝坊したり、コンビニご飯ばっかりだったり、という駄目駄目な生活のわりには単位取得は自力で頑張っているのにという意味」
どこに突っ込めばいいのか礼を言えばいいのか、分からなくなって直はぐっと黙った。確かに生活力はないし、単位を落とせば母から大目玉を喰らうから他力本願になれずに勉強している。言われたことに間違いはなかった。
「あ、でも最近は…」
言いかけて、言葉が途中でため息に変わった。
「何よ。やっぱり何かあった?」
直は逡巡した。最近は、コンビニでないご飯を食べていたし、自分も手伝っていると言おうと思ったのだ。けれど、その途中で、それが悩みの種の薫のおかげであることに気付いてしまった。
なんと説明したものか。悩んでいる間に、注文したケーキセットが届いた。
悠は直の言葉を待たず、いただきますとさっさとモンブランを食べ始める。
直も、甘夏タルトをフォークでつつこうとしたが、考え直して先に紅茶を飲んだ。ここの店のストレートティーは少し渋味が出てしまっている。
口の中を湿らせて、言うべき言葉を探す。
「…薫さんって、同じ学部だよね」
悩んだ挙げ句、ぼそっとこう口に出した直に、友人は視線をケーキに向けたまま答えた。
「そんな名前の男いたようないないような」
違う、と首を振る。
「私が言ってるのは、女の子の薫さん。ほら、この前の学部の飲み会にいた、黒髪ストレートの」
「私、前回欠席したから」
「あ、そうだっけ。じゃ、ええと…」
悠はその後も、直の出したどの情報にも反応しなかった。そして粘ろうとする直に、しまいにはこう言った。
「そんな子、いたっけ?」
「いるよ…」
直も、自分の語気が弱くなっていることに気付かないわけにはいかなかった。
「大体、授業であったことあるの?」
「…たぶん」
はっきり、ないと言わなかったのは、認めたくなかったからかもしれない。
直は、彼女のことを何も知らない。そのことに今さら気付いてしまった。一緒に暮らして一緒の大学に通っていると思いながら、考えてみれば名前以外に何一つ知らなかった、いや、名前だって、本当かなど分からない。
すっかりぬるくなってしまったアイスティーを飲んで、直はオレンジ色のタルトを突き刺した。
シロップで煮こんだはずの甘夏は、薄皮が残っていたのか、ほのかに苦い味がした。
夕暮れの道を、直はアイスの入ったエコバックを持って歩く。
ビニールはもらいすぎてもゴミになるだけなので、アイス程度の買い物でもらう小さなものは断ってくるようになった。これも、薫が来てからの習慣だ。
だから、あの家では溢れたビニール袋が転がっているなんてことはおきず、しかるべき場所に収まっている。それは思いの外気持ちのいいことで、あの古くも整然とした家の空気にも、とてもよく合致していた。
ビニール袋だけではない。薫の行動は、どれもこれも、あの家の空気に合っている。まるで最初から、あの家の一部であるように。
直は、たどり着いた家の前で門から中を見つめた。
思えば、薫は最初からこの家に馴染んでいた。それは女子力の高さだと思っていたけれど、果たしてそうだったのか。手馴れているというだけでは、乾物や梅干のありかから食器の位置、果ては薬箱の在りかまで理解して動けることには、説明が付かないのではないか。
夕暮れ時の生ぬるい風が、庭の楓を揺らした。そのギザギザと尖った葉の一枚一枚が自分に牙をむいているように見えて、直は、初めてここへ尋ねてきたときのようなよそよそしさを感じた。
「直さん?」
――この人は、誰。
「お帰りなさい。今日は遅かったですね」
直は、ゆっくりと声のするほうを向いた。玄関に立っていたのはいつも通り、黒髪をたらした痩身の娘だ。しかし直は、そこに居るのが、見慣れた娘の皮をかぶった得体の知れない化け物であるように、感じた。
妙な重圧を感じて、脚が動かない。背筋を、いやな汗が伝って落ちた。
薫は、強ばった直の顔を見て、どこか悲しげにも見える笑顔を浮かべた。
「…もう、そろそろかな」
それは何についての期限なのか。おいしいご飯を与えてから獲物を食べるお菓子の家の魔女のイメージが浮かび、まさかと打ち消しながらも直は震えた。直にはどうしても聞くことが出来なかった。